#10:そのとき、彼女は僕をどう思うだろう
「え、えっとぉ……」
駅前広場から歩いて1,2分のファミレスに今、僕らはいる。先ほどから十分くらい、お互いを見つめあったまま、なんとも言えない重苦しい空気の中で硬直していた。
目の前には、エヴァンジェリンと真綾ちゃんというコが座っていて、土曜日だけど学校帰りなのか、二人は同じ学校の制服を着ている。
首元には濃い目のチョコレート色をしたリボン、薄いココア色のチェックのプリーツスカートに白いブラウス、スカートと同じ柄のブレザーを着ていた。
すごく可愛い感じだ。制服は……。顔に、お揃いのものすごくマッチョなイスラエル製ガスマスクを被っているのだけは、ものすごく残念と言わざるをえない。
コミュニタイドで軽く挨拶したときの話だと、二人とも十四歳で僕らより二つ年下らしい。
その二人は先ほどからずっと黙ったまま、昔、テレビのやらせドキュメンタリーで見た、捕獲された宇宙人を思わせる大きく暗い穴のような双眸で、不気味に僕を見つめ続けている。
(こ、こぇぇぇぇぇぇぇ! 超こぇぇぇぇぇぇぇ! 何これ?)
ちなみに、僕を真ん中にして左に座っているソアラは、もはや蒼白な顔で下を向き続けている。右に座っている先輩は、にこにこと二人を見つめていた。
そして土曜の昼ごろのファミレスといえば、子供連れのママ友グループから遊びに出かける高校生まで、とにかく一番騒がしい時間帯でもあり、店内はいろんな声で溢れているはずにもかかわらず、あたりはしんと静まり返っている。
そんな店内で唯一、響いていたのは、先ほどからマスクの内側で聞こえるしゅこーしゅこーという呼吸音だけだった。無駄に軽快なBGMが、むしろ滑稽といえた。
オーダーを取りにきたお姉さんの顔が青ざめていて、気のせいか声が震えているようだった。
適当にコーヒーなんかを注文する。
気のせいか、先ほどから真綾ちゃん(だと思う)の方は、しきりにソアラとの視線を避けようとして僕の方を見ているような気がした。
ちなみに黒髪ショートカットのコがエヴァンジェリンで、彼女より少し長い茶髪ボブカットの女の子が真綾ちゃんだったと思う。
「はじめまして。わたしは工藤雪音。アガナくんとこちらのソアラちゃんの先輩で友達よ。あなた達が、エヴァンジェリンちゃんと真綾ちゃん?」
雪音先輩がいつもの女神のような優しい微笑みを湛えながら、なかなか声に出せない僕とソアラに代わって、まず最初に自己紹介してくれた。
すると、ショートカットの方の女の子、恐らくエヴァンジェリンだと思われる方が頷いた。
「いかにも! わたしこそが【深遠なる闇の戦姫】、アビスノア・クロニクルの二つ名を持つダークエルフの生まれ変わりであり、真の名は、エヴァンジェリン・ヴァンホーデン。我が半身との盟約により、ここに降臨した」
「……え、えと、真綾……です。リ、リンゴの……じゃなかった。エヴァンジェリンちゃんの……えと、しゃ、しゃば、しゃばば……ば……」
「ば?」
つい、僕が聞き返してしまってその声に驚いたのか、真綾ちゃんは、びくっとしながら元々細くて小さい体をさらに小さくさせてしまった。相当緊張しているらしく、声が震えているようだった。
その上、途中で言いかけていたことを忘れてしまったのか、言葉が続かずに困っているようらしい。そのあたふたとした様子が、小動物のようでなんだか可愛い。
ガスマスク姿でさえなければ……。
「真綾ちん、サーヴァント」
「そ、そう、さーばんと!」
「えっと……なにかしら? サーヴァント?」
雪音先輩が、びくびくとした小動物に対してそっと優しく問いかけた。
真綾ちゃん自身、あまりよく分かっていないのか、少し困ったように顔、もといガスマスクを背けながら何かを必死に思い出すかのようにしている。
えーと、えーと、と苦悶している様子がやっぱりなんだか可愛い。
「あの……さーばんとっていうのは、エヴァンジェリンちゃんに呼ばれたらすぐ駆けつけて、一緒に遊んだり、お手伝いしたり、あと、時々慰めたり……」
「ちがぁーーーーーう! サーヴァントというのは強力な呪法によって主従関係を結んだ使い魔であり、マスターの呼びかけに素早く応じて現世に出現し、マスターと共に戦闘に参加する者のことなのである! ちなみに、真綾ちんは基本、呼び出さなくても普段から主人公の傍にいる相棒的な存在という設定」
今、設定っていいました?
