#6:Aug. 29, 2036







 昨日、二時間かけて片付けた部屋は、今またひどい有様だった。棚に飾っていたフィギュアは再び床に落ち、積み上げたラノベの搭は倒れ、ゲーム雑誌やコミックは床に散乱している。かろうじてこの部屋に彩りを与えてくれていた、先輩が用意してくれた名前の知らないヤシっぽい観葉植物は無惨に鉢ごと倒れていた。

 むしろ、そんな中で奇跡的だったのは、雪音先輩のティーセットだけはまったくテーブルから動いておらず、わずかな波紋だけを紅茶の中で浮かべている。ちなみに、シンクの脇に洗って置いてた僕の愛用の湯飲みは見事に粉々である。

 まあ、夏は使わないけど……。渋いデザインで気に入ってたんだけどな。


『すべての動作が正常に処理されました。現在、デバイスを冷却中……』


 とりあえず立ち上がった僕は、今も震えて頭を庇うように抱えてしゃがみ込んでいる西園さんに視線を移した。ケガはないらしい。それから少し離れてテーブルの方で静かにお茶を飲んでいたセンパイの方も確認する。

(いやー、さすがですわ……)


「わたしならだいじょうぶよ」

「デスヨネー」


 僕は西園さんの方に再び向き直る。どうするよ? ホント。


「もうだいじょうぶだから。ごめんね、西園さん。驚かせちゃって。ケガない?」

「ない……けど、今のなに? 地震? なんか近くでスゴい音したけど」


 僕の声に、安全を確認するかのようにゆっくりと立ち上がった西園さんは、部屋の惨状を見て呆気に取られている。僕は【クァンタムセオリー】の画面をおもむろに確認した。どうやら【ここな】の言うとおり、そこにはシステムの正常動作を示すログが表示されていた。

 それと一緒に、西園さんが来る前に確認しようとしていた先輩のバーベキューコンロのブロック画像が浮かび上がっていて、ゆっくりと全体を回転させながら表示されている。


「じ、地震……なのかな。山だし」

「は? 山だから地震なの?」


 僕の咄嗟に出たイマイチ微妙な反応に、西園さんはあからさまに違和感のある顔で答えた。疑惑のこもったまっすぐな瞳が僕を刺し貫く。

 どうしよう。うまいゴマかし文句が浮かばない。


「……」


 彼女の射抜くような視線に耐え切れず、やたら目が泳ぐ。そんな僕から視線を外し、今度は雪音センパイのほうに振り返った。


「センパイはどう思います?」

「そうね、やっぱり地震じゃないかしら? 今の揺れは」


 ずっと黙っていた雪音センパイが、相変わらず、しれーっとした顔で無難な答えをする。

 強いなー、この人。


「じ、地震なの? でも、今の風は? それに、なんか機械みたいな音とか」 

「いや、ほら、揺れてたから、いろんな物が落ちてきて、それが風に吹かれてるように見えただけとか? 音はここ、パソコンとかの機械が多いからさ」

「……」


 なんとかそれらしい理屈をこねて、納得できそうな答えを出してみるものの、彼女は考え込むようにして俯く。しばらく黙って考え込んでいた西園さんは、それから、ふいに呟いた。


「とにかく、外の様子を見てみようよ」

「あぁ……そ、そうね……」


 曖昧に答える僕にさっさと背を向けて、西園さんは部屋を後にする。そんな彼女に少し遅れて追う僕に、先輩も立ち上がりつつ責めるような溜息をついて見せた。

 だ、だってしょうがないじゃない……。あんなところにココナのフィギュアあるなんて気付かなかったんだもん。くそぉ、なんで昨日、片付けたときに落ちてるの気付かなかったんだよ……。しかし、まずい。まずいぞ……。どうする? 


……いやでもだいじょうぶかもしれない。


 さっき、ギリギリ西園さんが入ってくる前に、ベースシェルターの裏手に転移処理するよう設定しておいたはずだ。西園さんはいつも当然、正面ゲートから入ってくるから、シェルターの裏手は死角になっていて普段は見えないはず!

 つまり、普段、見えないところにバーベキューコンロがいつの間にかあったところで、西園さん本人にはそれが最初からあったのか、急に現れたのかなんて分からないはずだ。


「ねえ、アガナくん……。もうここに至っては……」


 僕の後ろを追いかける雪音先輩が何かを言いかけているが、とにかく僕は必死に頭の中で敷地の地図をめぐらせ、西園さんの視界と死角の範囲を計算した。

 よし! イケる! きっと、西園さんにはコンロは見えない!

