後編 8
「黄色人種、或いはモンゴロイドによる巨大政体です。黄閣下には、中華文明圏全体を一つに纏めたものと言えば分かりやすいでしょうか」
「東アジア全域を武力で統一したいと、そう仰るのですか」
ぴんと張った弦が震えるような声色で、黄が問いかける。
「いいえ。東洋諸国にはこれまで通り、自治独立を維持して頂きます。これはあくまでも同盟なのです。かつての欧州連合の在り様が最も近しいでしょうか」
その欧州連合から一度は抜け出て、結局又舞い戻った過去を持つイギリス人、ウィルソン議員が片眉を吊り上げる。
「東洋文明は中国を起源としています。その範囲は広く、北はモンゴルから南はベトナムまで。多種多様な国家、民族があり、文化も言語も宗教も様々です。過去、この文明圏を統一しようとした勢力がいくつか存在しましたが、いずれも果たせませんでした」
有名どころでは元即ちモンゴル帝国、大清帝国、更には帝国時代の日本もこの内に入るだろう。彼らが奮ったのは基本的に軍事力だった。強い力による支配で周辺諸国を服属させ、東洋社会の覇王たらんとしたのである。朝貢を強制する、隷属の儀礼を強いる、文化や民族の同化を図るなど方法は数あれど、彼の国々は皆一様に傲慢だった。あらゆる征服者がそうであるように。
「我々は違います。我々は東洋社会における全ての国家が相互軍事同盟を締結し、共通の通貨を用いることを計画しています。それ以外の面においては、各国の自主権を優先させます」
「軍事と経済を握られてまともに機能する国家があるものかよ」
ベアーが噛みつく。村上が不敵に笑う。
「又、我々は大統領や、最高議長と言った権力者を擁立させません。あくまでも、東洋各国首脳の合議制により同盟圏の方針を決定させていきます。決して一人の独裁者による采配で、この巨大な文明圏の命運を左右させはしません」
一聴すると、魅力的な構想のようにも思えた。日本列島、朝鮮半島、中国大陸、そして東南アジアの一部。これら全てが軍事面、経済面で連帯するとなれば、その利益は計り知れない。その気になれば、ロシアは元より神聖イスラムも凌ぐ一大勢力となるであろう。
「現在の東洋に於ける主要国家は、日本を除けば矢張り中国です。列国として申し分のない国力を有しています。しかしそれでも、基礎的な科学技術力の不足と市場の不安定さで、他の超大国からすれば見劣りします」
「認めましょう」
黄が首肯する。赤塗りの玄端が、対策室の明かりを反射させて艶やかに靡く。
「一国では不安ならば、何ヵ国かが寄り集まるしかない。世界中の超大国は思想、宗教などで膨大な国民の意思を統一し、国家を運営しています。我ら東洋文明はこういったイデオロギーとは無縁の、文化という共通事項でもって協調し、この乱世を乗り越えるのです。これが東洋の平和と、秩序を守る最善の道なのです」
反論の口を開かんとしたのはスタンディング・ベアーだった。だがその前に、黒地へ白の大桐紋を施した大袖が立ち塞がる。
神薙が、日本刀の煌めきにも似た光を双眸に宿して、村上を睨みつけていた。
「そんな主張をしたいのなら、街頭に拡声器を持って立てば良かろう。何故、戦闘行為に及ばねばならんのだ」
「時間が無いのです。世界情勢は刻一刻と変化しています。それに対し、残念ながら東洋文明圏の国々は常に反目しあっています。歴史的な背景もある故、仕方のないものでしょう。しかし、そんな事をしている場合ではないのです」
※
遠藤は、わなわなと震えていた。
「東洋が一丸となれば、ロシアの南下はなくなる。インドは東南アジアに手が出せなくなる。イスラムの連中は中央アジア、トルキスタンをくれてやれば黙ってくれる。かくて我が東洋は人類史上稀にみる繁栄を謳歌できると、そういうわけだ」