「そ、そーそー、そんなかんじ……この間は、一緒にヤマメと戦ったの」
「ヤマメ……強力な敵だった……」
エヴァンジェリンが静かに顔を沈め、まるで過ぎ去った遠い過去の
――おまえはいったい、何を言っているんだ?
「え、えと……その、ガスマスク? 外せない? あ、もしかして動画で顔出しできないから、ここでも無理とか?」
いやでも、さすがにガスマスクはないですよね?
なんとかここに来て、ソアラが少し青ざめた顔を無理に笑顔にして話しかける。
さらに二人には見えない位置で、僕のわき腹を肘で小突き、『あんたも何か話しなさいよ』とばかりに睨みつけてくる。
僕はコミュ障を拗らせつつ、戸惑いつつ、なんとか声に出してみた。
「あ、あの……。ぼ、僕が、こ、今回、エヴァンジェリンさんと真綾さんに……
その……連絡した……ひぃっ!?」
そこまで言いかけて突然、エヴァンジェリンが、がばっと立ち上がった。思わず、仰け反る僕を尻目に、おもむろにエヴァンジェリンはガスマスクを脱ぐ。
両手でマスクの前後をしっかりと掴んで、左右に揺らすようにしてマスクを脱ぐ。
そこから覗く相貌は、まだ少し幼いながらも溜息が出るほど端正な顔立ちをしていた。絹のような光沢を放つ漆黒の黒髪は、癖のない直毛でさらりと流れるように伸びている。
繊細そうな線の細い輪郭と淡い桃色をした薄い唇は、今はやや開かれ、そこから熱っぽい吐息が漏れる。長い睫毛、零れ落ちそうなほど大きな瞳は、何かの激しい感情に揺れていて、僕を真っ直ぐに見つめていた。
「あ、あなたが【AGA07】……なの?」
「は、はい! ……ご、ごめんなさい!」
突然、口調の変わったエヴァンジェリンに圧倒され、気の弱い僕はかなりビビって意味もなく謝る。そんな僕の言葉に、突如、エヴァンジェリンがテーブル越しに身を屈めて乗り出し、その繊細で細い指先を僕の頬に這わせようとした。
いきなりの出来事に、今度こそ、僕はビビって固まる。
「ストップ! ストップ! ちょ、ちょっと、いきなり何してんのよ!? 言っとくけど、コイツ、今日久しぶりに山を下りてきた筋金入りの引きこもりなんだから、あんまり動揺するようなことしないでくれる!? 二度と人に慣れなくなるじゃない」
そう言いながら、慌てて、ソアラが両手を広げて牽制するかのように僕とエヴァンジェリンの間に入って、彼女を引き止めた。
(僕は虐待されたペットか何かか……)
「し、失礼した……。つい、現世で唯一盟約の契りを交わした者との邂逅を果たし、思わず我を忘れた……」
無意識に出た突飛な行動が、自分でも少し恥ずかしかったのか、エヴァンジェリンはそっと顔を背けながら改めて椅子に座りなおした。
「その盟約って何のことなのかしら? 何度もエヴァンジェリンちゃん、言ってることだけど。アガナくん、このコに何かしたの?」
雪音先輩が僕の方に向き直って問いかける。なんか、笑顔なんだけど目が据わってて怖いんですけど。しかし、ソアラだけは真顔になって、ないないとばかりに口を開いた。
「コレ、究極のヘタレですよ? 至高のひきこもりだし、ハイエンドコミュ障だし。今日だって、エヴァちゃんたちに会うのに、七時間も前からお風呂に入って、延々どうコミュニケーション取ったらいいかで悩んだあげく、ひたすら身体磨きまくってたんですよ? キモいけど、アガナが女の子に何かするなんてありえないです」
ちょっとぉぉぉぉぉ!
なんで、そぉいうこと、この場で晒しちゃうのぉぉぉぉぉ!
僕の立場が早くも超ヘタレに格下げやないかぁぁぁぁぁぁぁ!
もうヤダ! 初めて会った年下の女の子(ガスマスク着用)に早くも
変態みたいに見られちゃったじゃないぃぃぃぃ!