 そこまで思考をめぐらせた僕は、西園さんのあとを追って一気に階段を駆け下り、正面玄関に出る。気のせいか、すでに玄関を出た西園さんは抜けるような夏の青空のもと、急に立ち止まって何か大きなものをまっすぐ見上げている。

 彼女に追いついた僕は、そこにある巨大な影を見つけて思わず目が飛び出した。


「ねえ、ここにこんなモノってあった……?」


そこにあったのは、紛れもない我らがバーベキューコンロ。


「ぶ、ぶぶぶぶ、ぶるぽ!?」

「ぶるぽ?」


 ぐはぁぁぁぁぁぁっ!

 ダメでしたぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!


 玄関を出てすぐ、正面のシェルターの前にこれ見よがしに、でん、と佇む一般家庭の物置くらいはある巨大なバーベキューコンロ。シェルター裏手に設置する予定が、よりにもよってビルの玄関前に設置されてしまっていた。

 事務所ビルに入る目の前にこんな不自然なものがなかったことは、当然、少し前に通りがかっている西園さんにも分かっていることだろう。おそらく、先ほど僕の指がキーに触れた瞬間、何かまずい操作をしてしまったのではないか。


 (ぬぉぉぉぉぉぉぉぉぉ! 神よ! なぜだ!? なぜなんだ! 最初に操作した通り、裏手に設置してくれていればいいものをぉぉぉぉぉぉ! この手か!? この手が悪いのか!?)


「……」


 思わず僕は巨大なバーベキューコンロの前で膝を落とし、頭を抱えて地面に突っ伏す。

 まさに、ザ・土下座。


「ひ、日乃宮くん?」


 真夏の炎天下、引きつった顔から冷や汗が流れ、瞳は緊張のあまり血走っていた。そんな僕を異様な物でも見るかのような目で、ドン引きした西園さんが見下ろしている。


 ど、どぉする? なんてゴマかす? 


 地震で地下からバーベキューコンロが生えてきました、とか言う? そんなアホな……。

 業者に注文していたバーベキューコンロがさっき届いたみたいだ。ははは、こんなところに放置して去っていったのか。なんて無責任な業者だろうね、

 あははは……。


 だめだ! さっぱり説得力がない! だいたいこんなブロック積みで造られたアホみたいに重いコンロを、どこの頭の悪い人間がわざわざ運ぶ? 仮に運ぶにしても、重すぎて、たかが十数分のうちに運ぶなんて無理だし、これだけのものを運ぶなら大勢の人間がいたことになる。普通、気付きますよね? 

 なんか外が騒がしくなって。


「ねえ、このコンロの下、なんか黒く焦げたみたいな跡があるよ? さっきはこんなのなかったよね?」

「う、うん……」

「なんか、煙が立ち込めてるのかと思ったけど、ドライアイスか何かかな? 寒いんだけど」

「……そ、そう?」

「……」

「……」

「何を隠してるわけ?」

「……」


 もはや完全に疑いの目が僕に向けられていた。先ほどの凄まじい爆音、地震のような激しい震動、なぜか急に現れた巨大で重厚なバーベキューコンロ、すべてが自然な出来事には見えなかった。僕の動揺する様子だって西園さんには見抜かれていたかもしれない。

 どうする? ほんと、もうどうする!?


「造ったのよ。バーベキューコンロを」


 突然、先ほどから黙っていた雪音先輩が口を開いた。僕の全身の毛が一瞬にして逆立つのが分かる。なんのつもりなの? センパイ、バラしちゃうの? 