怒りがこみ上げていた。自らの理想とする社会を滔々と、誇らしげに語ってみせた鈴屋に。若い彼女にこんな誇大妄想を植え付けた顔も知らぬ輩に。何より、こうした思想を産む社会を造った一人である、遠藤自身に。
「何故、今の政治でそれを訴えない」
しわがれた声を絞り出す。額には脂汗がにじみ出ている。
「現政権はダメだ。鎖国などと称し、自分たちだけで殻に閉じこもり安寧を貪ろうなどとと、愚の骨頂だ。我々は討って出なければならない。もうその時期に来ているんだ」
「従わない奴らが出るぞ。大勢、出るぞ」
現在の体制に満足している人間が、変革を望まない人間が、この東洋にどれ程いるのか遠藤は知らない。だが、少ない数ではないだろうと想像はつく。もともと東洋人は、安定した政治で盤石な生活が得られていれば、多くは望まない集団なのである。
「そういう奴らは、どうする気だ」
「まあ、説得することになるだろうな」
「攻め込むのか」
「最悪の場合は、そうなる」
もっともらしい顔をしてみせる、鈴屋。
遠藤は脳の血管がはち切れそうだ。
「まだある。超大国と言っても、中国は前の共和国体制から解体した後、国連軍が駐留している。連中はどうする気だ」
「無論、叩く。東洋社会に資本主義者の手先は最早必要ない」
「それで、どれだけ死ぬと思ってる」
遠藤の問いかけに、鈴屋は矢張り平然と答えてみせた。
「やむを得ない。尊い犠牲だ」
もう、限界だった。
遠藤は両腕を伸ばす。鈴屋がたじろぐ。意外にも華奢な両肩を掴んで、力の限り遠藤は揺さぶった。
「犠牲が出る事を前提に話をするな!」
そんなのは、クズのやることだ。
遠藤は絶望していた。かつて黄が語ったこと、それに対し自分が答えたことを、思い出していた。あの時遠藤は、ただ仕事が欲しいだけだった。だから、ある事ない事言って黄を始めとした連中を説き伏せて、和式軍服デザインの仕事にありついたのだ。
それを着こんだ連中が出した結論が、この馬鹿げた叛乱行為か。
涙が出てきそうだった。あまりの狼狽ぶりに、鈴屋は混乱していた。
「お、落ち着け遠藤さん」
何故だ、どうしてこうなった。何故こいつらは、こんな極端な思想に走るようになったのだ。連帯などと取り繕ってはいるが、結局彼らは東アジアの覇者になりたいのだ。その為には武力も辞さないと。自衛軍とはそういった存在ではなかった筈だ。少なくとも、遠藤の知る軍は、専守防衛思想を徹底させていた。自国にとって都合の良い論理を展開し、戦を仕掛けることを考えるような連中ではなかった筈だ。
俺のせいなのか。
俺が、こんな服をこさえちまったばかりに。
あの時、黄が語っていたこと。遠藤を含めた全員が、ぽかんとして聞いたこと。民族衣装に則った軍服が、ナショナリズムを助長させるといったあの主張。
あれが、正しかったということなのか。
「何を、何を拒む」
鈴屋には理解できていない。遠藤の葛藤も、苦悩も。ただただ、透き通ったガラス玉のような目をしているばかりである。自分の行いを微塵たりとも、疑っていない人間の目だ。
「貴方は、真の平和が欲しくないのか」
暗緑の女侍は、優しい声で語り掛けてきた。
「今のままでも列島は平和を保てる。世界中を敵に回して」
それから自分の肩に置かれた老いぼれの指を、分厚い皮手袋に覆われた掌で覆った。女のものとは思えぬほど肉厚な、戦うことにのみ特化した手だった。
「だが、永久ではない。いつか限界は来る。少しでも長続きさせるには、友邦が必要だ」
「政治で作れ!外交で作れ!」
「それが出来ないから」
遠藤の体が、急に前へつんのめった。鈴屋が不意に遠藤の手を振り払い、足払いをかけたのだ。体勢を崩した遠藤が床に倒れ込んだところを、鈴屋が上から抑え込む。老いた服飾デザイナーと、若き自衛軍兵士。力の差は最初から歴然としていた。
「こうするしかないんだ」
「放、せ、こいつ!」
遠藤が悶える。のたうつ。暴れる。その全ての抵抗は虚しく屈強な肉体に制圧される。
