オマージュ

@mito_shimotuki

星を食べた話

 煙草を吸おうとベランダに出たところだった。夜風がむき出しの腕にぴしぴしとぶつかってくる。スモッグに覆われた空の切れ間からいくつかの星と月が、下手くそなかくれんぼのように覗いている。

 何とはなしに空を見上げると、一つの星が瞬きをした。

 アレッ、と思う間もなくその星は眼前から消えてしまって、隣には紳士然とした男が立っていた。

 紳士は被っていた山高帽子をひょいと持ち上げて僕に挨拶をする。彼の顔は真っ暗で何も見えない。

「君は初めましてだね」

「こんばんは」僕は言う。紳士の声は金属的で表面がザラザラしている感じだった。

 紳士は僕の頭から爪先までをショーウィンドウでも見るように眺めた。寝巻き代わりのシャツとよれたジャージだったからなんだか恥ずかしかった。

 ふむ、と納得した風に数回頷く。僕は中途半端に出していたライターをポケットの中にしまった。

「やはり君はアレを食べてしまったんだね」

 紳士は右手に持ったステッキを器用に手の中で回す。仕草と雰囲気があっていない、変にちぐはぐした人だ。ところで、アレとは何だろう。

「アレだよ! まさか忘れてしまったのかい。あんなに間近で見ていたのに」

 心底驚いた。つまり僕はさっきまで瞬いていた星を食べてしまったのだろうか。紳士を見上げると、彼は山高帽子を被りなおして僕の肩を叩いた。

「君、火を持っているかい?」

 僕は先ほどしまったライターを差し出す。紳士はすらりとした指の間にチープなそれを受け取った。彼が持つと一見して高級なもののように見える。

 僕は自分の腹をさすってみた。星は今、消化されようとしているのだろうか。

 火を小さくつける音がしたかと思うと、目の前にライターが差し出された。手の平に落としてもらう。

「さて、行こうか」

 いつの間にか取り出したらしいパイプをくゆらせながら、紳士は言った。どこへ、と尋ねるよりも早く僕は腕を引かれていた。紳士はステッキを傘に変え、テラスの手すりを軽やかに蹴った。月明かりに照らされても紳士の顔はわからない。

「あなたは何?」

 恐怖はなかった。いつか着地することを知っているからかもしれない。振り返ることなく紳士はあのザラザラした声で高らかに笑った。そして彼は、ほうき星というものを知っているかな、と言う。

「あれと同じようなものさ」

 瞬きをする間に僕は地面に立っていた。紳士は傘を閉じた。

 辺りを見回す。妙にだだっ広い砂利道にいる。車が三、四台は並列して走れそうだ。空は完全に薄紫のスモッグに覆われて月すら見えない。

 紳士が先を歩いていく。後ろをついていくと、狭くこぢんまりとした公園や、古い城や、ゆがんだそそり立つビル郡などがそこかしこに立ち並んでいた。どれも奇妙にねじれている。

 一体なんなのかと考えていると、先を歩いていた紳士が両手を大きく広げてこちらを振り向いた。

「君はこれをどう感じる?」

 僕は漠然としたまま、思ったことを彼に告げる。

「変な気分になる」

 すると紳士はやや落胆した顔になって、しっくり来ないのか、と首を傾げた。そしてまたすたすたと歩いていく。僕はその後ろを追う。今度はゆったりと円運動を繰り返す坂道、逆三角形が乗っかったような高層ビル。そんなものが続いている。

 時折紳士がこちらを向いてどうだと尋ねてくるが、僕の答えは変わらなかった。その度に彼は残念そうな顔をする。

 やり取りを四度ほど続けた後、とうとう紳士は我慢がならなくなったらしく、ステッキで――いつの間にか傘は再びステッキに戻っていた――地面をドン、と叩いた。

 茶色いドアの小さなお店の前に着いていた。ショーウィンドウには宝箱に色とりどりの星が詰め込まれてある。

「君はアレを食べたんだろう? 何故ここに馴染まない!」

 金属を叩いたときのような音で紳士は叫ぶ。僕は耳を塞ぎたくなった。顔は見えないが紳士がこちらを睨みつけているのがわかる。

「あなたが言うような事はなかったのかも知れません」

 僕は申し訳ない気持ちになりながら言った。

 紳士は急に凍えたようにぶるりと大きく身体を震わせた。

「それなら君の好きにするといい」

 指を高らかに鳴らしたかと思うと、瞬きの間に紳士は消えてしまった。煙のような人だ。

 取り残された僕は目の前にある茶色い扉を開けた。軽やかな鈴の音が来客を告げる。やあ、いらっしゃい、と顔を覗かせたのは白い兎だった。鼈甲縁の眼鏡をかけている。店主はカウンターから降りてきた。僕の膝くらいしか身長がなく、腰エプロンをしている。

「何をお探しかな」

「……ここに馴染むにはどうすれば」

 僕の問いかけに、兎の店主はそうさね、と独りごちて宝箱の中から一つの星を取り出した。それは白色であったが、見方によっては青色にも黄色にもなるのであった。

「そんなもの食べなくても、自分の目で見ればなんてことはないんだよ」

 店主は僕の手の平に星をそうっと乗せ、そんなことを言う。僕は答える代わりに、おいくらですか、と尋ねる。すると店主は小さくそうさね、と呟いた。視線がショーウィンドウの向こうへと移る。つられて僕もそちらを向いた。

「反対の通りに、月が落ちているからそれを持ってきてくれないかい」

 僕は快く依頼を受けた。星はポケットの中にしまっておく。

兎の店主はカウンターに戻り、手を振った。僕は店の外へと出た。反対側の通りは橙色をした街頭の光にぼんやりと照らされている。その一つの街頭の下に、趣を異にした光があるのに気付いた。小走りに近づいて見てみると、ビー玉ほどの月が一際明るく光っていた。

 僕は月を拾い上げようとその場に屈んだ。その時、胸ポケットに入れていた煙草の箱が転がり落ちた。箱は中身をいくつかばら撒き、月にぶつかる。ぶつかった拍子に火がついたのか、一本から煙が揺らめき立った。

 僕は一連のことを捉え、ただ一言。

「あ」

 途端に僕の中からちらちらと赤く瞬くものがするり、と零れ落ちた。星だ。

 星はカツンと音を立てて地面に転がった。僕は割れないようにそうっと拾い上げて、元来た道を振り返った。

 狭い公園も立ち並ぶビル郡も、運動を繰り返す坂道も、全ては僕の知る馴染みの街であった。

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