「ナ、何ヲイッテルンダイ? 雪音センパイ」


 僕は必死になって雪音先輩の暴走を止めようと躍起になる。けれど、もうすべてが遅く、西園さんは僕から雪音先輩の方に視線を向けていた。


「造ったって……誰がですか? それにいつ?」

「造ったのは、わたし。いつは、今」


 自分でも馬鹿馬鹿しいことを言っていると思っているんだろう。雪音先輩は、少し自嘲するように小さく笑いながら答えた。


「え? だって先輩はずっとあたしたちと部屋にいましたよね? これ……あたし達が部屋にいる間の十数分間に、ここにあったみたいなんですけど」


 意味が分からないが、何かの冗談でも聞かされているのだろうかと西園さんは、少し困惑したような、ぎこちない苦笑を浮かべている。


「セ、センパイ……」


 僕はセンパイを制止しようと身を乗りだす。だけど、センパイの方はもう諦めたような顔で少し考え込むように沈黙していた。けれど、やがて意を決したように顔を上げた。その表情には、いつもの笑みは消えている。


「もう、隠し切れないし、適当なことを言っても余計にやっかいな疑いを持たせちゃうだけよ、アガナくん。これからのことがやりにくくなるだけだと思う」

「だけど」


 まだ食い下がろうとする僕を無視して、先輩は西園さんに向き直った。


「話してもいいけど、西園さん、これから言うことは秘密にしてもらえる?」







 それから僕と雪音先輩は、西園さんに【クァンタムセオリー】について話すことにした。僕自身は、いまだに彼女に話すことが正しいとは思えないながら、一方でここまで来たら、中途半端な態度は余計に今後のことがやり難くなるという先輩の意見に、渋々ながら同意せざるをえなかった。

 僕は西園さんの前で【クァンタムセオリー】を操作してみせる。これがどういう技術のどんな仕組みで、どんな素材を基に創られているのかはさっぱり分からないこと。ただ、これで何ができて、何ができないかは分かっているということ。

 【クァンタムセオリー】には、独立型支援AIユニット【ここな】が搭載されていて、当初は人間らしい知性を持ったAIではなく、単にシステムの補佐をするためのものでしかなかった。しかし、僕がそれに擬似人格OSをインストールしたところから、凄まじい速度で学習、成長したことで、ある時点で擬似人格OSの定義を超越したAGI(人間の知性を超えた人工知能)として進化したこと。

 そして、僕らはこの超技術を使って、近い将来に迫る人類滅亡に備えるためのシェルターをこの山に建造しようとしていること。

 すべてを話した。最初はまるで信じていない様子だった。まあ、当然だろう。

 だけどそんな彼女に、僕は再び部屋に戻ることを勧めた。アレを見せるためだ。







 まるで竜巻が通り過ぎたあとのような彼の部屋は、散々なまでに散らかっていた。ほとんど足の踏み場もないくらいだ。その中を、なんとかあたしは彼に続いて進む。その後ろを雪音先輩が静かに続いた。


「【ここな】、前に使った【コーデックス】を出せる?」


 さっきのノートPCの前に立って、おもむろに彼が話す。驚いたことに、あれだけの暴風の中にあって、ノートPCも、その周りの良く分からない黒い箱のようなものも、一切無傷だった。ずっとスリープモードだったらしい。

 突然、画面がぱっと光り、【マイクラフト】によく似たブロックで描かれたおもちゃの世界と、奇妙な英語で記述されたログが続いている。そこへ日乃宮くんに呼び出されたAIが、ウィンドウの中に現れる。


『アガナ、彼女に見せるのですか?』

「うん」


 彼女は少し考えるような機械らしからぬ素振りを見せたが、すぐに日乃宮くんに向き直り、小さく頷いた。


『分かりました』


 言い終わらぬうちに、突然、青白い光りがノートPCのすぐ横で小さく輝いた。それは最初、とても小さなビー玉くらいの光の塊で、目にきついくらいの激しい閃光を伴っていた。そして次の瞬間には、一瞬でサッカーボールくらいの大きさまで膨れ上がる。もうこれだけであたしには現実のものとは思えなかった。

 日乃宮くんの説明によると、今より遥かに進んだ人工知能を超越した、ある種の人工生命だというが、彼にもよく分からないらしい。サイボーグニューロネットというもので出来ているとかなんとか……。

 彼自身がそうであるように、あたしにもよく分からなかった。

 その【コーデックス】とかいう光の塊を無視するかのように、日乃宮くんはノートPCに指を這わせ、キーを叩き始めた。画面上に光の塊を示すCG映像のようなものが浮かび、幾つかのログが表示された。

 わたしにはよく分からない英語か何かの羅列のように見えたけど、最後の一行の意味は理解できた。


『Aug. 29, 2036』。日付だ。


 やがて、すべての操作を終えたのか、日乃宮くんはキーボードから離れる。すると、光の玉は小刻みに震動を始めた。帯電しているのか、時折、青白い放電現象のようなものが光の玉の周囲で発生し、空気を切り裂くような音が響き渡った。


