後編 12

逡巡していると、またもや鈴屋が立ち止まってしまった。老人は急に止まれない。やむなく、女性にしてはだだっ広い背中に顔を埋める羽目になった。

「何だ、今度はどうした」

「ちょっと、静かにしてくれ」

鈴屋の顔つきが直前とは違っていた。何か聞こえたらしく、耳を澄ませているようだ。遠藤も一緒になって耳をそばだててみたが、何も分からない。

「間違いない、こちらだ」

突然、歩き出す鈴屋。しかも先ほどまでより遥かに大股で、ずかずかと突き進む。遠藤もつられて小走りになる。

「お、おいちょっと待て。急に走り出すな」

言いたくなかった言葉をついかけてしまった。しかし、鈴屋は気にも留めていない。無言で、曲がりくねった通路を歩き続ける。

「何だというんだ。何が聞こえたんだ」

小走りで喋るのは、遠藤には辛い。相当辛い。しかし鈴屋はお構いなしだ。

「いや、有り得ない。有り得ないとは思うのだが、私は小隊では耳が良い方だ」

「だから、おい、もう少しゆっくり頼む。何があったん、だよ」

「分からん。こんな所にいる筈がないんだ」

通路を抜けて、多少開けた区画に二人は出てきた。ここは通常の白い照明がついている。さっきまでの赤黒い空間よりは、ずっと歩きやすい。

「こ、こ、は、何だ」

最早遠藤は声を枯らしている。鈴屋は相変わらず、平然としているというのに。

「整備員用の区画だ。いくつも扉があるだろう、それぞれが各種機械室への入り口になっている筈だが」

その、最も奥の扉の前に、鈴屋と同じ重装歩兵が立っていた。たった一人で、足元に銃を降ろし、こちらには気が付いていない風である。

「…曹長?」

「あんたの上官か。良く分かるな」

曹長や鈴屋に限らず重装歩兵たちの顔は、鎧武者の顔に着ける面頬に似せた防毒面が覆っていて、正直遠藤には誰が誰やら分からない。確か袂に認識票や階級章が縫い付けてあったはずだが。

「あの物腰は間違いない。曹長殿!」

曹長と呼ばれた男は、機械室の扉を開け放ち、今まさに中に入ろうとしていた瞬間だった。駆け寄ろうとしていた鈴屋は、彼の仕草にどこか違和感を覚え、足取りを躊躇った。

その手が、腰の帯をほどこうとしていたように見えたからだ。

「鈴屋?何だ、こんな所で何をしている」

それはこちらの台詞だった。防毒面を通しても分かる、動揺。曹長こと、頼もしい筈の上官は、信頼すべき部下の登場に慌てふためいているようにしか見えなかった。

「は。尋問を終了し、捕虜を下層区画に連行していたところであります。曹長殿は、ここで何を?」

「お前には関係のない任務だ。ああ、任務だ。さっさと行け。その爺が捕虜だったな、早いとこ連れていけ。早くだ」

未だかつて見たことが無いほど焦燥に駆られている上官に、鈴屋は不審を覚えた。

そこへ、機械室から、ひょっこりと出てきた小さな顔があった。

「アリス!」

遠藤がひと声あげる。これまでの消耗はどこへやら、突然走り出す。

「あ、こら、遠藤さん。急に走るな。危ないじゃないか」

止める鈴屋の声など聴くはずもない。機械室から現れたのは、間違いなくアリス・リデルだった。向こうも遠藤を発見し、ぱっと笑顔を見せる。遠藤は端末の翻訳機能を作動させる。

「Mr.シュウ!」

「待て、爺、止まれ」

歩兵銃を床に置いているため、腰の拳銃へ曹長は咄嗟に手をやった。だがそれすらも見えておらず、「どけ!」とばかりに曹長を突き飛ばし、遠藤はアリスの手を取った。

「こんな所にいたか!ケガはないか!酷いことはされてないか!」

「大丈夫よ。Mr.シュウこそ傷だらけだわ。何があったの?大丈夫なの?」

「俺のはかすり傷だ。いや、良かった」

翻訳機能を作動させたため、遠藤の言葉は周囲には英語として発声されている。アリスの言葉も日本語に変換されているが、骨伝導方式により聞こえているのは遠藤だけだ。

結果、軍人二人にはこの老人と白人の少女が英語で会話しているようにしか聞こえない。

「どれほど心配していたんだ、全く」

まるで本当の祖父と孫のようである。人種も生まれた国も、年齢すらかけ離れているあの二人が、何故ああも和気藹々としているのか。ほんの少し前までの鈴屋なら、やはり理解できなかったろう。

