#9:ガスマスクの少女が仲良く寄り添って

 「おぉぉっそぉーいっ!」


 よく晴れた土曜日の朝、僕はまだ陽の昇らない朝4時に起きた。なぜって? 今日は午後から女の子と会う約束があるからだよっ。

 約束は11時頃に駅で待ち合わせということにしている。11時だぞ? あと7時間しかないんだ! 前日、伸び過ぎて目にかかるくらいだった髪を約一年ぶりくらいに切りに行った。同級生が下校しているだろう時間、しかし、彼らがもう家に着いているだろう時間を見越して山を降り、昔から、どうしようもないくらい切るしかないまでに伸びたとき、嫌々行っていた理容バーバー田中に突撃してきた。まるで山で暮らす仙人が、毛むくじゃらになってもういい加減仕方がないので、山を降りて人里に入ってきたかのごとく。

 バーバー田中は、今年でもう70近い爺さんがやっている店で、半分、いや、もうほぼボケているんじゃないかという、ハサミを持たせるのがけっこう怖い店だが、そこしか行けないので行ってきた。ボケた爺さんなので、適当に頷いていればテキトーに切ってくれる。まあ、ちょっと切り過ぎたりして、変にバランスが整ってないような髪形になることもあるが、切りすぎることはあっても、切り足りないことはないので、僕としてはなんの問題もない。他の店に行ったらやたら話しかけてこられて、学校はどうだの、最近の若いコの流行りがどうだのと言ってくるが、しばらく学校に行っていないどころか、バリバリのひきこもりなので、そんなもん分かるわけがない。

 適当に相槌を打っていると、ビミョーな空気になるので、正直、切ってもらっている間、非常に心苦しいことになる。できれば、僕が死ぬまでバーバー田中には頑張ってもらいたかった。無理だろうなぁ……。

 そんなこんなで、しっかり髪を切り終えた僕は、ほぼ緊張して眠れない夜を過ごし、前もって計画していた通り、朝食もそこそこに4時にはベッドから起きてバスルームに向かった。ほとんど眠れなかった。そして念入りに身体を洗う。

 そう、たっぷりバスルームで身体を洗いながら、延々、今日一日のシミュレーションをし続けていた。どんなシミュレーションかだって? どのタイミングでどんな会話をして、どう間を埋めるかをだ……。

 お願いだから泣かないで! 僕はもっと泣きたい……。


「それで? そろそろ9時だけど、彼ずっとお風呂に入ったままなの?」


 いつの間にか、西園さんが早めにうちに来ていた。実は前の日に連絡して、彼女のipadに【シェルクラフター】のアプリ版をインストールする約束をしていた。

 本当はUSBか何かのメディアに入れて渡しても良かったんだけど、あまりこのアプリをコピーして広めることはしたくなかった。

 できれば直接【クァンタムセオリー】に繋げてインストールするのが望ましかったのだ。その点については彼女も同意してくれて、こうして少し早めに来てくれていた。

 けれど僕は何を思ったか、まだ風呂に入ったままだったので、【ここな】に応対してもらって部屋で待ってもらっていた。

 暇つぶしにソファでいつものように『コール・オブ・ダーティ』をやってるらしい。適当に飲み物などは【ここな】がドローンを使って出してくれているはずだ。

 その間、僕は延々身体を洗ったり、歯を磨いたりを繰り返している。

 

――完璧に……! 完璧な身体に仕上げなくては!


『そうです。4時頃にバスルームに入って、そろそろ5時間になります』

「……ちょ、ちょっと待ってよ! 5時間って、それ生きてんの? のぼせて倒れてたりしないわよね?」

『時々、小声でぶつぶつと声がするので生きていると思われます』

「それってヤバいんじゃないの!? バスルームどっち!?」

『2階フロアの奥になります』


 【ここな】からそう聞くや否や、彼女はゲーム機のコントローラーを放り出して少し小走りに2階へと降りていった。後で【ここな】から聞いた話だけど、なんか僕のぶつぶつ言っている独り言が、延々数時間に渡って聞こえていたらしく、ちょっと不気味だったとか。

