#12:あたし、いいモノ持ってるよ?

 夏休みを迎えた来週の日曜日、僕たちは海に行くことになったらしい。なんで?


「合宿よ!」


 全員が呆気にとられた顔をしている前で、相変わらずビシッと指を突き出す先輩は力強く宣言する。

 

「「「「合宿?」」」」


 全員がハモる。ちなみに林檎も真綾ちゃんも、太陽が差し込み始めた西側の窓際で、造り付けデスクのPCと睨み合いを続けたままだ。魔導書の購入に余念がないらしいが、一応、話は聞いているようだ。

 僕とソアラだけが三人掛けの同じローソファで、向かい合う形で座ってipadの【シェルクラフター】をプレイしていたが、合宿という意外な言葉に思わず顔を上げた。


「合宿って聞くと、何かの部活とかサークルみたいね。ゲームサークルとか」


 ソアラが呟く。


「まぁ、ゲームやってるんだけどね。確かに」


 とはいえ、そのゲームで創ったものは実体化することができる。


「でも、なんで合宿なんです?」


 その問いかけに、今度は奥の大型テレビモニターに映っていた【ここな】が答える。


『来週、発電機をベースシェルターに設置する工事作業が入っています。他にも、浄水設備や浴室などの住環境を整える工事など。さすがにこれらの複雑な機械製品は【クァンタムセオリー】では今のところ作れませんから』


 なぜか早くもビキニ姿で腰に浮き輪まで巻いている。なのに、シュノーケルっていうのが意味不明ですよね。そんな【ここな】は見た目浮かれまくってるわりには、朴念仁ともいえる無表情さで口を開いた。

 余談だが、この時すでに林檎や真綾ちゃんには【クァンタムセオリー】や【コーデックス】について説明していた。もちろん、その他の僕らが知っていることについてもすべてだ。

 元々、ソアラは真綾ちゃんには話したがっていたし、僕も彼女たちに教えてもらうことはたくさんあった。にもかかわらず、知識だけ求めてこちらが彼女たちに何も真実を語らないで利用するだけなのは、フェアじゃない気がしたのだ。

 【ここな】だけは反対していたが、最終的に先輩も同意したことで折れた。

もちろん、これらのことについては絶対秘密をお願いしている。

 林檎は元々筋金入りのプレッパーだったので、それほどショックな様子ではなかったが、意外と真綾ちゃんの方もそう驚いている様子はなかった。

 もっとも、さすがにゲームで創ったものが、【クァンタムセオリー】によって目の前で実体化する様子を見たときには二人とも言葉を失っていたが。

 それはさておき、確かに来週、ベースシェルターの基本的な生活環境を維持するための設備工事が続々と入る予定になっている。これらの作業は例によって、この事務所ビルの浴室工事に当たってくれた叔父にお願いしてあるのだ。

 叔父は建築業界の人間で、僕の数少ない理解者の一人だった。


「工事業者が大勢くる前で、迂闊に【クァンタムセオリー】を使うわけにはいかないか」


 僕が呟くと、それに合わせて先輩が言った。


「そこで、この機会に【シェルクラフター】で一気に山全体のシェルター化を進めようと思うのよ。データを全員で片っ端から創り上げて、戻ってから一気に実体化転移処理できるようにしておくの」

「でもなんで海なの?」


 心底ウンザリしながら僕は言う。そんな僕に、ダメな生徒を注意する先生よろしく、先輩がビシっと伸ばした指を僕に向ける。


「合宿といえば海だからよ!」


 さも当然と言わんばかりである。これだからリア充JKは……。


「えー、いや、別に海じゃなくても……」

「うん、あたし賛成!」

「我も賛成である。……お、お兄ちゃんと海……行きたい……」

「ま、真綾も……海……好き」


 僕以外は超ノリ気であることに、満足気に微笑みながら先輩が頷く。


「全員一致で海に決定ね!」


 いや、全員じゃない……。


「あ、でもさ……。この時期だよ? 今からじゃ海の近くに泊まれるところなんて予約一杯なんじゃないかな」

「問題ないわ。うちの別荘を使ってもらうから」


 出たよ……。

 