「ね、ねぇ、大丈夫なの?」


 急に爆発なんてされたらたまらない。

 日乃宮くんは答えなかった。すると、光の中心の中に渦のようなものが見え始める。水の波紋のような何かだ。それは徐々に光の奥から姿を見せ始める。同時に光が少しずつ弱まっていった。やがて、あたしと日乃宮くんの前で、先ほどのサッカーボールくらいの光は消え、代わりに同じ大きさの青銅色でリング状の物体が現れていた。あたしはもう驚きを通り越して、開いた口が塞がらない。言葉もなかった。

 何もなかった場所に光が現れ、それが消えたと思ったら、今度はリング状の物体が突然出現したのだ。

 そのリング状の物体は、輪の中央だけ少し欠けていて、何かを挟み込む器具のようだった。様々な幾何学的な模様が施されていて、まるで、古代のアラベスクのような凹凸がそこかしこに刻まれ、不可思議な陰翳を創り出していた。

 彼はそれをゆっくりと慎重そうに手にすると、今度は左脇にある黒い大きな箱型の物体の方に向かう。のっぺりとした飾り気のない、まさに箱という他ないモノリス状のもので、かなりの重さがありそうだった。それの脇に手を突っ込むと、どこからともなく細いコードを取り出す。コードの先端をそのリング状の器具に繋げていた。

 あたしの後ろで、雪音先輩が先ほどから起こっている奇跡のような現象を、ただ静かに落ち着いた面持ちで見守っている。先輩にも日乃宮くんにも、これは当たり前の現象なんだろうか。

 少なくとも彼にとっては慣れた動作が続いている。やがて作業が一旦完了したのか、彼はあたしの方に向き直った。


「西園さん、こっちに来てくれるかな。だいじょうぶだから」


 本当にだいじょうぶなのだろうか。得体の知れない機械を手に、日乃宮くんが手招きする。あたしは、もう一度、後ろに立つ雪音先輩に視線を送った。

 先輩は腕を組んだ姿勢で、無表情に見つめていたけど、あたしの視線に気付くと、だいじょうぶよ、というように微笑んでみせる。

 ただし、その瞳の奥には冷たい感情が潜んでいるのをあたしは見逃さなかった。あたしはしばらく躊躇していたが、やがて意を決して進み出た。

 なんとなく好奇心が勝ってしまったのだ。彼はあたしをモノリスの横、彼の目の前に立たせると、慎重な動作でリング状の物体をあたしの額部分に装着させた。

 リングの欠けた部分を前に、いつの間にかモノリスから伸ばした別のコードを引っ張り出し、新たにリングと繋げる。細かい調整のようなことをしながら彼は話した。


「これは、いわゆるVRMMOみたいなものなんだよ。仮想現実を体験する機械みたいなもの」

「VRMMOって、よくマンガとかアニメであるみたいな?」

「そう、でも、これは他人の見た記憶を追体験するためのもので……」


 彼はそこで言葉を区切った。あたしの頭に繋がったリングから手を離し、改めてあたしに向き直る。陰鬱な目があたしを見据えた。まるで何年も眠っていない人間のように、疲弊した顔付きだった。やがて、聞こえないくらいに小さな声でぼそりと囁く。




――すべて現実に起こったことなんだ。




 日乃宮くんは手近にあった椅子を引き寄せ、あたしに座らせた。


「【ここな】、準備できたよ」

『分かりました。【コーデックス】の接続を確認。システム異常なし。装着者との神経接続。フィードバック30に設定。脳波確認。……バイタル安定。人工神経細胞素子の同調を開始』

「西園さん、最初は少し眩暈がしたり何か小さな衝撃があるけど、だいじょうぶ。危険はないから」


 姫ノ宮ココナの声だけど、【ここな】という別のAIが、事務的に報告していく中、日乃宮くんが優しく囁いたかのように思えた。それに合わせて頭の奥で、ウィーン、という何かが高速回転するかのような音が聞こえ始める。    

 目の前が緑がかった青色のフィルムをかぶせたように色味が変化し、波紋に揺らぐかのように視界が、ぐにゃりと歪んだ。

 次の瞬間。まるで突然、ジェットコースターが逆走行するかのように、一気に視界が遠ざかっていく。あまりのスピードに視界の中央以外のすべてが光の筋だけを残して消え去っていくかのようだった。やがて、あたしの意識はその光に呑まれていく。ゆっくりと溶け出し、そして消えた。







 気がついたとき、周囲は夜だった。どこかの街の公園だろうか。あちこちに街灯が見えて、その周囲にまばらに木々が立っているのが見える。夜のせいか、周囲に人はいないようだった。


――日乃宮くん? 先輩?