しかし、今は何となく、二人の友情の正体が分かる気がした。

「おい、鈴屋」

ずい、と、曹長が鈴屋の前に現れた。さっき老体に突き飛ばされた屈辱からか、その声は上擦っている。

「何だ、遠藤さんというのは。それに、何故あの爺から端末を取り上げておらんのだ」

隊で聞き慣れた、上官からの詰問。瞬発的に襟を正し直立不動の姿勢となって、鈴屋は声を張り上げる。

「は!その必要性がないと判断したからであります!」

「判断?判断とは何か」

「は!そちらの遠藤氏は、一介の服飾業者であり、こちらの脅威足り得ないと判断しました。又、決起当初に電子兵器を使用したことから端末で外部に連絡される恐れもなく、取り上げるまでもないと考えたのであります」

鉄拳が、腹に飛んだ。

鈴屋の体がくの字に曲がる。声を上げそうになる。だが、ひと声でもうめき声をあげれば、更に苛烈な暴力が待っている。

「有難うございます!」

直ちに姿勢を正し、鈴屋は一礼した。

「判断などとは、お前らの如き一兵卒がすべきものではない!所持品を全て没収し無力化する!それが捕虜に対する原則である!そんなことも分からんのか、馬鹿者!」

「は!申し訳ありませんでした!」

「大体、俺はお前に、あの爺の連行を言い渡したはずだろうが。何故こんな所にいるのだ、答えろ!」

「は!連行中、曹長殿の声が聞こえましたので、確認に参りました」

殴られた。今度は顔だった。

「お前は上官の命令を無視するのか!」

「申し訳ありません!」

鈴屋は一礼する。これが、軍隊なのである。上の命令には絶対服従、その為には、如何なる理不尽も暴力もまかり通る。自衛隊時代は、違っていたのかもしれない。だが、現在の国軍の現状は、こんなものだ。鈴屋のような下の人間は、粗暴な上官を耐え忍ぶしかない。

「何だその態度は!」

また、殴られた。今度の拳は、理由も分からなかった。と、いうよりも、既に曹長の言葉がどこか遠い所で語られているように、聞こえなくなっていた。だからとにかく、機械的に謝罪し、一礼しておいた。それで済むのだった。

自分は何をしているのだろう、鈴屋は思う。前時代的な鎖国体制を強行する、国民の声なき声を聴かぬ政府を誅するのだと、出撃前に大隊長は檄を飛ばした。あの時は、自分のこれからやる行いに陶酔していた。これで、引き籠り国家とはおさらばだ。諸外国に怯え、閉じこもる時代は終わりを告げる。自分たちこそが東洋に、そして世界に新秩序を齎すのだ。そう想っていたのでは、なかったのか。

また、殴られた。

視線を、この曹長から離すことは許されない。こんなことなら、ここへやって来なければ良かった。この曹長と一緒にいて、良い目を見たことなど今までなかったじゃないか。何故だかこの男は、自分らに此処へ来てほしくなかった様子であるし。あの機械室で何をしようとしていたのか、一抹の不安がよぎる。まさかひょっとして、いや、流石にこの隊内で悪名知れ渡る鬼曹長も、そこまでの外道ではあるまい。

あの老人のせいだ。あの爺さんと話していて、気が緩んで、迂闊な行動に出てしまったのだ。だって、話していて、不思議と楽しかったから。あんなに楽しかったのは、恐らく、自衛軍に入って、初めてのことだったから。嗚呼。