「簡単すぎて一番つまらないやり方だ。そんなことは、私自身が一番知っている」
引っ掻こうが、噛みつこうが、防刃性とある程度の防弾性を兼ね備えた重装軍服が破れる事は無い。それでも遠藤は足掻いた。嫌なにおいのする汗が皺首から一気に噴き出てくる。動悸が速くなる。老体には余りにも過酷な負荷がかかっているのは、百も承知である。
「いい加減にしてくれないか」
鈴屋が耳打つ。口調は穏やかだったが、明らかな脅迫だった。耳の中に氷柱でも突っ込まれたような怖気が、遠藤の背筋を襲う。
これ以上抵抗すれば、殺される。
響く声が、その事実を明確に告げる。
「私が命ぜられたのは尋問だ。あんたを痛めつけるつもりはない」
「じゃあ、尋問結果が、悪、かったら」
老体の顔は涎と吐しゃ物にまみれていた。しかし遠藤は大人しくならない。
「殺すか、俺を」
鈴屋の気迫がすっと、抜けた。
「…そんなつもりはないと言ったろ」
押える力が弱まった。遠藤はもう息も絶え絶えだった。この場で又、気絶でもしてしまいたかった。鈴屋は、黙って体を浮かせる。
「連行する。大人しくついてきてくれ」
言い終える前に。
「…ああ」
遠藤は立ち上がっていた。
首元のタイは捩れ、ボタンは弾け飛び、膝も腰もがくがくと震えている。鈴屋が少し抑えただけで、この老人は満身創痍だ。今この瞬間にも反吐をぶちまけて、再び倒れ伏してしまい兼ねない。
「…その、大丈夫か」
あまりの姿に、当の鈴屋本人が暫時言葉を失っていた。思わず手を差し伸べる。しかし、遠藤にむべなく払いのけられる。
「五月蠅い!」
壁に手をついて遠藤は歩き出す。
「さっさと、連れていけ。お前らの、親玉のところまで、だ」
「何?」
鈴屋は返答に窮した。よたよたと歩く老人を、放っておけず再び手を伸ばす。だが受け入れられる筈もなく、遠藤は一人ででも歩いて行こうとする。
「いちいち聞くな!お前らの作戦を指揮している奴の所へ、連れていけ!それから、アリスだ。あの子は無事なんだろうな!」
ぼろ雑巾のようになった老人から発せられたとは、思えないほどの怒鳴り声。軍に所属し、日々怒声や罵声を聞き慣れている鈴屋が、思わず背筋を正してしまうほどの一喝。
ぜいぜいと半死半生で息を吐く老人のどこからこの気迫が湧いてくるのか、鈴屋には全く理解できない。
「あの子にも、何かあったら、キサマら承知せんぞ!」
さっさと来いと遠藤が促す。その姿に圧倒されている自分を発見し、鈴屋は戸惑った。次にどう動くべきか自分は躊躇っている。次にどう動けば良いか分からなくなるなど、教導団に精鋭として入団してから初めてのことである。この間に、ゆっくりとだが遠藤は出口へ向かっていく。覚束ない足取りのはずが、もうドアノブへ手をかけるところまで来ている。
「ま、待て」
とにかく呼び止めた。鈴屋は、主導権を取り戻そうと焦り始めていた。
「ウィルソン大使の令嬢は安全だ。今人質は一まとめにしてある。あんたもそこまで連れて行く」
「どこにいるんだ!」
「下層だ。そこに安全な区画があるから、人質は全員そこにいるんだ」
「だったら先にそこへ連れていけ。それからすぐ、お前らの親玉に会わせろ!」
「な、にを、何を言っているんだ」
どうすれば良いのか。
こんな事態を、鈴屋は知らない。想定もしたことがない。自分はこの老人より確実に強者である。あらゆる方法で、この老人の命を今すぐに奪うことが出来る。
「俺はな、こんな世の中を造っちまった人間の一人として、お前らに言ってやりたいことがあるんだ」
それなのに、何故か、逆らえない。
出来ることと言えば、ついにドアを開けて一人外に出てしまった遠藤を追いかけることだけだった。
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