 僕の最後の抵抗は、こうしてラノベなんかではありがちな、良家のお嬢様なら当然持ってますと言わんばかりの『うちの海辺の別荘を使って』というお約束が適用される。


「さすがこの町一番の名士、工藤家ね……」


 ソアラが僕に耳打ちした。僕は苦笑する。実際、すごいお金持ちなのは確かだ。


「先輩、ぐっじょぶなのである」

「……ま、真綾、水着……買わないと」

「遊びじゃないのよ。浮かれちゃだめ。あくまでも合宿なの。朝から晩まで【シェルクラフター】で創り込むんだから。花火と浮き輪、それにシートとビーチパラソルはアガナくんが用意してね」


 あんた一番浮かれまくっとるやないか……。


「あ! あたし、スイカ割りしたい!」

「採用!」


 ソアラが元気よく手をあげ、すかさず先輩がまた先生のようにビシッと指さした。


 朝から晩まで創り込むんですよねー!?


 みんな、大盛り上がりでテンションあげていたが、僕は正直、あんなリア中どもの巣窟のような場所に行くことが憂鬱で仕方がない。先輩はその後、真綾ちゃんのラインナップが気にいったらしく(意外とあの二人は趣味が合うらしい……やめて)、一緒に妖しい本の選定にはいった。

 僕とソアラは再び【シェルクラフター】での作業に戻る。


「海かー。すっごい楽しみ」


 などとソアラは何気なく呟いた。ちなみに彼女が主体になって、この地下書庫のデザインは組まれている。

 僕は普通の図書館みたいに書架が規則正しく並ぶような箱型の室内をイメージしていたが、彼女の描く書庫のデザインは、もっと有機的というか前述の通りカフェテリアをイメージしたものだった。

 温かみのあるうっすら木目調を多用したカントリーなデザインで、女の娘が好みそうなオシャレな空間だった。

 観葉植物をいたるところに配置して、大きめの水槽で熱帯魚を飼ったり、中央には円形の木製カウンターを配置してカフェバーにしたいらしい。シーリングライトで照らすなど、スタイリッシュな椅子を用意して、ゆったりコーヒーを飲める空間が夢なんだとか。


「水着買いに行かないとねー。あたし、去年のもう合わないし」

「ん? 太ったの? ……いてっ」


 別に悪気のない一言のつもりだったが、すかさず同じソファで向かい合って座っていたソアラの右足が、僕の顔を容赦なく蹴り上げる。顔の中央にある大して高くもない鼻に見事に直撃した。


 だから、その体勢で足あげるとパンツ見えますよ?


「女子に気安く太ったとかゆーな!」

「すびばせん……」

「だいたい太ったんじゃないわよ。胸が合わなくなったの!」

「へ、へぇ……」


 条件反射というか、思わず目線が彼女の胸元に向かいそうになったところで、ソアラと目が合い、ipadを思い切り胸元に寄せて隠すようにしながら、きつく僕を睨みつけた。


「こ、こっち見んな! ヤラしい! キモい!」

「み、見てないよ!(まだ) それに自分で言ったんだろ!?」

「う、うっさい! うっさい!」


――こ、この女は……!


 問答無用に力任せの足が素早く僕の顔に向かって伸びる。両手はipadを抱きしめるように持って胸を隠しているので、足で蹴りたいと言うより僕の視線を外に向かわせたいんだろうけど、結果としてパンツが見えるんだよ! いいんだけどね!?

 胸隠してパンツ隠さずなんだよ! 気付けよ! いいんだけどね!?


「いてっ! ちょっ、いいかげん……」


 あまりに容赦なく蹴りつけてくるので、とうとう僕は彼女の両足を掴み、蹴りを防ごうとした。

 そんな僕の行動が予想外だったのか。ソアラの顔が驚きの色に染まる。


「え? ちょっ、まっ!?」


 最初、足を掴んで横へ払おうとした。ところが彼女の繊細で白く細い両脚は意外なほど軽く、思っていた以上に軽々と華奢でくびれた下半身が一気に浮かび上がった。

 ミニスカートの裾が重力に従って捲れあがる。

 スカートの奥の禁断の領域が目に入りかけた僕は、急激な血液の上昇が脳内で起こり、そこでようやく一瞬、硬直する。


「あ……白……?」

「くぉぉのぉぉぉぉ変態がっ!」


 恥ずかしさで顔を赤くしながら涙目になって震えるソアラは、怒りにまかせてソファの下に転がっていたそれを掴んだ。力任せに振り上げたそれを見たのと同時に、僕の視界はブラックアウトする。