ちょこれーととは、どんな味がするのか。

まだ拳が、顔面に飛んでくる。虚ろな目でそれを受け入れようとした。

ぱきゃっ、と、妙な音がした。

殴られたのは、曹長の方だった。

いつの間にか、遠藤が曹長の横っ面をひっぱたいていた。当然、痛みなど与えられていやしない。だが余りに唐突な出来事に、曹長は目を白黒させている。

「…おい、爺」

だがすぐさま我に返る。そうなればこの鬼曹長は手が付けられなくなる。

「いきなり何の」

「このクサレ外道、この子をどうするつもりだった!」

凄まじい咆哮が整備区画に轟いた。区画全体に反響し、わんわんと音の波が押し寄せた。鬼と呼ばれた曹長が、怯んでいた。

「だ、黙れ。これは制裁だ、上官が部下を叱咤して何が悪いか」

「おお、その前時代的な体罰もさっきからむかっ腹が立っていたけどな!そこじゃないわ!アリスに、何をしようとしていた!」

アリス、に。鈴屋もまた現実に戻る。まさか、信じたくはなかったのだが。

西洋の絵画からそのまま抜け出してきたような少女が、大人たちの前におずおずとやってくる。腕には、遠藤の端末をはめていた。

「私の、言葉が、分かりますか?」

日本語に聞こえた。翻訳機能を使っているのだ。国外の人間に携帯端末を貸し出すことは重罪である。

「遠藤さん、またあんたは」

ギロリ、とばかりに遠藤の眼光が鈴屋を貫く。だから、何なのだその迫力は。ただの民間人でしかも老人のくせに、軍人も青ざめるほどの威圧感だ。

「今はそんなことどうでも良い。アリスは意味が分かっておらんが、この男めは…」

曹長の顔から、どっと汗が噴き出した。鈴屋はあえて、上官の豹変を無視することに決めた。

「こちらが、ウィルソン令嬢か?」

鈴屋は、目の前の少女を見下ろす。あどけない、という表現がぴったりの、可愛らしい少女である。自分の子供時代に見習わせたいくらいだ。

「…こんにちは、ウィルソン令嬢。一体何があったのかな」

遠藤の目が、話させる気かと訴えてくる。

「鈴屋、よせ」

肩に、曹長の指が食い込む。

だが何故か、鈴屋は今、この上官の言うことを聞いてはならないと思っていた。そしてこの少女の話を、きちんと聞いてやらねばならないのだと、直感していた。

「ええと、そこの男のサムライに聞かれたの。どうして日本に来ようと思ったのか」

翻訳機能は優秀だった。英語が全く分からない鈴屋に、アリスの意思が明瞭に伝わってくる。アリスが感じている困惑も。

「だから、日本が好きで、日本の事がいろいろ知りたくて、着物とかも着てみたかったからよ、って、言ったの」

アリスは、自分が何故これを皆に言わなければならないのか、分かっていないようだった。分からなくて幸いだと、鈴屋は思った。

「そしたら、じゃあ着物を取ってきてあげるから、さっき入ってた暗い部屋で待ってて、服を脱いでいなさいって、そう言われたのよ。ドアが閉じたところでMr.シュウたちがやって来たの。ねえ、これがどうかしたの。ボニンには迎賓館もあるんだから、子供用のそういった衣装もあるって、聞いたのよ」

ぞわぞわと、怖気が立つ。

ゆっくり、本当にゆっくりと、鈴屋は曹長の顔を見る。鬼と呼ばれた曹長は、見る影もなく情けない表情で、視線を逸らした。

「服を、脱げと?曹長殿」

「いや俺は」

その態度と返答で、漠然としていた鈴屋の予断は一気に確信へと変わった。まずは、肩にまとわりついた下種の指を振り払う。

「お、おい、鈴屋」

今更のように殴られた腹が、顔が、じんじんと痛みを覚えてきた。それと同時に、暗く鬱々とした衝動が、腹の底からこみ上げてきた。この男は、最早、上官ではない。

「遠藤さん」

鈴屋自身が驚くほど、冷ややかな声が出た。先ほどまで裂帛の気合を発していた遠藤が、ぎょっとする程の凍てついた声が。

「私は曹長殿と少し、お話があります。そちらに行って、アリス嬢をお願いします」

「すず、鈴屋、それはどういうことだ。お前、上官に、どういうつもりで」

上官どころか、防人ですらない。

遠藤は、無言で何度か小刻みに頷くと、アリスの手を引いて機械室に入っていった。そして堅くドアを閉ざした。これでまあ大丈夫だろうと、鈴屋は『判断』した。

「おい、すず」

まずは一発。

思いっきり、鳩尾目がけて膝をたたき込んだ。鬼だったはずの男は醜い悲鳴をあげて、床を転げまわった。民間人の遠藤すら、こんな醜態は晒さなかったのに。

「お静かに曹長殿。子供の耳に入っては良くありません。命までは奪いませんので」

足首を掴む。更に物陰へと引き摺って行く。腰に手をやり、拳銃を抜く。指紋認証で消音装置を作動させる。

あとは、追いかけてこられぬようにすれば良いだけだ。うめき声を聞き流しながら、鈴屋は拳銃の薬室に弾を込めた。

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