後編 9

 鮮やかな紫の旗が空中に浮いていた。

 それが立体映像なのは時折走るノイズですぐに知れた。旗の中心には白抜きで太極図が描かれており、有事対策室にひしめく群衆を見下ろしていた。

 「こちらが東洋同盟の旗です。やはり古代中国を起源とし、東アジア全体に広がった陰陽思想の根源、太極。清濁併せ持つこの図柄こそが、我らの旗印に相応しい。東洋において既に国旗の中に採用している国も、少なくないことですしね」

 確かに太極図と、それに基づく陰陽五行思想は中華文明の影響を受けたほとんど全ての社会で認知されている。朝鮮半島、モンゴル、チベットなどでは国旗に記載されており、日本においても陰陽道など様々な解釈が成されている。

 だがこのような共通の思想、哲学を有していても、東アジア、日本風に言えば東洋と言う世界が一つになることはこれまで無かった。往々にして数多の国家に分かれ、諸民族が対立しあっている。それは、現代においても変わりがない。

 「理由はいくらでもあげられましょう。キリスト教圏に対するイスラム教のように、強大な外敵が到来しなかったこと。それぞれの民族の自尊心の高さ。枚挙に暇はありません。が、我々はこの状況を憂いているのです。もし、この東洋に暮らす民が結束するならば、世界一の人口と、広大な領土、莫大な資源、そして日本などが牽引している科学技術力により、素晴らしい超大国が誕生しましょう」

 「君の持論はどうでも良いが」

 長広舌を繰り広げる村上を、神薙は冷めた目で見つめていた。

 「確かに、東アジアは何千という歳月を経ても纏まらなかった。それを君たちは協調させられるというのかね」

 「はい」

 そんな視線も気に留めず、村上はにこやかなままだった。

 「こうして持ち出してはみましたが、実を言うと陰陽思想は民意統一に不向きです。それは、この思想があくまで思索と探求の為に創られたものであり、一神教や共産主義のように人心を扇動するイデオロギーではないからです。ですから思想と言うよりも、文化の基盤と言った方が正しい。しかし、普遍的概念として共有はされています。これこそが肝要です」

 「何が言いたいのかな」

 苛ついた調子でウィルソンが尋ねる。

「太極とは陰陽を現しています。この世の事象は全て陰と陽に分けられ、互いに対立し、反発し合い、然しいずれかが欠けても存在が成り立たなくなる。この世は全て表裏一体。二元論では成り立たないということを表現しているのです。これと同様に、いかなる歴史を辿った異なる民族同士でも、この太極を共有するものは善悪を超えて共に道を歩むことが出来ると、そういった思想を広めるのです」

 「オリエンタリズムによる理想論とでもいうべきかな、そんなものは」

 言い放ったのはスタンディング・ベアーだった。赤銅色の額に段々の皺を寄せ、呆れ果てた顔で笑った。

 「上手くいきっこないね」

 「そうでしょうか。自由と民主主義の名の下に全てを正当化する多民族国家よりも、遥かに健全な共同体が造れると思いますよ」

 「安っぽい挑発はおやめなさい」

 今度返したのは黄だった。黄は、どこか物悲しい表情で、相変わらず飄々とした村上に対峙していた。

 「五行に関する極めて大雑把な解釈をどうも有難う。だらだらと適当な言い分を並び立ていないで、古くて使いやすそうだから太極の図案を拝借したと、素直にそう仰いなさい」

 そう言い切られようとも、村上の顔からふてぶてしさが消えることはなく。

 「…まあ、否定はしません」

 などと、その場にいる全員が顔をしかめるほどの臆面の無さを披露してみせた。黄はかぶりを振るう。たっぷりとした、玄端の袖が揺れる。

「まず言わせていただきます。あなたは先ほどから東洋という単語を使っていますが、その言葉は私たち大陸国家では外ならなぬ日本国を指す意味があるのです。あなたの主張する同盟とやらは、日本国を中心にしたものなのですか」

「それもそうですね。では、太極同盟とでも改称しますか」

黄が重ねて追求しても、あくまでも村上は戯れている。

「それにあなたは先ほど中華文明圏の一つとして、ベトナムを挙げました。彼の国は中南半島に属し、東南アジア諸国連合主要国のひとつです。あなたがたはベトナムを掠め取り、その東洋同盟とやらに無理矢理編入するつもりですか」