と思って、ソアラの容赦ない公然暴露羞恥に思わず両手で顔を覆って悶絶していたんですけどね……。
「わ、わたしのためにそこまで……」
エヴァンジェリンが俯きながら切なそうにそう呟き、顔を赤く染める。
すかさずソアラが渾身の力を込めて両手で僕の襟元を掴みあげた。
「ねぇ、どぉいうことなの? これ。完全に事案みたいなんですケド?」
「うふふふ。困ったわね、アガナくん。そんなに身体を洗って何をする気だったの?」
先輩のいつも微笑んだ瞳が、すぅーっと細められ、ほのかな殺意が浮かぶ。
「ま、待って! ほんと! 誤解! 誤解だから!」
首が絞まって苦しさのあまりうまく喋れない中、僕は弁明する。エヴァンジェリンは恥ずかしそうに口元に手を添えて、あらぬ方向を見つめながら呟いた。
「わ、我が半身とは、初めて会った『モンスト』の世界で魂の契りを結んだのだ」
キミは何を言っているんですか?
「どういうこと?」
いまだ僕の襟首を掴んだままのソアラが、エヴァンジェリンに問いかける。するとエヴァンジェリンは、遠慮がちに僕の方を見つめると、少しずつ語り始めた。
「は、初めて、ツイッターでこの者の呟きを見たとき、分かったのだ。この者も、わたしと同じ家族の痛みを背負っていると……そ、そこで、コミュニタイドでのメッセージのやり取りを……お願いした……誰にも話せないことだ」
「……」
「……」
その時、僕は硬直した。
それまでとは違った緊張感が思わず伝わったのか、ソアラが僕を不思議そうに見返す。忘れようとしていた感覚が呼び覚まされるのを感じて、冷たい戦慄が全身を駆け巡った。
あの時、僕は彼女と初めてコミュニタイドで会話した。
彼女が僕に話したこと。
そして僕が彼女に話したこと。
そうしながらあの時、僕が心のうちに思い返したモノ。
12年前、崩壊した家屋の下敷きのもと、唯一奇跡に救出された一人の少女の記憶だ。2歳でしかなかった少女のわずかな記憶の断片。
破壊の記憶だ。
「当時のわたしは……なんというか、少し悩んでいたのだ。わ、わたしは、昨今の異常気象や異常な自然災害など人類の滅亡は近いと信じている。その時のために、わたしの持つ知識を多くの人々に伝えることこそ、わたしの使命……。彼は、わたしの真の意図を正しく理解してくれた初めての人なのだ……」
その時、雪音先輩が何かを悟ったかのように瞳を見開き、無言で僕に何かを問いかけていた。僕は何も答えない。その様子を前に、ソアラはじっと僕を見つめながら、僕の胸を掴んで離さなかった。
「……」
ふいに、僕の中で、ずっと消したかったあの時の記憶が蘇る。何度も何度も繰り返してきたことだ。思い出しては、また厳重に封をする。無駄だと思っていてもそれを繰り返してきた。
けれど、そんなことをしたって、アレはいつも隙さえあれば、易々と僕の心の中に染み出てくる。おぞましい感情と共に内側からその巨体を這い出してくる。
あの日、学校の教室での出来事が、冷たい氷の手で心臓を掴まれるような感覚と共に呼び覚まされていった。いつもそこに色はない。モノクロの映像が虚しく再生されるだけ。
呼吸が激しくなり心臓が高鳴る。激しい感情に晒され、握った掌は強張り、血の気が失せていく。いつの間にか血の雫を握り締めていた。
知らず知らず噛み締めていた口の奥に、苦い鉄の味が染み渡る。
僕の心の奥に沁み込んで消えないあのドス黒い感情の味だ。そう、殴られて口の中を切ったあの時の血の味と同じ。
彼女の記憶は、僕の中の記憶とも直結していた。
――あの悔しかった想い。
「あの想いを」
エヴァンジェリンが、僕の想いに呼応するかのように呟く。いや、あるいは僕が彼女の想いに呼応したのかもしれない。
いつの間にか、僕の襟を掴みあげるソアラの手から力が抜けていた。ソアラはなんとなく気の抜けたような不思議そうな表情で、じっとエヴァンジェリンを見つめている。
やがて、そのままの表情で僕に向き直った。僕の瞳の奥にある何かを探そうとするかのように、じっと僕を見つめている。僕はそんな彼女の視線がつらくて、そっと目を逸らし、俯いた。
たぶん、ソアラは知らないんだ。あの日、学校であったことを。あの時、ソアラは教室にいなかったと思う。いなくてよかったと思う。
