巻の六「不可避」

第43話「呼ぶ声」

 正面の扉が蹴破られたとき、もうダメだと思った。

 だから目の前に現れたのが、子どものころからずっと近くにあった姿だと分かったとき、ここから逃げ出そうと全身に張りつめていたものがブツっと切れた。ガクッと体の力が抜けて、ぶわっと込み上げるものがあって――いやそんな場合じゃないと思い直した――はずだったのに、ポロっと涙が零れ落ちた。

「楓花!」

 駆け寄ってくる姿に、楓花は慌てて目元を拭い、

「すみません志均さま、私は大丈夫です。でも――」

 そう言って楓花は傍らに目を落とす。彼女の右手には春麗が、どこか虚ろな目をして四肢を投げだしていた。

 大理石が敷き詰められた室内は、女二人が並べられてもまだまだ余裕のある大きな床台ベッドが半分を占めている。四隅の太い柱が支える天井には、反弾琵琶姫を中心に、たおやかな飛天たちが自在に空を舞い踊る多彩な絵図。

「とんだ大宝雄殿だな」目を落とした琉樹が舌打ちする。そこで驚愕の表情になり、

「お前、血――!」

 白いふすま に赤く擦れた跡があり、辿った目が楓花の右手に行き着いたのだ。

「ああ、これ」

 明るい声を上げながら楓花が開いた掌は赤く染まっていた。そこから転がり落ちたのは、耳環である。

「祈祷をするからここで待つようにって、そこの僧房みたいなところの一室に案内されたの。私は彼女を送り届けに来ただけだって言ったんだけど、欠席が出たから特別にって半ば強引に……。そうしたら麻沸散の匂いがしてきたから、嫌な予感がしてとっさにこれを握ったの。なるべく息も詰めて――お陰でなんとか意識を保っていられたわ」

「麻沸散と分かったんですか」

「はい、それは」

 問うてきた志均に、楓花は薄い胸を張って答えた。

 「それで?」続きを促す琉樹に楓花は目を向け、

「そこで寝たふりをしてたら、入って来た僧にここに運び込まれて、どこからかぐったりした春麗さんまでかつぎ込まれて、並んで寝かされたの。そうしたらあの男が入って来て、鼻の下伸ばして床台に上がってくるじゃない! だから思いっ切り――」

 そう言ってビシッと指さした先には、丸い身体をさらに丸めて悶えている寝衣姿の男の姿があった――陳丁である。

 そちらにチラッと目を投げた琉樹が、「うわあ」という顔で顔をしかめた。ボソッと呟く。「気の毒……」

「はあ? どっちがよ!」

 言い合う兄妹の傍らで、志均がはあっと大きくため息をつき、

「いいから、手を出しなさい」

 そう呆れながら言ったときである。

 突然、鐘声が大音声で響き渡った。

 振り返れば、さっきまで呻きながら転がっていたはずの男が、太柱の陰に吊るされた鐘に飛びつき、立て続けにそれを木槌で打っていた。

 琉樹が大股に近づき、襟をひっつかんで締め上げる。男は潰れた声で喉を鳴らしながら、木槌を取り落とした。

「てめえ陳丁――この色ボケじじい、清廉潔白の評を守るために、陰で困窮する若い女を慰みものにして、用無しになったら渠水へ放り込むのか。菩薩が聞いて呆れる、覚悟はできてるんだろうな!」

 言うなり、陳丁を地に叩きつけた。またしても情けない悲鳴を上げ、だが本能なのか、足元をもつれさせながらも素早く立ち上がった。

「小癪な――。お前ら二人か。二人だな」

 小太りの老人は、帯を結びながら後ずさる。ひきつった笑い声は、明らかに虚勢だった。

だが門が派手な音を立てて開き、複数の足音が駆けつけるのが聞こえてくると、陳丁は一転、腹の底から笑い声を上げ、

「却って好都合。最近連続殺人などと騒がれるものだから、どうしようかと思っていたところだ。おまえらを渠水に放り込み、殺人犯、逃げ切れず自殺――という幕切れとしよう」

「これはまた――あっさりと口を割ってくれたもんだ」

 琉樹は鼻うと、ゆっくり歩を進め、

「それにまた随分と単純な幕切れ――安いしばいだな」

 陳丁は慌てふためいて外に出て、階段から転げ落ちた。だがまたしても素早く立ち上がり、門に向かってよたよたと走る。入れ替わるように体力自慢な僧形が、手に棒やら錫杖やら、それぞれの獲物を持って現れた。

 彼らの背後には、ひときわ図体のでかい、ただ一人有髪の若者。隆々たる腕が、刀身の曲がった大剣を握っている。陳丁はその男に取り縋り、

「おお、よう来てくれた!」

伯伯おじさん、もう大丈夫です! 下がっていてください」

「いやはや、美しい血縁愛ってか」

 二人を見比べながら、琉樹は階に一歩足を掛ける。楓花は思わず床台を下り、駆け寄ろうとして膝が砕けた。「危ない!」手を伸ばしてきた志均に、それ以上動くのを押さえられる。

「大兄!」

 楓花の声に、一瞬だけ琉樹が動きを止めた。だが、

「そこから出るな。こっちで押さえる」

 振り向かずにそう言い、一気に階段を駆け下りる。すると柳の背後に隠れていたはずの陳丁が突如前に出てきて、

「馬鹿め。ここはワシの寺、お前がどれだけ喚いたとて、誰も来はせぬ。悪あがきはやめることだ」

 笑いながら吐きつけた言葉に呼応するように、階の下で僧形たちが琉樹を囲むようにざっと半円を作った。

 その様を眺めながら琉樹は鼻で笑い、

「本尊もないのに寺? 聞いて呆れる。そしてこいつらは似非坊主――じゃあ遠慮はいらないな。いいぜ、どっからでもかかって来な!」



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る