 AIでも不気味って思ったりするんですね……。2階フロアは全面がバスルームと洗濯などのためのフロアになっている。

 バスルームといっても、イメージ的には昔の銭湯の番台をイメージしてもらえると分かりやすいと思う。一応、フロアに入ってすぐの場所は、エントランスになっていて、そこから男湯と女湯に分かれている。なんでビルの一フロアとはいえ、個人の自宅でわざわざ銭湯みたいな造りにしているかというと、ここを個人で使う以上、浴室なんかの生活環境が必要なので最低限の改装をしたのだけど、その改装をしたのが僕の親戚の叔父で、まあ、この人の趣味だ。


「日乃宮くん! ねえ、ちょっと、だいじょうぶなの!?」


 西園さんがそう声を張り上げながらエントランスに入ってきた。

 けれど返事がないため、そのまま男湯と書かれた暖簾を通り抜けてきた。入ってすぐは一応、目隠しの意味もあってロッカーの背にぶつかる。その突き当たりを曲がった先が、少し広々としたロッカールーム兼脱衣所になっていて、さらにそこを抜けて擦りガラスの引き戸を開ければ浴室になっていた。まさに銭湯さながらの造りになっていて、女湯の方もだいたい同じ構造になっているらしい。

 西園さんは何度となく呼びかけていたようだけど、反応がなくて少し心配し過ぎていたのか、少し躊躇した後、意を決して脱衣所に入ってきた。

 ちょうどその目の前に擦りガラスの引き戸があって、


「「あ」」


 まさに、生まれたての開放感溢れる僕の姿がそこにあった。


「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」


 西園さんの絶叫がビル中に届くかと思うほど響き渡り、即座に後ろを向いてしゃがみ込んだ。


「な、な、なななななななに!? なんなの!?」


 浴室から出てすぐ目の前に西園さんがいることが一瞬、すぐには理解できず硬直した僕だったが、すぐに手近にあったタオルをとって腰に巻きつける。もしかして、考え事をし過ぎて脱衣所を出てしまったのかと思ったけど、改めて周りを見てもここは男湯の脱衣所だった。


「5時間もお風呂に入ってるって聞いたから、のぼせて死んでんじゃないかって心配になって見に来たのよ! 呼んでも返事ないし!」


 心底怒りに震えるかの様子で、へたり込んだ西園さんは、若干、涙声だった。


「あ、そ、そうなんだ……あの……ご、ごめんね……」

「ひ、ひぐぅっ、ヘ、ヘンなモノ見ちゃったよぉぉ」

「……」


 僕はどう慰めていいか分からず、しかし、この場合、被害者は僕ではないかという考えが浮かびつつも、やっぱり僕が悪いような気がして居た堪れなくなった。

 とりあえず、謝る。


「ごめん……」







 二十分後、僕はすっかり着替えを終えて部屋に戻っていた。服はいつもと変わらないヨレヨレの白いTシャツに、色褪せたジーパン姿だ。

 それを見ていた西園さんが、やや眉を寄せる。今日の西園さんは休日ということもあって、少しカジュアルな印象の私服なんだけど、やっぱり制服じゃなく私服だといつも以上に可愛く見える。

 空色のミニスカートに白いレースのブラウス、その上に日焼け対策なのか、薄手のふんわりしたロング丈のサマーカーディガンを羽織っている。オシャレな麦わらハットがよく似合っていた。

 こうしてみると、すごくほっそりとして均整の取れたスタイルの良さが際立っていた。ぱっちりとした大きな目に、長い睫毛の影が落ちる健康的な白い肌はまるで内側から光を放っているように見える。少しメイクしているのか、艶やかで艶のある赤い唇、風に揺れる柔らかそうな茶色の髪、すべてが雑誌から出てきたモデルのようだ。

 雪音先輩から聞いてはいたけど、学校内でも特に美少女として有名だというのは本当のことなんだろう。

 そんな彼女が着替えて部屋に入ってきた僕を見るにつけ、やっぱり手にしていたコントローラーをいつものように放り出し、すくっと立ち上がったかと思うと、何を思ったか僕の目の前までやってきて、その細く薄い輪郭の顎元に手を添えながら上から下まで嘗め回すように見回した。