もし、あの場にソアラがいたら、そしてソアラがあの時のことを知っていたら、僕は彼女とこんな風に話せただろうか。いつかソアラがあの時のことを知ったら、すべてを彼女が知ったら、その時、彼女は僕をどう思うだろう。
「と、とにかく、【AGA07】氏こそ、我が心の半身であると悟ったのだ。以来、わたしは、この者との邂逅をずっと夢見ていた。で、できれば……その、わ、わたしのお兄ちゃんに……なって欲しいと……」
最後は、恥ずかしくてとても口にできないとばかりに、どんどん声が小さくなって消えていった。所在なさげに両手の人差し指を合わせて、くるくると回しながら、俯いた顔を少し上目遣いにして僕を見つめた。
そこへ、ずっと黙っていた真綾ちゃんが、これまでの空気をぶち壊す勢いで口を開く。
「ゲームで友達登録したんですけど、あの日以来、連絡くれないし、ずっとまた一緒に遊びたかったみたいです。あと、プレッパーとしていろいろ語り合える人が、あたし以外になかなかいなくて、もっとたくさんお話したかったんだよね?」
などと、さっきまではどもりながら語っていた真綾ちゃんが、呆気に取られる僕らを尻目に、ここにきて最高に流暢なトークであけっぴろげに語る。
そのせいで完全に顔が茹蛸のように火照ったエヴァンジェリンは、もう限界とばかりに真綾ちゃんの背中に隠れ、悶絶しながらポカポカと彼女の背中を叩いていた。
「なぜだなぜだなぜだなぜだなぜだーーーーーーーー! 我がサーヴァントよ、それは言ってはならない呪われし破壊(主にわたしの心が)の言葉のはず!」
「ごめんごめんごめんごめんごめん~~~~~~」
ひたすらポコポコ叩かれる真綾ちゃんが、しまったとばかりに謝り続ける。
「とりあえずヘンなことをアガナくんがしたんじゃなくてよかったわ♡ わたしはアガナくんのことを信じていたけれど」
いや、あなた、さっきけっこうマジな殺意で僕を見ていましたよね?
「うん、ないない」
こ、この女……。
とはいえ、とりあえず誤解が解けたみたいで僕はほっとする。ソアラもまだ何か釈然としないような顔をしつつも、僕の襟元から手を離してくれた。
そのあと、僕らは『モンスト』トークで盛り上がった。エヴァンジェリンは、基本、『モンスト』ではスタンダードな片手剣装備らしい。それほど強い攻撃力はないが、盾と組み合わせた臨機応変な戦い方が出来る手数勝負の武器だ。
意外だったのは真綾ちゃんで、その小じんまりとした小動物のような身でありながら、『モンスト』ではハンマーを使っているらしい。超重量級の武器で隙も大きいが、攻撃力もやたら高い。頭への一撃は、強力なモンスターでさえ昏倒させることができる。考えてみればこの二人でゲームをする場合、バランスがいいとも言えた。
そんなこんなでゲームトークを思う存分語り合った後、そろそろお腹も空いてきたので、ファミレスで何か食べようかと話したんだけど、せっかくだから、当初の目的通り、瓶詰め食糧を作りながら、外で食べようということになった。
店を出る直前になって、エヴァンジェリンがマスクを外したこともあって、真綾ちゃんも、とうとうマスクを外してみせる。
少し照れたような顔でマスクを外す真綾ちゃんを見て、唐突にソアラが
「あーー!!」と叫んだ。
ふんわりパーマがかかった茶髪のボブカットが可愛い真綾ちゃんは、少し気弱そうではあるものの、エヴァンジェリンとは違った柔らかで温かい雰囲気の女の子だ。
エヴァンジェリンも可愛いし、もちろん真綾ちゃんも、今でも充分可愛いんだけど、なんていうか、将来、ものすごい男を転がす魔性の美女になりそうな雰囲気というか貫禄があった。なんか、ちょっと末恐ろしい。
その真綾ちゃんを指差して叫ぶソアラは、やっぱりとばかりに声を発する。
「真綾じゃん! やっぱり、名前といい、声といい、絶対そうだと思った!」
「え? なに? 知り合い?」
僕が問いかけると、真綾ちゃんはにっこりと微笑みながら、ほとんど二人同時に答える。
「あたしのお姉ちゃんです」
「あたしの妹よ」
ものすっごい偶然に驚いたけど、ソアラは最初に彼女たちの動画を見たときから、なんとなく真綾ちゃんのことは気付いていたらしい。確かに髪の色とか姉妹で同じみたいだ。遺伝?
