第2話

「…あぁ、ありがとう」


示されたのはカウンター席。

戸惑う俺の正面に立つ白髪をオールバックに決めたマスターは、やはりにこやかに対応してくれる。


「いかがされました?」


「雰囲気がありすぎて場違いじゃないか、と気後れしてね」


「ははっ、お気になさらず。

 お客様あっての我々ですので自由に寛いでください」


張り詰めた心に滑り込まれるようなやりとり。

初めて来たはずなのに何年も通った常連のように感じさせる。

難点はメニュー表がなく、どんなものが置かれているのか、一体いくらかかかるのかがさっぱり分からないことか。


「何にいたしましょうか」


「そうだな…その前にメニューを見せてもらえないか?」


「何を仰います。

 店置きのメニューに『貴方の物語』など存在するはずがないでしょう?」


「なっ…」


「自由になんなりと仰ってください。

 ただ、料金は三千万円いただきますが」


にこやかに笑うマスターとカウンターに座り唖然とする俺。

極度の緊張に視野が狭くなったのか、周囲の光景が吸い込まれていくような錯覚に陥る。


だが俺は覚悟はしていたはずだ…見詰め合う時間はそう長くなかった。


「後払い、だろうか?」


「これはこれは…お調べになったのではないですか?」


「何故分かる?」


「この場はただ調べるだけでは辿り着けはしません。

 現に今、店にいらっしゃるのはお客様だけでしょう?」


俺が店に入ってから扉は開閉されていない。

つまり誰の出入りも無いはずだ。


だというのに、周囲を見渡せば確かに誰も居ない。

テーブルで湯気を上げていたカップと、新聞を広げてゆっくりと時間を過ごしていた老人。

フォークの襲撃を受けて欠けたケーキや、談笑していた女性二人も…何一つ、誰一人存在しない。


そこにあるのは無人となった店内の風景で、開店を待ちわびるような落ち着いた静かな空気が流れる。

いくら辺鄙なところにあろうと、こんなにも厳選された調度品に囲まれた喫茶店が流行らないはずがない。

いや、それどころか店に入った時には確かに人が居たはずのに、思い返してみると誰の顔も、何処の席に居たかも覚えていない。


ありえない状況に内蔵が悲鳴を上げ、吐き気を催し口元を押さえる。

ぐらつく視界のせいか座っていた椅子からずり落ちて倒してしまう。

俺は何とか踏みとどまったが、急激なストレスに晒され全く格好が付かない。

実に楽しそうにしわを深め、カウンター越しの異常者は落ち着いた声色で付け足した。


「渇望する理想を持つ者のみに開かれる『理想の茶室フィクションズカフェ』へようこそ、蓼丸たでまる 鏡耶きょうや様」


何故俺の名前を知っている?!

声も無く驚愕に震える俺と、笑みを深めるマスター。

にこやかなマスターに意味もなく怖気を感じ、心を揺らされて冷や汗が噴出す。

心なしか背景が遠ざかり、孤独感を煽られるような錯覚に陥る。


くそ…相変わらず俺は想定外アドリブに弱い。

あいつならこんな異常事態でも平然としていられるんだけどな。


「驚くことはありません。

 よく存じ上げていますとも蓼丸様。

 勉学が得意で神童と呼ばれたのが十歳ごろ。

 中でも計算能力がずば抜けており、それが講じてプログラムに着手したのは十三歳でしたか。

 十九歳で情報改革によるコンサルタント業務を請け負う、株式会社アレイスを立ち上げましたな。

 数々の大企業で成果を上げ、情報産業界の麒麟児として経済誌に取り上げられたのが若干二十三歳。


 順風満帆かと思われる中、虚偽の告発によりCEOの座を降ろされたのがつい先日。

 『大企業CEOによる大規模テロの画策』…と、告発内容は衝撃的センセーショナルですが証拠はなし。

 普段なら飛ばし記事ゴシップと一笑に付されるはずが、親友の相沢あいざわ 颯太そうたによる証言のため信憑性が非常に高いとされています」


「…………まだ表には出ていないはずだが…?」


今更遅いが、十年の経営者経験による鉄面皮を被って平常心を装う。

大企業へと育ったアレイスの…いや、俺の不祥事は日本を揺らがせかねず、内容もかなり際どいものだ。

故に罪状を洗い出して確定させていない今はまだ表に出さない。

逆に言えばこの瞬間を逃せば、俺が反論する余地を奪われる可能性が非常に高い。

それこそ、大した証拠も無いのにクビにされ、警察と公安の両方から事情聴取を求められてる。

これから出てくる証拠は全部俺に繋がってるだろうからな。


だから今、刻々と追い詰められ、颯太が好きに振舞っている。

まぁ、あいつは乗っ取りとか絶対できないだろうけどな。


いや、待て。

今さっきあの爺さんは表にも出ていない情報に対して『虚偽の告発』と言ったぞ?

何故『虚偽だ』と判断できる?

ハメられた俺が言うならともかく、なぜ爺さんがそんな事情を知っている?

むしろそこまでの情報網を持っているのなら、俺が助けを乞えば…。


「これはまた異なことを仰いますね。

 その程度のことが分からず、どうして『貴方だけの物語』が何故書けるのか!」


いや、訊かれても。

変なところでお茶目を発揮するなこの爺さん。

思わず呆れて緊張を解いた俺に畳み掛ける。


「蓼丸様、ご決断を」


…はぁ、これはダメだな。

好きでやっているから職責に忠実で、だからこそ一切の横槍を嫌う現場タイプ。

そんな相手に『仕事中の決断』を問われてしまえば情に訴えるのも無理だ。


であれば。


ドカッと後生大事に持っていた鞄をテーブルに置く。

何処にも使えず、いずれは取り上げられるこんな金、今の俺にとっては無価値でしかない。

名残惜しい気持ちはあるが、決断は下した。

取っ手から手を離し、


「あぁ、よろしくたのむ」


目一杯かっこつけて言ってやると、マスターは「承りました」と恭しく頭を下げた瞬間、彼を残して周囲が黒く染まる。

さっきみたいな錯覚とは違う。

真っ黒に染められていく様にジリッと後ずさるも、爺さんとの距離が開かない。

動いている感覚はあっても、だ。


「そんなに怯えなくてもよろしいではありませんか」


「馬鹿言うな。

 こんな異常事態で普通に返してる俺の方を褒めるべきだろう」


「確かに。

 多くの方は慌てふためいて落ち着かせるのに苦労しますな」


「こんな演出をすれば当然だろう。

 俺が広告手法プロモーションを監修してやろうか?」


「ははっ、大企業のCEOにご参加いただければわたしも安泰ですな」


俺は震えを隠して「元、だがね」と茶目っ気たっぷりに返す。

まったく、こんなにも現実離れした爺さんが気さくで助かる。

これで堅苦しかったらプレッシャーに潰されかねない。

そんなことを考えていると見透かされたようなタイミングで「さて、気も解れたところで再度ご質問です」と先を促される。


「どのようなことから始めましょうか?」


あぁ、そこが問題だったな。

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