「なに?」

「その髪、ちゃんと乾かした? あと櫛を通して整えてる?」

「え? いや、タオルで拭いてそのままだけど。あと勝手に乾くかなと」

「服は他にないの? ていうかジジ臭いからシャツはパンツから出しなさいよ」


 そういって、おもむろに彼女は僕の腰に細く白い腕を伸ばし、シャツの裾を引っ張りだした。な、なんか、ちょっと女の子に腰に手を回されるとヘンな気分に……。


「あ、あとはいつものハーフパンツと同じようなTシャツしかないけど。なに? ダメ?」

「……」


 僕の答えに絶望的になったような顔をしたかと思うと、西園さんは急に僕の手を引いて2階へと降りていき、さっきのエントランスに戻らせた。

 そこには一応、壁際に洗面台があってドライヤーも適当に買った安いものが置かれていた。まあ、ほとんど使ったことないけど。


「そこ、座って」


 西園さんは手近にあった折りたたみのスツールを引っ張り出してきて、僕に座らせた。鏡越しに自分の顔を見たのは久しぶりだ。昨日、バーバー田中に切ってもらったおかげで髪はすっきりしているようで、僕はそこそこ満足している。

 そんな僕の気分を台無しにするかのような不快なドライヤーの駆動音が耳元で響いたかと思うと、突風が髪を荒らしまわった。


「ちゃんとドライヤーで乾かして整えるの。ボサボサになって見苦しいし」


 そう言いながら、彼女の繊細そうな細い指が僕の頭の上で髪を掻き分けていくのを感じて、びくっと心臓が跳ねるような感覚に襲われた。

 手際よく見つけたブラシで髪を梳いていく。なんだろう。バーバー田中にやってもらうのとは全く違った心地よさが頭の上を駆け抜けていくようで、僕は思わずぼんやりとした気持ちよさに眠くなる気がした。


「髪はできれば美容院で切ってみたら?」

「うーん……、ああいうとこって、やたら話しかけてこられて、だんだん心が痛くなるんだよ」

「はぁ……あんたらしいわね。普通に話せばいいじゃない」


 その普通に話すっていうのが、僕のようなコミュ障にとってどれだけ難しいか分かってます? いきなり今日会った名前も知らない人と何を話せばいいっていうんですか?


「顔はちゃんと洗って、歯も磨いた?」

「いくら僕でも、そういうのはちゃんとしてるんですよ?」

「……」


 心外とばかりに反論する僕に、西園さんは一瞬、ドライヤーを止めて僕の目の前に立ったかと思うと、少し前かがみになって僕の顔をまじまじと見つめた。

 彼女の鮮やかで小さく、薄いマシュマロのような唇が、すぐ目の前まで迫ってきて、僕の心臓は早鐘のように高鳴る。

 少し甘いフルーツに似た香りが、僕の鼻をくすぐった。


「うん、だいじょうぶみたいね」


 そういうと、何事もなかったかのようにまたドライヤーを掛け始めた。


(な、なんなんですか……いったい……)


 その後、服については完全に不合格を言い渡された僕は、約束の時間までまだ少し時間もあるということで、この際、駅前の店で新しく買いに行くことになった。

 そんなにカッコ悪いのかと彼女の聞くと、カッコいいとかカッコ悪いとか以前に、清潔感が大事なんだとか。いや、ちゃんと服は洗濯していますよ? と言ったけど、そういう問題ではないらしい。

 そんなわけで、2人で並んで山を降り、登山口前のバス停に立っていた。正直、ほとんどこのバス停の存在意義は、山を降りてきた僕が町へと下るか、あるいは町から泣いて逃げ帰ってきた僕を山へと帰すため以外にないものだった。なので、バス停には僕ら二人しかいない。田舎のバス停らしく、黒ずんで、古びた木材を組み合わせた屋根と、同じくらい古びた小汚い木製ベンチが並ぶ。時刻表も兼ねた錆びまみれの看板が、長い時間の経過を思わせた。周囲は夏らしく蝉の鳴き声がうるさいくらいに響き渡っていた。

 特に話題らしい話題もなくて、ずっと黙り込んでいた僕たちだった。こうして二人っきりになると、いつも以上に緊張してしまって、妙に会話の糸口なんかを必死に探っている僕がいる。つくづく情けない僕にうんざりしているだろうなと思って、ちらっと横に立つ彼女の横顔を盗み見た。