「すごいね……。ガスマスクの妹か。まあ、デスゾアラの姉だしな……」
「デスゾアラっていうな」
思いっきり足を踏まれた。
あと、呼びにくいからついでにエヴァジェリンの本名も聞いてみたんだけど。あくまでエヴァンジェリン・ヴァンホーデンが本名だと言い張っていたので、こいつにも都合や設定があるんだろうと無理には聞かないでおこうとしたら、小声で照れたように
中二病って難しいよね。いろいろ。
『それで? わたしの断りもなく勝手に妹を作った理由を説明してください』
蝉の鳴き声がうるさい夏の山。抜けるような青空と強い日差しが目に痛い。
僕と違って女子には紫外線は敵らしいので、ホームセンターで買った大きなサンシェードをシェルターの壁面から広げた。そのサンシェードの屋根の下、5人掛けの丸太テーブルの中央を陣取ったipadの【ここな】が、不機嫌そうに腕を組んでいる。
「ち、ちゃうねん……」
『ちゃうねんではありません。妹萌えなら妹萌えだと言ってくれれば……嫁として、こういうことは容認できません』
「……」
僕の左腕にさっきから抱きつくようにして絡んでいる林檎は、機嫌良さそうにニコニコとしていて、僕の左肩に頬をすりすりしている。なんていうか、腕にほのかな温かみのある弾力と柔らかみを感じて落ち着かない……。
反対側に立つソアラは、そんな僕が調子に乗っているようで、なんかムカつく、と呟いていた。
先輩や真綾ちゃんは、林檎が嬉しそうにしているのを同じような笑顔で見ている。
まぁ、そんな出だしから、僕らの備蓄食糧作りが始まった。全員で手を洗って、買ってきておいた食材を事務所ビルの冷蔵庫から引っ張りだして、テーブルに並べる。
じゃがいも、にんじん、たまねぎ、キャベツ、そしてトマトなど、たっぷりの野菜にパルメザンチーズ、そしてコンソメスープの出汁を用意した。
あとは牛のミンチ肉に大量のソーセージ、オリーブオイルなどの調味料各種。
ソアラが、絶対にいるからといって買っておいたバゲットっていうデカいフランスパンもスライスしてテーブルの中央に並べた。
サンシェードの下、真綾ちゃんと林檎が中心になって女子が野菜を洗ったり、皮を向いたりしている間、僕だけがちょっとへこみのある年季の入ったでかいアルミ鍋を二つ、ビルの倉庫から出してきた。炎天下の中、外の水道でゴシゴシと磨く。
一つは瓶詰め用で、もう一つは昼食用だった。
「はぁ、はぁ、はぁ、あぁっつぅ~~~~」
前回は三人だったので、そこまで大きな鍋でなくてもよかったというか、元々実験的に作ったので、それほどの量は必要なかった。今回は一気に五人に増えた上、昼食も兼ねているので、それなりの大きさが必要だった。
こんなことなら、もっと前に鍋を引っ張り出して洗っておけばよかったのだ。
しつこく落ちない焦げ跡のような汚れを必死に洗い落とそうと力を込めて磨くが、なかなか思うようにはいかなかった。
つい息をついてしまう僕を見て、
「ほらっ、ボサっとしてないで、しっかり洗ってよねー」
サンシェードの涼しげな日陰の下、汗ひとつかいていないソアラが、声高にこちらに向けて好き勝手に言っていた。
「く、くそっ、あの女、絶対、いつかやっつける……!」
ようやくしっかりと洗い終えた頃、今度はバーベキューコンロの底に敷く薪の準備が必要だった。屋根のないコンロの前、陽射しがキツく、やっぱり僕だけが暑い。
仕方なく新聞紙を丸めて薪の間に詰め込んだあと、マッチを擦って火をつけようとしたら、林檎がおずおずとした様子で遠慮がちにそばに寄って来た。なぜか手にはラップの切れ端を持っている。
たぶん、さっきまで野菜を包んでいたものだろう。
「ア、アガナ殿。マッチがなくてもラップがあれば、火を起こすことはできるぞ?」
どことなく、照れた様子で林檎がそう言う。
「ラップ? そんなもので火をつけれるの?」
少し得意気にラップを広げて見せた林檎は、続いてラップの中央に水を垂らし始めた。ある程度溜まったところで、水をラップで包んで捻り、中央の水が垂れ落ちてこないようにする。透明な水風船のようになったラップを僕に見せたあと、彼女は新聞紙に向けて、その透明な水風船をかざして見せた。
なるべく新聞紙の中の文字の濃い部分や黒く塗りつぶされたところに向けると、なんと太陽光線が透明な水風船のレンズ効果によって集約され、煙を発し始める。そこへすかさず、細かく千切っておいた新聞紙を慎重に敷き詰めていき、林檎が形のいい唇をすぼめて、そっと息を吹きかけた。
すると新聞紙の中央に小さな火がつく。
「おぉぉぉ!?」
マ、マジか? すげぇ!