 姫ノ宮ココナのフィギュアだった(またかよ)……。


 結局、ソファの上で作業そっちのけになりながら、いい歳した高校生の男女がプロレスのようなことをしたあげく、顔面強打を受けて倒れた僕が目を覚ましたのは、数分後だ。気がつくと、同じソファの反対側で、両足をぴっちりと揃えてクッションの奥に隠すようにしていたソアラが、少しだけ涙目になって不機嫌そうに【シェルクラフター】に没頭していた。


「……」

「ご、ごめん……つい……」


 ソアラは、謝る僕に対して聞く耳もたないとばかりにそっぽを向く。


「えっと……」

「明日!」

「え?」

「明日、水着買いに行くから、あんたは荷物持ち」

「あ、うん。分かったよ」

「じゃあ、許す!」

「……」


 意外とあっさり許してくれたソアラは、その後はニコニコと機嫌良さそうにゲームに没頭していた。あまりに清々しく機嫌を直してくれたことにあっけに取られて、僕は言葉を失っていた。もうちょっと怒るかと思ってたよ。

 いや、まあ、怒ってたんだけど。


「でも、あんただって水着ないんじゃないの? 買いに行かなくていいの?」

「いいんだよ。僕は」

「は? なんで?」

「泳がない。別荘でゲームしてる……」

「……」


 ソファに置いていたクッションを胸のところで抱きかかえながら足と胸を隠して、ipadを操作していたソアラは、露骨にシラけた顔を僕に向けた。

 僕はあえて、そんな視線を無視して作業に没頭する。


「だいたい、水着買うとか、前回行った店以上にイケメン店員とイケメン客に囲まれそうじゃないか。しかも、おもいっきり日焼けしたリア充っぽいのがたくさんいそうだし、あんなトコもう二度と行くもんか」

「あんたって、相変わらずよね……」


 ソアラが呆れた視線を僕に向ける。

 そんな時だった。


「……」


 先ほどからずっとPCに向かって魔導書選定に余念のなかった悪魔司書こと、東雲林檎しののめりんごさんが、おもむろに僕が座っているソファの横のカバンをごそごそと探り出す。


「どした? 林檎」

「お、お兄ちゃん……あたし……我、いいモノ持ってる」


 そう言って嬉しそうに彼女が取り出したもの、それは、白地のトランクスタイプの男物水着だった。


「な……!?」

「今日、新しい動画アップ用のアクションカメラをいつも行く家電量販店で買った。そしたら、夏休みキャンペーンだからってくれたの」


 アクションカメラというのは、よくネットでスポーティな動画を配信している人たちが、自分の目線で映像を視聴者に送るために使う超小型カメラのことだ。

 バイクで走り抜ける爽快感や、大空の彼方からダイブするスリル、海に潜ったときに広がる神秘的な光景など、超小型なので撮影者の動きを邪魔することなく、視聴者に撮影者目線のリアルで迫力ある映像を送ることができる。

 夏休みなどで、キャンプや旅行で遊んだ先の映像を動画で送るような人たちも最近は多いらしい。

 林檎と真綾ちゃんは、よく海や山でのサバイバル技術を紹介する動画を作っているので、こういうものはよく使うんだろう。

 それは分かるんだ。それはな……。


「……」


 問題はキャンペーンとか言って購入者にプレゼントされたこの水着の前、ちょうど中央に縦字で書かれた力強い筆さばきの文字だろう。







『人類史上最小レベル! なのに高性能!』

 






  んんんんんんんんんんんんんんんんんーーーーーーーー!? 


『小さくても高性能ならいいじゃないですか』


 【ここな】が言う。


 『も』ってなんだよ!? それ慰めてんの!?


 見るとはしっこに小さく『オリエン電機工業』って書いてる……。

 それを見て超ビミョーな顔をした僕がそこにいた。一応、林檎の方に再び目を向ける。

 絹のように滑らかで光沢のある黒髪ショート、零れ落ちそうな大きな瞳に、繊細な細い眉、苺のような小さくて可愛い唇は、幼さの中に危険なエロスが潜んでいるような危うさがある。そんな林檎は、拗らせた中二病と若干ブラコンであるという点を除けば、間違いなく美少女と言っても過言ではない。

 そしてその林檎は今、ものすごく罪のない純粋無垢な笑顔で、僕のために何かできることを本当に嬉しく思っているとばかりに真っ直ぐな瞳を向けてくる。

 褒めて、褒めて、とふんわりした頭を僕に寄せていた。

 そ、そうか……。悪意はないんだな……悪意は。


 ……でもオリエン電機工業、おまえらに悪意はあるだろ……?