 涼しげな白い肌と整った顔立ちは、とても静かに前を見つめていた。山の風が時折彼女の薄い茶色の髪をさらっていく。


「……」


 ちらっと見るだけのつもりが、ドキりとするほど雰囲気があって、まるで映画のポスターな何かに映るモデルを見ているかのような気がした。

 思わず見惚れてしまう。



「ねぇ」

「は、はひ!?」


 急に彼女が声をかけてきて、つい、声が裏返った。覗き見ていることがバレてしまっただろうか。

 けれど、続く彼女の声は少し気まずそうで、なんだかいつもより少し声が小さい。


「あの……この間のことなんだけど」

「この間?」

「ほら、この間、プリントを届けに行ったときのこと……」


 言われて数日前、彼女が来たときのことを思い出す。ここ最近は彼女が作業に加わったことで、それまで以上にというか、ほとんど毎日うちに来るようになってきていたので、思い出すのに少し時間がかかった。


「あ、あぁ……あの日……(初めてデスゾアラに出会った日のことかな)?」

「あの時さ、あたし、ちょっとキツい言い方とかしちゃって……」


 正直、ここ数日いろいろあったので彼女の言ったキツ言い方がどれのことなのかがよく分からなかった。わりと何回かキツい言い方されてる気がしますよ?


「なんだっけ?」


 どれのことだっけ? と聞き返さなかった僕、ぐっじょぶ!


「その……ほら、学校、もうやめたらって……」


 珍しく言いにくそうに、もじもじとした様子でうまく顔をこちらに向けられない様子の彼女が、妙に幼い女の子のように見えた。


「あぁ、そういえばそんなこと話したね」


 言われるまで、ほぼ忘れていましたよ……。もっとキツいこと言われ慣れて。


「その、ごめんね。あたし、無神経だった。本当はあの後、帰ってすぐ後悔して謝ろうと思ってたんだけど、なんかいろいろタイミングなくて……」


 ずっと気にしていたらしく、やっと言えたことに少しほっとしたのか、彼女はその形の良さそうな胸から、わずかにふーっと息を吐いた。

 そして少し俯く。そんな彼女が急になんだかさらに可愛く見えてきて、僕も少し落ち着かない気分になる。


「い、いや、いいよ。ぜんぜん気にしてないから」


 実際、そこまで気にしていることじゃなかった。僕自身、もう辞めてしまおうかと思っていたことは何度もあったから。よく考えなくても、こんな僕のために自分から進んでプリントを届けに来てくれていたのは分かっていた。面倒と言いながらも毎回持ってきてくれるのは彼女だけだったし、できるだけ綺麗に書類を整理してくれたり、さりげなくとはいえ、一言なにかメッセージを添えてくれたりもしていた。


「僕の方こそ、あの時、あんな言い方しかできなくて……ごめん……」


 なんだか妙に照れ臭くなって、僕も彼女の顔をまともに見ることができなかった。なんとなく気まずい空気になって、その後はお互い黙り込んでしまう。

 ずっと蝉の鳴き声ばかりがうるさくて、その間、心臓の音ばかりがドキドキと鳴っていた。彼女にも聞こえてしまうんじゃないかと不安になる。さんさんと降り注ぐ太陽のせいか、顔が少し熱くなっている気がした。

 そうこうしているうちに、バスがやって来る。開いたドアに向かって、黙り込んでいた彼女がおもむろに乗り込もうと歩き出した。

 僕も後ろから、少し彼女と距離を保ってバスに向かう。

 その時、ふいにバスの入り口ステップの上で彼女が立ち止まった。何事かと思って見上げた瞬間、振り返った彼女は、そっと僕の手を引いた。


「ほら、いこ!」

「……」


 満面の笑顔。

 陳腐な言い方だと笑うなら笑ってくれ。僕にはその時、まるで夏の青空いっぱいに広がる大輪の向日葵が、ぱっと咲き乱れたかのような、そんな純粋で色鮮やかで、あけっぴろげな笑顔に見えた。




 それから、バスが駅前に到着してすぐ、西園さんの案内で僕は商店街のイマドキの若者御用達といったようなファストファッションを扱う店に入っていく。

 正直、彼女にほとんど引きづられるような形で店に入っていったと思う。どうしてもこういう店に入ると、緊張して逃げ出したくなるというか、本能に近いような何かが僕に逃げろと言っている気がした。