本気で驚く僕を見て、林檎は少し恥ずかしそうにしながら、種火となったそれを薪の間の新聞紙に移した。ほどなく、薪全体が燃え始める。
感心したように燃えている様を見ていた僕の横に、林檎がさっきよりも、ぎこちなさげに寄り添う。
「も、もし、ラップがなくても、透明なペットボトルがあれば水を入れて同じことができるのだ」
「すごいね……。やっぱ林檎ってすごいよ」
「え、えへへ……」
「よく木の棒とかを擦り付けて火を起こすのとか見たことあるけど、こんな身近なものでも簡単に火を起こせたりするんだな」
林檎がもっと褒めてとばかりに、肩に頭を寄せてくる。とりあえず彼女の柔らかな黒髪をそっと撫でると、僕は鍋と同じくらいデカいヤカンにたっぷりと水を入れて、コンロの金網に載せた。本当なら鍋を載せたいところだったけど、まだ野菜の方が切り終わっていないらしく、先にお茶を沸かすことにする。
「アガナくん、そっち終わったならソーセージ切ってくれる?」
珍しくエプロン姿の雪音先輩がにんじんを刻んでいた。ちょっと涙目だった。そんな先輩の表情も珍しい。たぶん、隣でソアラが刻んでいるタマネギのせいだろう。
同じくエプロン姿のソアラも、どことなく泣きそうな顔をしていた。
「うん、分かったよ」
そう言ってようやく僕も屋根下の作業に加わることにする。そんな僕を少し名残惜しそうに林檎が見送り、やがて彼女も作業に戻った。
かなり大量の野菜を慣れない僕らが一センチ角に切ったり刻んだりするのは、けっこう骨の折れる作業だったけど、林檎や真綾ちゃんが驚くほど手馴れた様子で手伝ってくれたのと、みんなで一斉に作業したおかげで、空っぽだった幾つかのボウルはすぐさまいっぱいになった。
その頃にはヤカンも沸騰していて、麦茶のティーパックを放り込んだ僕は、少し離れた日陰のタライに運ぶ。少しヨタつきながら、タライいっぱいに敷き詰めた氷水の中にヤカンを置いた。あとで飲む頃にはいい感じに冷えているだろう。
そして空いたコンロの下に、僕が少しだけ薪を足しながら、洗って乾かしておいたデカいアルミ鍋を金網の上に載せる。薪の火の強さを調節するのは難しいので、金網の高さで調節する。
それを待っていたソアラがオリーブオイルをたっぷり垂らしながら、刻んだニンニクを一斉に入れた。野菜を炒める役はソアラが買って出たのだ。
そんな姉の作業を真綾ちゃんが覗きながら頷く。
「う、うん。香りが立つまでこのままニンニクを炒めて、そのあと、えと……刻んだ野菜を入れるの。その時は、火を少し強くして、トマトは……最後なの」
相変わらず気の小さな真綾ちゃんが、たどたどしく説明する。
「真綾。あんたって意外と料理とかするのね。家ではやってるとこ見たことなかったのに」
「あたしもリンゴと友達になるまで、したことなかったよ?」
「へぇ」
そんな中、思っていたより火が強かったのか。突然、ぱちんという音と共に油がはねた。
「きゃっ、ぁ、あつっ、熱い! ちょっとアガナ! 火が強いわよ! 薪入れすぎなんじゃない!?」
「え? そう? どぅぁっ熱っつ!」
先に使い終わった調理器具なんかをまとめたり、ゴミを集めたりしていた僕は、ぼんやりと鍋の様子を伺おうとした。すると、待ってました、とばかりに盛大に油が跳ねる。確かにこれはやばい。
「少し減らしてよ! 危なくて近づけないじゃない!」
「どうやって?」
「知るか! 根性入れて掴め!」
「んな無茶なー」
そんな僕らを尻目に、やや苦笑ぎみの林檎が手近にあったトングでいくらかの薪を炉の中から掴み出す。
こうしてトラブルはいくつかあったものの、なんとか僕らは野菜を炒め終わり、幾つかの工程の後、水とコンソメ出汁を入れて煮込む作業まで進めることが出来た。
その作業の間、雪音先輩と真綾ちゃんが捏ねて作ってくれたハンバーグと、完成した、たっぷり野菜のミネストローネ、少し炙ったバゲットが、昼食としてテーブルに並んだのは、その少し後だった。
「……まさか、こんなにあっさりうまくできるとは……」