――しかし……コレを人がいっぱいいるビーチで穿くくらいなら、普通にイケメン

  まみれの店に突撃してフツーの水着買いますよ?


 そ、そうだ……。

 不本意だが、ここはまたこの間みたいにソアラに店に付き合ってもらって……。


「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ!!」


 見ると、ソアラはクッションを抱えたままソファに正座したような状態で突っ伏し、バンバンと苦しそうにソファの端を叩いている。

 もはや声も出せないくらいにお腹がよじれて止まらない様子だった。さっきとは違った涙眼になっていて、やっぱり顔も赤い。

 そーかそーか、そんなに笑いすぎて苦しいか。


「おい、そこのデスゾアラ」

「デ、デスゾアラってゆーな!」


 ハァハァ、と苦しそうに喘ぎながら瞳の端を指で拭って、なんとか声に出すものの、顔をあげた瞬間に僕が手にしているその悪魔水着がまた目に入ったのだろう。

 再び込み上げてきたモノに悶え苦しみ、すぐさまクッションに顔を埋める。

 絶頂の最中にあるかのような小刻みな震えが彼女の全身から伝わってくるようだ。


「あーもうダメ! あんた、それ穿いていきなさいよー! せっかく林檎がくれたんだから。てゆーかそれ決定。それ穿いたらさっきのこと許してあげる」

「は!? 許すって言ったじゃん!」

「だめー! それ穿かないと許さなーい!」


 あかんべーしながら、クッションを抱えて性悪な笑みを浮かべる。

 その横で、ソアラとは正反対のなんの罪もない笑顔の林檎が、やっぱり褒めてーと言わんばかりに見つめてくる。

 こんなのリア充まみれの砂浜で穿いてたら、フツーに変態扱いされて寒い視線を一身に受けてしまう。

 最悪、屈強なライフセーバーの兄貴たちに職務質問的な声をかけられ……。


『俺と兄貴のビーチで熱い人工呼吸』


「……」


 たまたま真綾ちゃんが新たに買い物カゴに入れたガチホモ小説が僕の心をさらに凹ませた。

 

 まあ、そんなわけで――。


 我らがゲームサークルは、そんなこんなで夏休みが始まる来週、先輩の別荘がある海に合宿することになった。

 水着、やっぱあれ穿かないとダメかな……。

 一応、林檎にはお礼を言いながら頭を撫でつつ、どうしたものかと溜息をついていた。







『……昨日、成田空港に到着してまもなく、高熱を出すなどの体調不良を訴えていた男性が、国立国際ウイルス研究センターに搬送された件について、同センター長の清水健センター長が記者会見しました。男性が搬送されてまもなく、徹底した検査を行ったところ、男性の体内からゼノウイルスは発見されておらず、まもなく快方に向かっているとのこと。また、一時的に隔離されている男性が乗っていた機内すべての乗客を検査しましたが、誰ひとり体調悪化を訴える人は出ておらず、また検査の結果も陰性であると発表しました。これを受け……』


 その日の深夜。

 日本のある場所。

 もしも『世界の終わり』の始まりがあるのなら、おそらく、それはこういった人口の少ない集落か村から始まっていくのではないか。

 今年で40を迎える榊誠一郎は、そんなことを思いながら郊外に建てられた誰もいないビルの一室に立ち、心の中で呟いた。

 歳の割りに身体は鍛えられていて無駄な筋肉はほぼ見られない。身長も高く、180を超えている彼は、およそ、白衣が似合うタイプではなかった。

 どちらかといえばラグビー選手のようながっしりとした体躯だ。

 精悍な顔付の顎元にはきちんと手入れされた短めの髭が生え、髪は学生時代からずっと短めに切りそろえられている。

 そんな彼は、ずっと誰かを待ちながら、タバコを口にくわえて窓からの不気味な漆黒の夜景を眺めていた。

 ここは山林地帯の真っ只中にある盆地で、四方を森で囲まれ、町の中心部からは少し遠い。すぐ目の前には高速道路が走っているが、高速の入り口に入るには一旦町の方にまでまず戻らなければならない。こういった場所に彼が勤める製薬会社や食料品加工工場など、様々な企業の工場がまばらにある。