 そう、僕の直感が逃げろと言っている気がするのだ。


「はい、げんちょーげんちょー。さっさと入ってよ。外でそんなダダこねられると恥ずかしいんだから」

「いややぁぁぁぁ! 絶対、入ったら中でイケメンだらけの客とイケメンだらけの店員に囲まれて、僕一人だけ浮いて、ハメられた感じのぼっち感を味合わされるんやぁぁぁぁぁ!」

「もう充分、浮いてるわよ……。あたしも一緒に服選んであげるから」


 店の前の看板に張り付いて離れない僕を、西園さんはヨレたシャツの襟を容赦なく引っ張って、引き摺って行く。

 入ってすぐに、細い脚のラインに沿ったようなジーパンに、高そうなTシャツとベスト着た、異様に洗練されたお兄さんが僕らに声をかけてきたが、西園さんは慣れた様子で一言二言話すと、さっさと先に進んでいく。もちろん、がっちり掴んだ僕の手首は離そうとしない。

 それを見ていたお兄さんは、にこにこと微笑ましいとばかりに営業スマイルを僕に向けてくれていた。


「これと……。あと、これもいいかな……」


 時々、服の丈をあわせるかのように、半泣きの僕に服をかざしてみながら、彼女は手際よく服を選んでいく。

 ものの数分で僕の両手には上下一式の服が揃っていた。忙しそうに他にも服を選んでいる彼女を見つめていた僕に、彼女はきっと鋭い視線を投げかけ来る。


「ほらっ、時間がないんだから、さっさと試着してきてよ」

「あ、うん」


 言われて僕は、近くにいた先ほどの店員のお兄さんに、勇気を振り絞って試着させてほしいと話しかけてみた。お兄さんは、満面の笑顔でいいチョイスですね、なんていいながら試着室に案内してくれた。

 彼女が用意してくれたのは、モノクロの何かのバンドのプリントがされた白いTシャツと、その上に着る白の半そでシャツ、そして黒のスキニーパンツとそれに合わせた茶色の皮ベルトだった。


「どう? もう着てみた?」


 試着室の外から、西園さんの声が響いた。


「えっと……あー、うん」

「開けるわよ?」

「いいよ」


 カーテンを開けて、彼女が顔を出す。


「……」

「……」


 しばらく、考え込むように顎元に手を添えて、じっと彼女は僕を見ていた。笑うでもなく呆れるでもなく、あまりに真摯に真っ直ぐな視線を向けられて、かえって僕としては落ち着かない気分になってくる。


「あの……」

「ちゃんと背中伸ばして」

「はい!」

「……」


 ぴんと、気をつけの姿勢で立つ僕に、彼女は急に近づいてきて、襟元に手を添えて、掛けていたボタンを外し始めた。

 ちょ、ちょっと?


「シャツのボタンは全部かけないで外して、軽く羽織るように着こなして。それから裾はパンツから出すの。Tシャツは余裕を持たせながら中に入れて、ベルトを見せる感じ。……うん」

「じ、自分でできるって」

「じゃ、やってよ」

「……」


 西園さんは、言われた通りに僕がするのを見ながら、今度は少し距離を取ってじっと見つめる。いつの間にか傍らに並んでいたさっきのお兄さんも、やはり笑顔でうんうんと頷いていた。またしばらく黙って見入っていた彼女は、今度は別の服を持ってきたのか、次はこれに着替えてと渡される。

 それからひたすら僕は彼女の着せ替え人形のごとく、とっかえひっかえ服を替えられた。けれど結局、何度か着替えた後、最初の組み合わせに落ち着いた。


「いいんじゃない? ちゃんと背筋伸ばせば、そこそこ見られなくはないよ」


 そう言って彼女は無邪気な笑顔を見せる。彼女が一番いいというので、とりあえず、その一式をお兄さんにお願いして清算してもらい、タグやらを外してもらって、そのまま着て行けるようにした。