 改めて周囲を見渡そうと思ったが、思うように身体が動かないことに気付く。それに二人に呼びかけようとしたが、あたしの口は自分の意思とは裏腹に、何も言葉を発さなかった。なんとなくだけど、その理由は分かっていた。

 今、それどころではないのだ。心臓はバクバクと鼓動を激しくさせ、呼吸は荒く、全身がびっしょりと濡れていて不快な感覚に襲われる。視界は落ち着かず、耐えず周囲を見回しながら“あたし”は走っていた。もうずいぶん前から走っていたのだろう。両足は悲鳴をあげていて、足の感覚がなくなりつつある。間接がかくかくと笑っているようで、まるで人形になった気分だった。けれど、それでも“あたし”は走っていた。

 公園を走り抜け、高い木々の茂みの先端から伸びる、ビルを目指している。どうやら、ここは日本じゃないらしい。

 どこかの外国のオフィス街だろうか。けれど奇妙なのは、かなり夜も深まって見えるこの時間に、あちこちで苛立たしげな車のクラクションが、ヒステリーのごとく叫び散らしていたことだ。そして、自分の心臓の音と荒い呼吸音で気付かなかったが、ずっと夜空にヘリのローター音のようなものが鳴り響いていて、それがどんどん近づいてきているようだった。

 あたしの胸に、言いようのない不安が押し寄せてくる。その時、あたしの視界の主、この身体の主と思われる人物が、何かを吐き捨てるように怒鳴るのが聞こえた。

 日本語ではない。あたしは今、どこか、外国にいる男性の視界を見ていることに気付く。その人物はずっと何かを毒づきながら、やがて公園の端にたどり着いた。そこはビルの建ち並ぶオフィス街を、少し高い位置から望む丘の上だった。

 男は立ち止まり街をゆっくりと見下ろす。相変わらず呼吸が激しく、視界はずいぶん揺れていた。すると突然、耳を裂くような轟音と激しい突風が上空から襲い掛かり、吹き飛ばされそうになる。

 暴力的なまでに強力な白い閃光が、あたしの、いや、彼の目を焼き尽くすように襲った。その閃光の衝撃のせいだろうか。一瞬、視界がホワイトアウトする。サーチライトだ。

 上空から黒い巨大な猛禽類を思わせるヘリが、周囲の木々を薙ぎ倒さんとするかのような暴風を吹き荒らし、低空で旋回していた。そしてこちらにライトを向けていたのだ。まるで、巨大な恐竜にでも睨まれているかのような恐怖があたしを襲った。その光の逆光のせいで、いったい、どんな人間がヘリに乗り込んでいるのかは分からない。やがて、そのヘリの後ろから次々に別の黒いヘリが現れ、それらはこちらの様子など無視して、前方の高層ビルに向かって飛び立っていく。

 そのうち、こちらにサーチライトを向けていたヘリも興味を失くしたのか、向きを変えて後を追っていった。その直後、あたしは信じられないものを見る。先に向かったヘリたちが、その黒い巨体を夜の闇に溶かしていこうとする直前、何か白い光を先端から発したかと思うと、遠くに響く雷鳴のような音を響かせた。先端で光った物体は二本のオレンジの光の尾を引きながら、凄まじい速度で高層ビルの中腹に突進していく。

 続いて、他のヘリたちも同じように光の矢のようなものを発した。それら数本の光の筋は、まっすぐにビルに向かって飛翔し、そして……。


ドガァァァァァァァァァァァァァァァァ!


 一気にビル全体を包むほどの巨大な爆発が起こり、耳の鼓膜が破れそうなほどの爆音が響き渡った。それまで薄暗かった周囲がまるで昼間のように赤く照らされる。そこらに落ちていたゴミは、突風に吹き飛ばされ、宙を舞った。


――ちょ、ちょっと何が起こってるの? これ、戦争でも起こってるっていうの?


