放り出された子
綾上すみ
雑踏
ただそこでごったがえすこと、そのことだけを考えている人々が集まって、騒音をまき散らす商店街に、確かに不似合いだった。夏の暑さと人いきれが相まって息苦しく、彼女の押すベビーカーに入れられた子は明らかに不快そうな表情をしていた。雑踏はその、二十代も半ばに達していないような母親のことを避けることもなく、彼女の押すベビーカーの動きはのろい。コンクリートの地面何度も踏みつけられでこぼこになっていて、その子の乗り心地はさぞ悪そうだった。そのこともまた、子の機嫌が良くない理由ではあった。
母親の目的は、彼女自身もわからなかった。種々雑多の思いが、少しずつあって来た。それは、ただそこでごったがえす人々ともあまり変わりないだろう。商店街に用はない。この通りを超えた先に目的地があるわけでもない。ただ誰とも知らない男との交尾――彼女にとって男との性交は交尾だとしか考えられなかった――、それだけをその女は考えていた。誰の子かもわからない子を孕み、金はなく、両親は中絶費用を出し渋った。だから、産み落とした。
その人ごみには珍しく道を急いでいた女性の衣服が、ベビーカーの角に引っかかった。女性はそれに気づかず、ぐんぐん前に進む、ベビーカーが傾く、放り出される形で中の子が飛び出した。急な障害物に対応しきれない群衆の数人が、子の背中を蹴った。子はその場にうずくまり動かなかった。母親は、その間に三歩分前にベビーカーを押しており、服をひっかけた女性に謝られながら、
――今日は厄日だ。
などと考えていた。女性は、少し離れた距離にいる幼児に、心底心配そうな視線を向け、もう一度母親を向き直った。母親は、まったく動かない。事実が飲み込めないのであろうと女性は判断し、人の流れに逆らって子を助けに行こうとするところで、
「その子に触るな!」
悲鳴のように叫んだ母親の声にびくりと身を震わせた。
「ここまで歩いて来させます」
「でも」
「あなたには関係ない! そして、これは私にも関係のないこと。あの子が、どうしたいかなの。その場にうずくまりたいのか、それとも私のもとに、自分の足でやってきたいのか。あなたは、もう行っていいわよ」
女性は母親の、あまりに理不尽な言いぐさが甚だ不快で、眉を寄せながら、あるいは気がふれているのかもしれないと自分に言い聞かせて、人の波に同調していった。
うずくまっている幼児と、空のベビーカー、立ち止まる母親といったところから、群衆の幾人かが気づいたらしく、彼女らを避けて通る。ある人は立ち止まって子を抱きかかえようとするが、それに母親は、
「やめろ!」
と吠えたてる。――今や群衆は、その親子の動向を見守り、停滞していた。助けにゆかない母親を非難するという目的で立ち止まり、皆が普段ありえないはずのぎすぎすした雰囲気にとらわれていた。
周囲の目にさらされていた、憐れむべき幼児は、――ついに己が両足で、でこぼこのコンクリートを踏んづけ立ち上がった。その一歳の、幼児の表情よ! ベビーカーに揺られていた時の、翳りは一切見受けられない。鋭い目で、集中して一点、母親のみを見つめている! ゆらり、と一歩を前に出し、地面を踏みつける。群衆にとっては、その一歩が巨人のそれのように思われ、地面を揺るがしているようにすら感じられた。そして幼児を動かすものは、なんなのか疑問をもった。母親のもとに戻りたいという本能か、普通あるはずの愛情を受けられないが、それでも生き抜こうとするしたたかさか。
自らの元まで戻って来た子に対し、母親は何も言わず、ただ冷めたように見える笑みを浮かべ、抱きかかえて元通りベビーカーに乗せた。そうして平然と歩きだした。寄せ終わった波が少しずつ引いていくように、人の流れがまた生まれた。
母親は、父の愛を知らないわが子はしかし、一人でも生きていけると考えた。母親とは別の方向に歩いてもよかったのだが、母親のもとに帰って来たことが、少しむずがゆく、その感情が晴れるまではこの子を愛そうと思った。
けれどそのことは群衆にとって関係ない。彼彼女らはただそこで群れを成すこと、そのことだけが目的なのだから。
放り出された子 綾上すみ @ayagamisumi
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