 ヨレたシャツやジーパンは、お店の袋に入れてもらう。いい買い物ができたと、僕も少しほっとしながら店を出ようとしたとき、店員のお兄さんが最高の笑顔で言ってくれた。


「いやぁ、彼氏さん! 服替えたらさっきよりもさらにカッコよくなりましたよ! 彼女さんのセンス、感心するくらいいいし!」


 店員のお兄さんが、拍手してくれた。


「いや、あの……」


 誤解だと言う前に、西園さんが真っ赤な顔で言う。


「か、彼氏なんかじゃありませんからっ!」

「え?」


 店員さんが不思議そうな顔をするのもかまわず、彼女はさっさと店を出てしまい、僕も少し恥ずかしい気持ちでその後を追った。

 店を出てしばらく、また僕らは気まずい雰囲気で歩いていた。

 

(くっそー、あの野郎、最後に妙な空気にしてくれやがって……。よりにもよってあんな面倒くさい誤解を……ヘンに意識してしまうだろぉぉぉ!)


 なんてことを思っていた僕だったけど、気がつけば、彼女はさっきのことなど忘れたようにニコニコと楽しそうに上機嫌な顔をして、しきりに僕を上から下まで見回しながら歩いていた。

 なんか、落ち着かないんですけど。


「えへへ、やっぱりあたしのセンスも悪くないわよね」


 ああ、そこは言われて嬉しかったんですね……。


「……」

「ちゃんとすれば、あんただって普通くらいには見えるんだから、もうちょっと服にも気を遣えばいいのに」

「ほとんど家から出ないのに誰に見せるんだよ」


 なんで、素直に『ありがとう』って言えないんだよ……。


「あたしがあんたのことを見るじゃない」

「……」


 ほんっとこの人って、時々、ドキっとすることを平然と言うんですよね……。


「雪音先輩だって見るし、服に気を遣うっていうのは、人に気を遣うのと同じくらい大事なことなんだよ。そんなやたらいい服じゃなくてもいいから、清潔感があるのがいいの」

「そうなのかな」

「そうよ」

「西園さんは……」


 そう言い掛けて、急に彼女が足を止めた。つい二歩くらい先を進んでから何事かと振り返る。


「なに?」

「前から言おうと思っていたんだけど、その『西園さん』っていうの止めにしない?」

「なんで? キミは西園さんでしょ?」

「ソアラでいいわ。みんなそう呼んでいるし。『西園さん』て、なんか落ち着かないのよ」

「そ、そういうもの?」

「そういうものよ。その代わり、あたしも日乃宮くんのことアガナって呼ぶから。おあいこでしょ?」

「……」

「なによ?」


 僕がそわそわとした様子で顔を背けているのを見て、西園さんは不思議そうに問いかける。


「いや、なんか……慣れなくて、そういうの……」

「はぁ、ホント、あんたっていろいろ面倒臭いわよね。ほら、いくわよ。アガナ」


 呆れたように溜息をつきつつ、今度は彼女が僕を追い越して歩き出していった。

そんな彼女の背に、僕はちょっと緊張して躊躇いがちに声をかけた。


「にし……! ソ、ソアラ……さん……?」

「なに? 『さん』はいらないー」

「あ、ありが……とう。一緒に服選んでくれて……」


 少し照れたりどもったりしつつ、なんとか口にした僕を、最初は少しきょとん、とした顔で見つめていた彼女だったが、やがて可笑しそうに笑ってからこう言った。


「うん」




「あらあら、アガナくん。その服、どうしたの? よく似合ってるじゃない」


 午前中は用事があるからと、そっちを済ませてから現地に直接向かうと言っていた雪音先輩は、結局、僕らより先に待ち合わせ場所である駅のロータリー広場にいた。

 純白の白地に、薄い紫の花柄の入った大人っぽいドレスワンピースに身を包んだ先輩が、亜麻色の編まれた髪を肩から垂れさせ、日陰で僕らを待っていた。

 相変わらず人目を引くほどの気高さを秘めた美しい顔立ちは、慈愛に満ちた女神のような微笑を湛えていて、一方で、凶器という他ない豊かな胸には、甘い罠が隠されているような気がする。