 土地も安いので各社、高さよりも広大さで競い合うかのような建物をここぞとばかりに建造していた。

 彼がいるフロアは、この工場兼エリア本部ビルを兼ねた建物であり、15階建てのほぼ中央にある。職員の休憩室としてのカフェテリアとなっている場所だ。

 およそ百人前後がそこで食事を取れるくらいの広さがあった。しかし今は誰の姿もなく、榊一人がいるだけで、照明も彼がいる周囲だけが必要最低限に灯されていた。

 例えばここで何か危険なことが企てられた場合、外には漏れ難いだろう。もし、世界の終わりを企てる何者かがいたなら、ここで何かの準備をするには打ってつけだ。

 最近読んだミステリー小説の影響か、妄想めいたことだと自嘲しながら、榊はタバコの火をくゆらせ、窓から見える漆黒の闇を見つめる。

 そんな中、一人の女性がドアを開けてフロアに入ってきた。

 この場にそぐわないクリーニングの行届いたスーツ姿の女性だ。 


「榊主任、部長から連絡です。厚生労働省の矢野さんと国立感染予防研究所の杉下さんが来られたそうです。すぐに“ホットゾーン”まで来るようにと」


 女性は必要なことだけを告げて、榊が振り返って頷くのを確認すると、一礼して再びその場を去った。

 彼女が去ったあと、榊は手にしていたタバコを手近なテーブルの灰皿に捨て、フロアを去る。その直後、かろうじて榊のいた周囲だけに灯されていた明かりは、自動で消され、完全な闇と静けさがあたりを支配した。

 まるで世界の終わりが降り立ったかのように。




 “ホットゾーン”。ある種の皮肉である。こういった呼び方をしているのは研究者たちの間だけで、役員たちはその呼び方を表向きは嫌っていた。

 しかし、それは認識の甘さから来る勘違いというものだろう。榊はそう思っていた。彼らにとっては分厚いガラス壁で隔てた向こう側の世界の危険など、遠い海を隔てた戦争地帯と変わらない印象なのではないか。

 さながらこのガラス壁の向こうにいる防護服を着た連中を、戦場ジャーナリストのようなものだと。まあ、確かに周囲の人間はレベル4で働く人間のことを同じくらいイカれていると思っている。

 しかし、榊は知っている。

 ホットゾーン。危険地帯。空気さえも危険であるこの世界は、確かに今、この地上で地続きに存在する世界なのだ。

 この場所をガラス壁で隔てたところで、その向こうのウイルスたちは、そんな人間たちを嘲笑っていることだろう。


「マスコミには今のところ漏れてはいないようだな」


 部長の前島であるスーツ姿の小太りな壮年男性が、遅れて入室した榊に言った。

 榊は静かに頷く。

 そこにはすでに男性と同じようなスーツ姿の男が二人立っていて、神経質な視線を榊に投げかけた。

 しかし、それもすぐに興味をなくしたのか、再びガラス壁の向こうの景色へと戻される。向こう側では現在、数人の人間が宇宙服のようなブルーの防護服を着て作業に当たっている。

 彼らは中央の手術台のようなところに寝かされた人物を中心にして忙しなく動き回っていた。その一方で患者と見られる人物のバイタルは緩慢な数値を見せている。

 その人物は呼吸器をつけられて、かろうじてまだ生きているかのような姿だった。

 充血した目の端からはかなり前から出血が続いているらしく、赤黒い粘性の液体が凝結しているのが見て取れた。

 顔の皮膚は乾燥しているかのようにささくれ、不気味な紫色に変色している。組織が壊死しているのか、あちこち破けた皮膚から出血し、耳の端がギザギザになって千切れていた。

 その目はぼんやりと開かれ、天井を見ているものの、虚ろで正常な意識があるようには思えない。耳や鼻、口からもやはり出血が続いていた。

 この状態にも関わらず、患者であるこの人物の両手両足、そして首下は厳重にベルトで固定されている。ショック状態で痙攣を繰り返す彼を守るためというよりは、彼自身を拘束するためのようだった。