 突然、何の警告もなく、冷たい機械のような感情のない攻撃が、容赦なくビルを破壊し悲しく慟哭するかのような金属の軋み音が夜の闇に響いたかと思うと、一気にビルは崩れ去った。激しい砂嵐が周囲を襲い、それは数ブロック先の通りにまで飛び散る。“あたし”は必死に両手で顔を隠し、凄まじい風圧で吹き飛ばされないように姿勢を低くしながら、砂嵐をやり過ごそうとするが、それらは容赦なく肺に入り込んでくる。

 苦しそうに咳き込みながら爆煙と砂埃にまみれた視界の中、なんとか周囲の様子を探るが、ほとんど何も見えない状態だった。遠くでたくさんの人々の悲鳴が聞こえるが、先ほどまで聞こえていたクラクションは、もうほとんど聞こえなくなっており、代わりに、盗難防止ブザーや、救急車、パトカーなどのサイレンが聞こえてくる。


――ヤバい、間違いなくここにいたら危険な気がする。


 遠くで何か爆竹のようなものが破裂する音が聞こえる。そうかと思うと、また別の爆発音が遠くで響き渡った。

“あたし”は先ほどから続く信じられない光景に疲弊し、身体全体が思うように動かなくなりつつある中、それでもなんとかフラついてでも歩く。ゆっくりと丘を下り、街の中をあてもなく歩いた。

 視界は相変わらずひどい砂埃で何も見えない。せいぜい、2メートル先までしか見渡せなかった。そんな中、黄色がかった真っ白な灰で、全身覆われたスーツ姿の中年女性が、目の前をぼんやりと歩いているのを見つけた。

 やはり、ここは日本じゃない。どこかの外国の白人女性だ。近づいてみると、灰だけでなく、全身が赤く濡れているのに気付く。彼女は何かうわ言のようなことを呟きながら、こちらに気付く様子もなく歩き去っていった。


――血? さっきの爆発でケガをしたってこと?


 “あたし”は、去り際の彼女の後姿をもう一度、目だけで追ってみる。その時、気付いた。彼女のジャケットが右腕だけ引き裂かれ、腕がむき出しになっていた。そして、その腕は、何か獣のようなものに噛み付かれたように肉が抉られている。腕からはまだ血が流れ、彼女の歩いたあとに赤い滴りを残していく。にもかかわらず、彼女は気にする様子もなく、やがて砂埃の奥に消えた。


――何か動物にでも襲われたっていうの? 


 あるいは、暴徒に襲われたのかもしれない。そんなことを思っている間に、今度は正面から数人の男性が、お互いに腕で支えあいながら進み出てきた。やはり外国の人間らしい。彼らも重傷を負っているらしく、血まみれだ。

 彼らは口々に何か呟いたり、あるいは怒鳴ったりしながら、まるでこちらの存在に気付いていないかのように素通りして行った。

 そんな中、突然、砂嵐の向こうから白いぼんやりとした光が発せられる。

 “あたし”は警戒しながら、そちらに注意を向けた。

 何か拡声器のようなもので男が叫んでいる。こちらに近づいているのだろう。男の声がだんだんはっきりと聞こえてくるようになった。それと共に何か巨大で、かなり重量のある機械が、地面を這うかのような震動と音がする。

 カラカラと乾いた金属のような響きが徐々に一緒に聞こえ出すと、やがて目の前の砂埃の中で黒い巨体が姿を現した。

 戦車だ。

 一両の戦車が、ゆっくりと人間の歩行スピードと変わらない速さで、通りを横切っていた。その後ろを数十人、あるいは数百人もの人々が列を成して歩いていく。この街の人間らしくスーツ姿のものが多く、皆、服を灰で泥だらけにしている。

 ケガをしているのか、時折、呻きながら口にハンカチを当てて歩いていた。そんな彼らを、武器を持った迷彩柄の兵士が大きな声を張り上げて誘導している。

 どこかの目的地に向かって市民を避難させているようだった。人々は疲れきっていて、ろくに喋れない様子だった。

 不意に、目の前にいた兵士が“あたし”の存在に気付き、何か英語で話しかけてくる。たぶん、列に加われと言いたいんだろう。だけど、“あたし”はしきりに両手をかざして拒否するかのように、兵士に向かって何かを訴えかけている。けれど兵士は聞く耳を持たず、苛立たしげに何度も同じことを繰り返し話していた。

 その時だった。突然、兵士が会話を中断して、右耳のイヤホンのようなものに手を添える。何かに戦慄を覚えるかのような面持ちで、兵士の顔に緊張がよぎる。次の瞬間、突然、背を向けて人々に向かって何かを叫んだ。明らかな恐怖の色が兵士たちの顔に浮かぶ。

 他の兵士たちも同時に叫び、激しく両腕を振り回して人々を急がせるような指示を出していた。戦車から聞こえる拡声器も、もはや怒鳴り声に変わっていた。


――な、なに? ……なんだっていうのよ!?