 そんな先輩は5分ほど前に到着したばかりだという。


「先輩、用事はもういいんですか?」

「ええ、もう済ませてきたわ」


 そのあと僕らは、エヴァンジェリンたちとの約束の時間まで、少しの間、広場で今後の【シェルクラフター】での作業について話し合っていた。シェルターはできたけど、まだ必要なものが揃っていなかった。備蓄食糧の件もあったけど、浴室やトイレ設備、必要最低限の家具、発電装置の設置などなど、まだまだやらないといけないこと、揃えないといけないものはたくさんあった。とりわけ先輩は、シェルターとは言っても、やたら機能性だけを追及した殺風景なものにはしたくないと、屋上庭園なんかの心の平安をもたらすものも必要だと話していた。

 ソアラもそのことには同意している。確かに重要なことで、女性らしい気遣いのある意見だと言えた。

 余談だが、こうして僕らが三人でいると、時々、道を行く男たちの視線が集まってくる。

 もちろん、その先にいるのは先輩とソアラの二人だった。やっぱり、世間的にはすごい絶世の美少女二人なんだろうな、なんて感心していた僕は、そこで突然、広場中に聞こえるほどの大声で叫ぶ何者かの雄叫びを聞く。


「我! 彼の地に降臨せりーーーーーーー! 

我が盟約の契りを交わしし半身を求むるモノなりーーーーーーーーーーーー!」


 僕らのいる広場の反対側、少し離れたところから聞こえた。僕もソアラも驚いて声のした方を見るが、特に変わったものは見当たらなかった。土曜日の駅前とはいえ、こんな寂れた町の駅前広場では、ほとんど人も見かけない。

 せいぜい、百メートルほど離れた遠目に、まるで幻のようにイスラエル製のごっついガスマスクをつけた、中学生くらいの普通そうな女の子ふたりが見えるくらいだ。

 制服姿で手を繋ぎながら仲良く寄り添っているのが、ぼんやりと見える。


「……」

「……」

「……」


 分かってる……。たぶん、恐らく、ひょっとして、まさかとは思うが、ほぼ間違いなく、あの2人だと思う。

 だけど、僕らはぎりぎりのところで、気のせいだと思うことにした!

 だって、ものすごく周囲の空気が歪みまくってて、いつの間にか黒いドロドロとした邪気みたいなものが、ブラックホールみたいに周囲で渦を巻いているのが見えるんだもの……!


(な、なにアレ……!? こ、こわい……!)


 まるで心霊現象でも見ているようで、ほぼ九割がたあの2人だと分かっていながら、僕もソアラも怖くて動けずにいた。雪音先輩は、面白そうに2人を見つめている。


「サバトのときは来たーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー! 

 今こそ、この身とまぐわ……ぐぁっ」


 そこまで言いかけた一人の少女を隣にいた少女が、無言のまま無理やりガッチリと腕を回して口を塞ぐ。この駅前の昼下がり、シュールとしか言いようのないホラーじみた光景が続いている。


「違うな」

「うん! 違うわね」

「場所を変えようか」

「そうね!」


 僕とソアラは妙にこの瞬間、息の合ったトークと身動きで、その場から離れようとしたところ、突然、僕のスマホが鳴り響く。

 恐る恐るスマホの画面を僕とソアラと、そして、どこか相変わらず面白そうにしている先輩が覗き込む。


『そぉぉぉぉぉぉこぉぉぉぉぉぉぉぉかぁぁぁぁああああああああああああ!』


 真っ暗な闇を背に、怨念でも滲みでてんの?ってくらいの不気味な赤い文字と共に、画面いっぱいにやたら影の濃いガスマスクが2つ並んだ画像が映し出される。

 ソアラも僕も卒倒しそうなほど、顔面真っ青になった瞬間、突然、すぐそばの背後で気配を感じた。

 振り返ったとき、なんと百メートルは離れていたはずの少女2人が、瞬間移動でもしたかのように、一瞬にして目の前に立っていた。

 その恐ろしいほど暗くぽっかりと穴の空いたようなガスマスクの瞳は、言い知れぬ怖気が漂い、まるですべてを吸い込むかのように僕らをじっと見つめていた。


「う、う、うわあああああああああああああああああああああ!」

「き、きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」


 恐ろしさのあまり、僕の絶叫とソアラが悲鳴が土曜日の午後の広場に響き渡る。

 先輩は、なんというかマイペースだった。





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