「それで? 聞くまでもないがどうだ? やはりゼノウイルスか?」

「はい」


 榊はなんの感傷もない表情で前島の問いかけに短く答えた。

 役人である二人の男たちも、特に驚く様子はない。ここに来るまでにすでにだいたいの状況を聞いて、ある程度予測はしていたのだろう。

 だからこそ、すでにマスコミへの対応を早い段階で手を打ったのだ。


(昔からこうした対応は早いものだ)


 榊は内心で静かに毒づく。


「やはり感染していたか」

「成田に到着した時点ですでに“炸裂”していた。機内の他の乗客にも感染は広がっているかもしれん」


 役人の二人がお互いにそう語り合った。一人が榊に向き直り問う。


「発症までどれくらいかね」

「一概に言えるものではありませんが、WHOの情報では2日。しかし、今回はずっと早い。恐らく彼の場合は感染経路に関係があるのかもしれませんが、発症まで1日と経っていません」

「つまり発症して数時間でこの状況ということかね?」

「そうです。あらゆる抗ウイルス剤を試しましたが、今のところ効果はありません」


 彼らは榊の極めて抑揚のない説明を受けながら、落ち着き払ってはいるものの、目の前の惨い光景に言葉を失くす。


「あと、どれくらいだ?」

「一日ともたないでしょう。正直に申し上げて、今、この時点で生きていることの方が驚きです。このウイルスは感染者の免疫系を完全に破壊するだけでなく、操作までする。彼の臓器は免疫システムの攻撃に晒されて今はもう壊死しています。おそらく、すでにあの中にあるのはゲル状のプリンに似た物体で臓器ではなくなっている」

「今の時点で分かっていることがあれば教えて欲しいんだが、ゼノは人間の脳と眼球、それに性器内部に好んで繁殖することが分かっているようだが、それはなぜだ? 【転化】と関係があるのかね?」

「不明です」

「なぜ、【転化】という現象が起こる?」

「それも不明です」


 役人たちは大げさなまでに溜息をついた。結局のところ、感染者がいることが分かったのだ。この先のことを考えれば溜息も出るだろう。

 この国はゼノウイルスに対し、水際の防御に失敗したのだ。

 その上、ウイルスの正体はいまだ掴めていなかった。これほど危険なウイルスに出会ったのは人類史上初めてかもしれない。

 有史以来、人間を殺すウイルスは数多く存在している。ゼノウイルスの殺し方は、残虐この上ないが、“彼ら”のように人間をその定義から殺していくようなウイルスは、これまでも存在していた。

 しかし、このウイルスは、ただ人間を殺すだけではなかった。人間を別の存在に変えてしまうのだ。【転化】という形で。


「もう一つ聞きたい。【転化】はどれくらいで……」


 その時だった。室内にピーという電子音が耳障りなほど強く鳴り響いた。作業していた防護服の一人が慌てて患者に駆け寄り、その胸に手を当てて心臓マッサージを始める。その間に電気ショックを与えるAEDの準備に取り掛かっていた数人が、マッサージをしていた人物が退くのと同時に、胸に当てた。バクンという激しい音と同時に、患者の身体が大きく跳ね上がる。

 すぐさま心臓マッサージが再び行われるが、数分間、いくらそれらを繰り返しても患者のバイタルが戻ることはなかった。


『主任……』


 気がつくと、それまで忙しなく動き回っていた防護服の研究員たちが、全員立ち止まって中央の患者をじっと見据えている中、一人が壁際のマイクに向かってこちらを呼びかけてきた。

 もはや、患者の心拍数と血圧をモニターしていたバイタルサイン機器は完全に沈黙していた。

 呼ばれた榊は、すぐに手近にあった電話の受話器を取る。向こう側の室内のスピーカーと通じていた。


「【転化】が始まるぞ。エトルフィン投与準備。他は退避しろ」


 榊の指示を受け、すぐにその場にいた何人かが逃げるように室内から退避し、消毒室に向かう。

 その間、二人の作業員がその場に残って注射器の準備をした。

 あらかじめ用意されていたものらしく、作業員は注射器の先を外し、いくらか液体を飛ばして確認する。そしてすぐにその注射器を患者の傍に立って何かを待っていた。少し緊張しているのか、もう一人の研究員と共に頷きあった。


