後編 11

 世代間の壁と言うものはどの年代でも分厚く感じるものだとは思っていた。が、こうまでとは遠藤も理解していなかった。

 鈴屋は外来語を、ほぼ全く知らなかった。例え知っていたとしても、それが海外から渡ってきた言葉だと認識してはいなかった。具体的に言えば、コーヒーやライトといった単語名を始め、ストップ、ゴーなどの動詞すら、古来からある日本語の一つだと思い込んでいたのである。

 更には、食事についての知識もほぼ同様だった。鎖国政策を始める前段階として、日本は十年以上前から様々な輸入品に莫大な関税をかけるようになった。その影響は計り知れず、遠藤が若いころ当たり前のように知られ、食べられていた洋食が、社会からほぼ消え失せていたのである。

 「じゃあ、カレーライスも食べたことがないのか。珈琲も、飲んだことがないのか」

 遠藤にとっては、いずれも好物の一つだった。だが考えてみれば、日本で栽培が不可能な香辛料は、ほとんど国外からの輸入に頼っていたし、珈琲豆も同様である。

 「かれーは、無いな。海軍では何やら良く分からない食材で合成した代用品が金曜日に出るそうだが、喰えたものじゃないらしい。だが珈琲は飲んだことがあるぞ」

 「そ、そうか。流石にそれは備蓄があったのか?」

 「ただ、本式のような贅沢品は飲んだことが無い。国産の、団栗を焙煎した飲み物はよく飲む。牛乳を入れれば、まあ飲める」

 団栗、ときたか。

 過疎化の果てに無人となった山岳部の集落を国や企業が買い取り、大規模な食糧生産農場が全国で造成されたのは有名な話である。その中には、椎などブナ科の樹木を植え、堅果類即ち団栗を含めたナッツを大量生産している土地も多いと聞く。胡桃、栗、団栗は栄養価も高く値段も安価であり、縄文時代より日本で食されてきた米よりも古い食糧のひとつなのである。特にスダジイ、ツブラジイなどの団栗は渋みもなく、皮を剥けば生で食べることもできる。

 それを焙煎し抽出した、珈琲とよく似た味の飲料が売られていることは遠藤も知っていた。だが、何となく飲む気がせず今日まで口にしたことは無かった。

鈴屋の話では、インスタントやフリーズドライ方式で保管された本物の珈琲豆もあることにはあるが、お偉いさんの口にしか入ることはないらしい。

「チョコレートもじゃあ、知らないか。そういえば俺もずいぶん食ってないな」

「…聞いたことが無い」

遠藤は、鈴屋に憐れみさえ覚えてきた。チョコレートを知らない子供時代など、遠藤には想像もつかなかった。

「茶色くて、夢のように甘くて、なめらかに口の中で溶けるんだ。女房が好きだったな。昔は菓子になら何にでも入ってたもんさ。アイスにも、大判焼きにも」

「あいすくりんは好きだが、ちょこれいと、は知らないな」

「そうか、そりゃ勿体ない」

本当に勿体ない。心からそう思った。

考えてみれば、もう何年ハンバーガーやフライドチキンを食べていないだろうか。年齢のせいで食べたくなることも無くなっていたが、それだけではない。店舗そのものが無くなってしまったのだ。今では、ファーストフードはオニギリや、牛丼、鳥のから揚げなどが一般的である。

そう、年齢のせいだと思っていた。思うようにもしていた。洋食は脂っぽい。だから、遠藤の歳になると進んで食べたいとも思わなくなる。だから見かけないのだと、思うようにしていた。実際は、違うのだ。多国籍企業の撤退、輸入品の排除。様々な政策により洋食が消え失せて、ファーストフードを筆頭に外食産業そのものがここ十年で急速に縮小したのだ。国内で生産可能な食材を使えるものは未だ生き残っているが、それでも限界はある。それに、外来食品を好んで食べる者への風当たりも厳しい。日本社会そのものが、海外から渡ってきたモノを一段卑しい存在と見ている風潮すらある。いつだったか遠藤は、公園でベンチに座り菓子パンを食べていて、着物姿のご婦人らから不審な目で見られたことを思い出した。何という世の中だろうと、当時ですら感じたのではなかったか。