 その時だった。歩いていく人々の列の遥か後方で、銃声のようなものが響き渡った。そうかと思うと、先ほどまで疲弊しきってろくに話せなかった人々が、一斉に悲鳴をあげた。疲れきった身体で、我先にと逃げ出すように駆け出す。

 皆が必死に泣き叫び、悲鳴をあげ、前を行く人を押し合い圧し合い突き飛ばす。弾き飛ばされた人は、後方から迫ってくる群衆に踏みつけられ、もはや姿は掻き消されていった。

 そんな群集の狂気に駆られたパニックの最中、兵士たちは逆の方の何かに向けて、まだ目の前に市民がいるにもかかわらず、マシンガンを発射する。彼らも完全に恐慌状態だったのかもしれない。関係ない市民がその銃弾に倒れ、さらにパニックは加熱した。そしてその時、戦車が何かを叫んだ。

 それに気付いた数人の兵士が立ち止まり、戦車が指し示す遥か黒い上空の彼方を見上げる。“あたし”もつられて同じ方向に顔を向けた。暗く重苦しい夜空は、砂埃がわずかに消えていたけど、どんよりとした雲に覆われ、星はおろか月さえも見えない。

 その中で、何か青白い光がかなりの高度でゆっくりと飛んでいるのが見えた。


――飛行機?


 最初そう思ったそれは、あたしが知る限り飛行機にしては少し小さすぎるような気がした。それはどんどん、こちらに近づいてくる。

 それまで恐怖しかなかった兵士たちが、いつの間にか静かな面持ちでそれを見上げていた。もう誰も銃を撃ってはいない。何人かの兵士が、狂ったように叫んで飛び出す何人かの人々に突き飛ばされて転んだ。

 そのあと、すかさず続く誰かに踏み潰され、ぐちゃっという嫌な音がしたが、周りのどの兵士も、もうそんなことはどうでもいいとばかりに空を見つめていた。

 そして、その時がきた。

 ゆっくりと飛翔していた青白い物体が近づいてくるにつれ、実は物凄いスピードで飛んでいたことに気付いた。しかしその時には、もうそれはすぐそこに迫っていたのだ。

 それは、ちょうど“あたし”たちの真上を狙っていたかのように、かすめ飛んでいく。

 ……かのように見えた。

 まさに“あたし”たちの遥か真上に到達した瞬間、その物体を中心に瞬時に周囲がぼんやりと真っ白な光に照らされる。その光は一気に膨張し、ずっと暗い夜の闇の中にいたあたしたちは、急に白夜の世界に放り出されたかのように飲み込まれた。どこまでも続く白い砂浜の向こうで、凄まじい白の閃光、まるで洪水のようなそれが、街全体を一瞬にして白い世界に沈み込ませる。

 そして、何もかもが静寂に包まれた――。

 瞬間的に“あたし”の目の前で、突然、地面がせり上がる光景が見えた。

 それが、“あたし”の、いや、彼の最期の記憶だ。




 少し温かみのある穏やかな風が、あたしの頬を撫でていくのを感じた。あたしはゆっくりと目を開ける。眩い橙色の夕日があたしを照らしていた。いや、よく見ると夕日ではなかった。燃え盛る街の炎だ。

いつの間にか、どこかのビルの屋上に立っていたあたしは、遥か彼方に見える巨大な穴を見下ろしている。

 街一つを飲み込む巨大な穴は、崩れたビルの残骸や破壊された車、溶解しかけて曲がりくねった鉄材など、瓦礫が無惨に広がっている。人間の姿は見られない。

 恐らく、一瞬で蒸発したのだろう。あたしが立っているこのビルの屋上も、実際によく見ると屋上などではなかった。崩れたビルの残骸、その一番高い位置にむき出しになった鉄骨の上に、かろうじて立っているのだ。