「まもなくです」


 前島が呟き、役人たちが身を乗り出してガラス壁の向こうを注視する。実際のところ、彼らが見に来たのはこの現象なのだろう。


「……」


 たっぷり5分もの沈黙の時間が過ぎたときだった。

 瞳を見開き、絶命したかのように思われた患者の目が、突然、それまで以上に大きく見開き、その血走った目を糸で操られるかのようにぐりぐりと動かす。


「ギギギギギギギギぎぎぎぎぃぃぃぃぃぃぃぃがががあああああああァァァァァッ」


あちこちバラバラに視線がめぐったかと思うと、顔中に血管が浮かび上がり、それまで力なくぼんやりしていた者とは思えないほど、凄まじい雄たけびを上げ始めた。

 その声は、とても人間のものとは思えない不気味で耳障りな叫び声だった。

 四肢をベルトで固定されているにもかかわらず、今にも引き裂きそうなほどに暴れる。ガラス越しの榊たちには聞こえないが、もし、その邪悪な叫び声が聞こえたら、役人たちはそれだけで卒倒しそうだった。死んだはずの人間が、目の前で暴れまわっているのだ。これ以上におぞましい光景があるだろうか。


「なにしてる! 早く注射しろ!」


 あまりの不気味さと恐ろしさに硬直していた作業員に、榊は語気を強めて命令する。はっとなった作業員は、ようやく動けるようになったのか手にしていた注射器を患者のこめかみ部分を刺し貫き、中の液体を注入させた。

 しかし、それでもすぐには効果がでないのか、しばらく死んだ患者は暴れ続けていた。


「効果ないのか?」


 役人の一人が焦ったように誰にいうでもなく呟く。


「いいえ、効果はあります。死んでからも数分は脳のいくらかはまだ活動していますから。ただ、血管内の血流がすでに『動いていない』為に薬物が浸透しないんです」

「だから脳に直接注射を?」

「……」


 沈黙しながら頷く榊に、この時、初めて役人たち二人が青ざめたような顔をしてお互いを見合った。


「WHOから極秘の通達が合ったときには、何かの冗談かと思ったが……」

「それで、アレは殺せるのかね? すでに死んでいるアレは」


 もはや役人たちの目には、あれは患者ではなく、人間ですらなくなっている物言いだった。そしてそれは実際、正しい。

 アレはすでに人間とは別種の存在だった。

 榊は役人たちの内心の恐怖を見透かし、可笑しくて仕方がないという気持ちを抑えるのに苦労した。

 あらゆる事態で冷静さを保とうとする彼らだったが、今回のこの現象を前に平静ではいられないのが、ありありとその表情で見て取れる。彼らは完全に恐れている。


(連中もすでにWHOが非公式に寄せた西アフリカの映像は見ているだろうが、実際に【転化】を見るのは初めてだろうからな)


 皮肉な笑みをかすかに浮かべる。

 役人の二人はそんな榊の薄い笑みには気付かず、その後、部長の前島へと向き直った。


「前島さん。わたしたちはこの後、早急に首相官邸へと向かい、総理に直接報告をあげなければいけません。今後の対策が必要だ。くれぐれもこの件は内密にお願いします」


 その後、社交辞令での会釈だけして小走りに去る役人たちの背を見つめながら、榊は残された前島に顔を向けた。

 彼は静かにタバコをスーツの内ポケットから取り出した。

 危険な微生物を扱うこの区画では、タバコは一切禁止となっているが、榊はあえて何も言わなかった。

 前島はタバコに火をつけながら、ただ静かに“元”患者を見つめている。あれほどのおぞましい光景にも関わらず、彼は落ち着いていた。


「ふん、死んでいるだと? 動きまわっているあれを見て、連中もだいぶイカれてきているな。……榊、あれは本当に死んでいるのか?」

「ええ、死んでいます。それは間違いありません」

「そうか……なるほど。すると、死人が動き回っているわけか……」

「……」

「なぁ、榊。俺たちは今後、人間を生かす薬を作るべきか? それとも死んでいるはずの人間をもう一度殺す薬を作るべきか? どっちなんだろうな」


 恐れるでもなく、混乱するでもなく、ただ静かに前島は呟いた。







「これから生者と死者、どちらの顧客が増えると思う?」






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