この鈴屋と言う若い女性は、そんな世の中に生まれ、育ってきたのだ。遠藤の世代では当たり前だったモノを、どれ程知っているのだろう。

「あんたは、おかしな事を聞くんだな」

非常用照明のせいで、赤黒く照らしだされた薄気味悪い通路を、二人は歩いていた。至る所で細い電気配線が剥き出しになっており、まるで何か生き物の体内にでもいるかのような不気味な雰囲気だった。

「そうかね」

「ああ。あんたたちの世代では、そんなに海外のモノを有難がって食っていたのか?気持ちが良く分からないな」

「有難がっていたわけじゃないが」

正直、遠藤にとっては辛い道行きだった。膝の関節が軋んだ音を立てている。先を行く鈴屋も気を遣って、ゆっくりとした足取りだが、それに着いていくのすらやっとだった。歳など、取りたくないものだ。

「それが普通だったのさ。海外のモノも、日本のモノも、どっちも当たり前に食べていた。日常だったんだ」

「ふう、ん。おかしな話だな。私の知っている日本じゃないみたいだ」

「…今だって、海外のモノを探そうと思えば、其処ら辺に転がっているぞ」

「馬鹿なことを言うな」

心底からおかしいとばかりに、鈴屋はくつくつと声を上げた。これが笑い声だと、遠藤は暫く気が付かなかった。

「一体どこにそんなものがあるんだ」

「まずは、米だな」

言われて鈴屋は笑うのを止めた。

「…コメは、日本のモノだろう」

「今はな。元々は外来植物だ」

沈黙が流れた。鈴屋の歩調が、少しだけ早くなった。

「他には、何かあるのか」

「さっき団栗珈琲に牛乳を入れると言ったろ。そんなの日本文化にはないぞ」

「ない、のか、こーひーは」

「珈琲だって外来語だ。本物は珈琲の豆から作るんだ。牛乳も、飲むようになったのは明治以降らしい」

「ああ、本式というのは、そういう」

自分で口に出してしまい、鈴屋は立ち止まった。遠藤も一緒に歩みを止める。正直一休みは助かるのだが、それを悟られたくないのが年寄りの意地である。

「おい、どうした。早く行こう」

「知らなかった」

こちらを振り向きもせず、鈴屋は小声をあげた。困惑や驚愕よりも、何かに納得しているようだった。

「私は、本式珈琲も日本で採れるものだと思っていた。ただ、生産量が少ないだけだと。だが違和感はあった。どうにも日本らしくないものだとは、思っていた」

「…そうかい」

「しかし、米は日本由来のモノだろう?こうまで大勢の人が食べている、主食だぞ」

「いや、大陸とか東南アジアとか、あちこちから来たものらしい。俺もそこまで詳しいわけじゃないが」

鈴屋が宙を見上げる。やはり、こちらを向こうとはしない。何か考え込んでいるようでもあった。恐らく、鈴屋がこれまで全く考えたことも無かった何かを、想っているのだろうとは想像がついた。

「あとはほら、自動車とか飛行機とかお前さんたちが持っている銃とか。色々あるだろう。寺とか、高層ビルとかだって」

ふいに、鈴屋は歩き出した。遠藤は「もう行くのか」という言葉を喉元で呑み込んで、黙って着いていく。

「そう、なのだろうな」

ぽつりと鈴屋は呟いた。

「きっと私が気づいていないだけで、他所から持ってきたモノでこの世界は溢れているのだろうな」

その声色には、不信も、反発もなかった。むしろ、今まで疑問に感じていたことがいくつも解決した、明るさが混じっていた。

「随分、素直に信じるんだな」

「何となくな。あんたが嘘をつくような人間じゃないのは、分かるさ」

「そうかい」

そう言われると悪い気はしない。遠藤も又、単純な人間であった。

「だけどそれを、誰も教えてくれなかった。私だって、知ろうともしなかった。本当のことをいえば、こーひーが海外のモノだろうが日本のモノだろうが、私の人生には何の関係もない筈なんだ。どうでもいい事のはずなんだ。だけど私は今、衝撃を受けている。騙されていた、という気がしている。ただ、今日まで勘違いしていただけなのに」

何とも言えぬ空気が流れていた。遠藤はこの一時だけ、自分が叛乱軍兵士の捕虜であり、今まさに連行されている最中だということを忘れていた。

「私は、いや、私たちは一体何を知っていて、何を知らないんだろうな」

根本的な問いに、遠藤は答える言葉を持っていなかった。

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