 あたしは視線をさらに周囲へと向ける。どこを見ても同じ光景が広がっている。文明と呼べるすべてが、燃え尽きた世界だった。彼が言った通りだ。これは確かに記憶だ。それは間違いない。

 けれど、同時にあたしの中にある本能のような何かが、しきりに声を張り上げてこう叫んでいた。


――これは現実にあったことだ……。


『タイムコード2036世界線α0001、終了します』


 突然、耳元で、どこかで聞いたような女性の合成音声のようなものが囁いた。すると、再びあたしの目の前の光景が、緑がかった青いフィルムがかけられていく。そうかと思うと、今度はジェットコースターが急に走り出したかのように、周囲が光の筋に溶け込んでいった。あたしの意識が、再度、消えていく。






「……」


 高速回転していた何かが、ゆっくりとスピードを落としていくような機械音と共に、システムがすべての動作を終了させ、停止していく。眠っていたように目を閉じていたあたしの瞳が、ぎこちなく開かれた。目の前には、心配そうな面持ちであたしを見つめていた日乃宮くんがいる。

 あたしは、おぼつかない手つきで頭に装着していた【コーデックス】に手をかけようとしたが、ずっとあたしを見守っていたらしい彼が、代わって頭からそれを外してくれた。

 あたしはそのまま立ち上がろうとしたが、そんなあたしを優しく彼が制した。


「まだ動かないほうがいい。VR空間に接続されていた感覚神経が、まだこっちの世界の情報を正しく認識できていないから急に動くと危ないんだ。でも、すぐに回復するよ」


 言われて確かに、自分の身体が自分のものでないかのような気だるさと違和感があることに気付く。まるで全身麻酔をした直後のように、身体が重く、思うように動かせない。けれど、徐々に感覚は戻りつつあるようだった。

 あたしは彼に言われるまま、立ち上がることを諦め、座ったままぼんやりと虚空を見つめていた。自分が見たことを整理しようと思ったけど、いまいち頭がうまく働かない。だけど、これだけは確かだ。

 あれは現実なのだ。本能といってもいい。何かの幻覚を見せられたのとはワケが違うと、あたしの中の全存在が告げていた。

 やがて、あたしの身体がようやくまともに動き始めたのを見計らって、雪音先輩が熱い紅茶のティーカップを優しく差し出してくれた。あたしはそっと受け取り、ゆっくりと慎重に口に運ぶ。熱い紅茶が、いつの間にか冷え切っていたあたしの身体をじんわりと満たしてくれた。今、思い出した。今は夏なのだ。暑くて仕方がない夏の盛りの午後だ。それなのに、あたしは、寒さで震えていた。

 寒くて寒くて、凍えていたのだ。







「あれは現実だった……」


 西園さんはただ一言、うわ言のようにそう呟いた。あのあと、僕らは西園さんの前で、再び【クァンタムセオリー】を起動させて見せた。僕が大量に業者に発注した砂と、産廃業者から引き取ったガラス廃材、そしてゴム製のゴミを幾つか集めたものが、一瞬にして小さな大量の瓶として広場に現れるのを、西園さんは目の当たりにしていたが、もはや驚くような素振りは見せなかった。


「分かってもらえたかしら。わたしたちは、これでシェルターを創って、その時に備えているの」


 雪音先輩がそう言う。

 そんな雪音先輩に向けて、思い出したように西園さんが口を開いた。


「あの映像は未来で起こることなの? どうしてそんな未来の映像なんかが、あんな機械で見れるの? あれは何なの?」


 今になって混乱し動揺したように、彼女が質問を続けざまにかぶせてくる。僕はそんな彼女を少し落ち着かせるように手をかざし、ノートPC、【クァンタムセオリー】を操作する。


「正確にいうと、さっきの映像は未来じゃないんだ。過去に起こるはずだった出来事らしい。僕らにも詳しいことはよく分からない。簡単には信じられないかもしれないけど、西暦2000年の11月2日に、アメリカのある情報機関に一人の男が現れた。何もかもそこから始まってる」


 キーを操作しながら、僕は説明を続けた。やがて、【クァンタムセオリー】のモニターではなく、壁にかけている大型テレビに映像が映った。髭を生やし、髪が薄くなった壮年を迎えて久しい白人男性の顔が画面上に映る。







「彼の名前は、ジョン・タイラー。

その時、彼は2036年の未来から来た、タイムトラベラーだと名乗ったんだ」





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