「人聞きの悪いことを仰らないでくださいよ、閣下」

ゆらめく紫の太極旗を背負って、村上は頬を吊り上げた。

邪まとしか、形容できない笑みだった。

「ベトナムは東洋世界に帰属するのです。喜ばしいことではありませんか」

黄は、小さな唇を震わせていた。今やこの、侍姿の男がどういう考えを持っているかは、誰の目にも明らかだった。陰陽思想だの協調だの連帯だの、字面の良い台詞を並び立てているだけの、単なる野心家。それがこの、村上の正体だ。

黄は声を張る。民主主義によって選ばれた指導者の一人として。

「あなたのような人は、いつの時代にもどのような国家にも現れるものです。しかし、あなた方は国家と言うヒトが造り得た最も巨大な玩具を弄んでいるに過ぎない」

最初から、この男は今この場にいる全員の敵だったのだ。説得や懐柔が通じる相手ではないのだ。ようやく、黄を含めた人質一同がその事実に気が付きつつあった。

「本当は、民のことなどどうでも良いのでしょう?ただこの瞬間を愉しんでいるだけなのでしょう?違いますか」

 「どう思われようと構いません。全ては、結果が証明してくれます」

 「その大事業を全て、君たちの裁量で出来ると、本気でそう思っているのか」

 最早軽蔑の視線を隠そうともしないウィルソンが、言葉を挟む。

 「もし。あくまでも、もし、君たちが日本の軍事力を全て掌握したとしてもだ。従わない国家を全て『帰属』させられると、本気で信じているのか。少々、自国の軍事力を過信しすぎていやしないかね」

 「我々が日本に武力行使をしなかったのは、言ってしまえばお情けだ」

 スタンディング・ベアーも後を引き継ぐ。傲岸不遜ともいえる態度だが、誰も異議を差し挟む者はいなかった。神薙ですらも。

 「合衆国としても大国同士の破滅的な戦争は避けたいと、ただそれだけだ。貴様らのちっぽけな島国など、いつでも蹂躙できるのだと、分かっていない筈がないよな?」

「防空識別圏に国籍不明機が侵入」

 突如響き渡った甲高い叫びが、弁舌を中断させる。東洋同盟一派の兵士がタッチパネルを叩き、対策室の中空に、日本列島の立体地図が浮かび上がる。薄緑色で浮かび上がる地図は、小笠原周辺海域を急速に拡大させ、浮島とその周辺を飛び交う光点を表示させた。南南西に、赤い点が三つ飛び回っている。

 「照会完了、合衆国海兵隊所属のエフ52戦闘機です。数、三。現在僚機は確認できぬも、近隣に早期警戒機がある模様」

 「それと母艦もだな」

あっさりと、全く危機感を感じていない風で村上は続けた。

「エフ52は艦載機だ。どこぞに空母が潜んでいるらしいですな、副大統領」

 「ああ、ここまで近づかれてはもう打つ手もあるまい」

 ベアーが歯をむき出してみせる。隣で無言になっていたウィルソンが、片目を開ける。

 「やれやれ。これで妻子と帰れるかね」

 「早速だな。貴様らの思いあがったツラを張り飛ばしてやる。間もなくこの空の騎兵隊たちが、貴様らの蚊トンボを叩き潰すだろうよ」

 豪語するベアーに、幾人かの重装歩兵が銃口を向けた。だが村上はあくまでも飄々とした態度を崩さず、歩兵たちに手振りをやって筒先を降ろさせた。 

「それは又、恐ろしいですね」

生意気な態度だったが、ベアーはもう怒る気もしなかった。ボニンに陣取る航空戦力をエフ52が叩いてくれれば、叛乱軍どもに成す術が無くなるのは自明の理だった。

そこへ、ばさり。静まり返った対策室の中で、大きな音がした。ベアーが見やると、神薙が直垂の大きな袖で、首筋に溢れ出る冷や汗を拭いているところだった。

 これから起きる出来事を、明らかに恐れているように見えた。

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