自分でいうのもなんだが、今日の成果を前に、僕は感嘆の溜息を漏らす。多少の失敗はあったものの、林檎と真綾ちゃんのおかげで、完成したミネストローネをみんなで一斉に瓶詰めする作業を終え、もう一つの鍋で昼食分を作るのに、それほどの時間を要さなかった。以前の惨状を思えば、驚くほどの成果と言える。
感動さえ覚えていた。
「前回は食品を入れて沸騰させたまま脱気しなかったのがまずかったのね」
雪音先輩が、あらかじめ用意したプラスチックコンテナいっぱいに並んだ瓶詰め食糧を見ながら呟く。
脱気しないと瓶内が真空状態にならず、長期保存ができないのだ。
「ガラスが割れるとかしなかっただけでもよかったわよ。熱かったけど……」
ソアラもほっとした様子で見ていた。やがて二人がテーブルに戻って椅子に座る。
「今日は二人のおかげで本当に助かったよ。ありがとう」
いつの間にか僕の隣の席に座っていた林檎と、その隣の真綾ちゃんにお礼を言った。
「うふふ、ありがとう。林檎ちゃん、真綾ちゃん」
「本当よね。二人がいなかったら、絶対できなかったわ。ありがとう」
雪音先輩とソアラもそれぞれ深く頷く中、二人は少し照れたように笑う。
ミネストローネの味も上々だった。保存食なのに充分美味しくて栄養も豊富だし、貯蔵場所さえ間違わなければ、かなり長期に渡って保存できるはずだ。
その後も、脱気の仕方や瓶の煮沸消毒の仕方なんかを二人から詳しく教わりながら、僕らの食事風景は続いた。
ソアラや先輩が美味しそうにミネストローネやハンバーグを頬張り、真綾ちゃんや林檎が楽しそうに話している。
「……」
なんとなくだけど、この時、僕は胸のうちになんともいえない想いが去来していくのを感じていた。楽しいはずなのに、どこか切ない。嬉しいはずのに、胸の奥がきゅっとするような感覚だ。うまく説明できないけど。
だけど、ずっと【ここな】と二人だけだった少し前よりも、なんだか心が少し温かい。
「どうかしたの?」
僕の隣に座っていたソアラが、そっと耳打ちする。
「いや、なんか……なんかみんなに会えて、僕、よかったよ」
「ふーん。……さむ(ぼそっ)」
「な、なんだよ! 今いいこと言ったじゃん!」
「さむー!」
「う、うるさいな! ひきこもりの孤独の深さ、なめんな!」
その後みんなで片付けをし、日付ラベルが貼られた五十個の瓶詰め食糧が並ぶコンテナを、シェルターの地下倉庫に収める。
とてつもなく広大に作っておいた地下倉庫の、まだまだスカスカな棚が並ぶ中、そのうちの一つの前に、僕らは並んで立っていた。
空きだらけの棚に収められた、たった一箱だけの僕らの手作り備蓄食糧だ。
なんとなくラベルの字が下手で、不恰好で、味ももしかしたら、僕らが思っているほど実はよくないのかもしれない。
それでも僕らで作った初の備蓄食糧を、みんなで力を合わせて棚に収めた。
その一箱を、僕らは並んで誇らしげに見つめる。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
なんとなく、みんな言葉が出てこなかった。そんな中、ソアラが最初に口を開く。
「これ、もし、何か大変なことが起こったとき、誰かにあたしたちの作ったこの食糧を食べてもらうのよね。誰かが今日、あたしたちが作ったものを食べて、元気を取り戻して、また生きていくのよね……」
そんなソアラの呟きに、なんとなく、いろんな想いが込み上げてきて、僕は目頭が熱くなった。
「なに泣いてんのよ?」
少し呆れた様子のソアラが、肘で僕のわき腹を突いてきた。
どこか、そんなソアラの目も少しだけ潤んでいるようだった。
僕は腕で涙を乱暴に拭きながら、そっと顔を隠し、
「な、泣いてないよ!」
「うそ、今、泣いてた」
「……」
いつの間にか、他の三人が笑って僕らを見つめていた。
きっと、世界中のプレッパーたちが、今もどこかで同じことをしている。
もしも何か大変な出来事、大地震やハリケーン、大津波なんかの悲惨な出来事が起こったとき、少しでも多くの人たちが助かり、少しでも多くの愛する人たちが希望を持てるように、彼らは今も僕らと同じように、失敗から学びながら大切に遺そうとしている。顔も知らない未来の誰かのために。
たとえ、誰かにバカにされようとも。
それは希望だ。僕らの願いだ。
絶望的な状況の中にあっても、決して諦めない。今日、僕らが作ったこの不恰好で小さなコンテナが、いつか誰かの生きる力になるよう願った、それは、まさに
“希望”という名の僕らから名前も知らない誰かへの贈り物だった。
その後、僕らは事務所ビルの部屋に戻って、大人数でやるならこれでしょう、とばかりにスーパーモリオカートでひとしきり盛り上がった。
夕方近くになってそろそろ帰る時間になると、僕らは揃って駅まで一緒に向かった。どっちみち、みんな一旦は駅まで向かう必要があったし、やっぱり中学生のコたちは駅くらいまでは送ったほうがいいと思ったのだ。
帰り際、林檎がそっと僕に耳打ちする。
「ア、アガナ殿。ひとつお願いがあるのだが……」
「なに?」
「また一緒に遊びたい……」
「ああ、そんなこと? こちらこそ。僕こそ、また一緒に『モンスト』とかやりたいし」
「そ、それと……」
「ん?」
「お、お兄ちゃんって……呼んでもいい?」
「……」
ちょっと恥ずかしかった。けれど、目を逸らしてもずっと、ウルウルした目で見つめ続けられるのに根負けして、渋々頷いた。
それを見ていたソアラが、心底引いたようにして呟く。
「うっわ、キモー。年下の女の子にお兄ちゃんって呼ばせるんだー」
「ぼ、僕が呼ばせてるんじゃないんだからねっ!?」
やがて駅に到着すると、林檎が名残惜しそうにホームに消え、先輩が別の道だからと別れた。しばらく、僕とソアラと真綾ちゃんの三人でロータリーを歩いていたが、いつの間にか真綾ちゃんがどんどん先を歩いていく。
気がつくと僕とソアラが二人で並んで歩いていた。なんとなく話すことが見つからず、だけど、別にそれでいいやと僕らはお互い無言で歩いていた。
特に気まずいとも思わず、静かで穏やかな夕暮れの時間が流れる。
そのうち、ここらで充分だからとソアラと真綾ちゃんが手を振って歩き出すのを、僕は見送った。
「ねぇ、アガナ」
ふいに、先を歩く真綾ちゃんを追いかけながらソアラが振り返る。夏だけど、夕暮れ時の少し涼しい風が、彼女の髪を揺らした。
橙色の夕陽がそんな彼女の頬を照らす。
少し顔が赤いような気がしたけど、きっとそれは夕陽のせいだろう。
なんとなく、どきりとするような穏やかな微笑みがそこにはあった。
「ん?」
「今日は楽しかったわよね」
「ああ、そうだね」
「もう、行くね」
「うん」
「ねぇ」
「ん?」
「……またね」
「うん」
そう言って彼女はしばらく僕を見つめて微笑んでいた。
駅のホームのスピーカーから、遠いどこかの国の静かな音楽が流れている。
どこか寂しげで、どこか懐かしい感じのするメロディだ。
やがて彼女は軽く手を振って、再び背を向ける。
そんな彼女の背を僕はいつまでも見つめていた。
このとき、僕は気付かなかった。
そんな僕らの様子を遠くから見ている存在に。
『あたしだけど』
『何回もメッセージ送ったんだぞ?』
『うん、ごめん。今日は忙しくて。何か用?』
『おまえ、今日、日乃宮に会ったんだろう?』
『……』
『見たんだよ。駅でな』
『だから何? プリント届けにいっただけよ。いつものことでしょ?』
『おまえ、知らないんだろう? あいつのこと』
『何のこと?』
『いいか、もうあいつのトコになんか行くな』
『なに? そんなのあたしの勝手だけど』
『あいつはな! あいつはヤバいんだよ!』
『急になに?』
『おまえ、あいつの父親のこと知ってるか?』
『アガ……日乃宮くんのお父さん?』
『去年、西アフリカやヨーロッパで数百人規模の大量殺人のあったテロ事件覚えてるか?』
『さあ、あんまりニュースとか見ないから。それがなに?』
『あいつの父親はな!
その首謀者、
『――え?』
すべてを知ったとき、そのとき……。
――その時、彼女は僕をどう思うだろう。
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