後編 4

その黒い塊は、濃密な海水の層にくるまれて水中をゆっくり泳いでいた。腹の中に数多の迎撃用装備を満載し、今や日本唯一の玄関口たる浮島を護っているのだ。

他国特使が引きつれてきたのはお供の文官だけではない。この隙に周辺海域を走査しようとする工作員、小型のドローンは数知れない。これに目を光らせる名目で、黒い塊はこの場に馳せ参ずることを許されていた。そうでなければ、一たび稼働すれば衛星兵器も撃墜可能な化け物が、こんなところを右往左往することもなかっただろう。各国もこの存在を察知しており、今のところ大っぴらな行動には出れていない。ひとまず黒い塊は、ここに在るだけで務めを果たしているといえた。

その鼻面にある発射管が、泡も立てずに開いた。灰色の円筒が勢いよく飛び出し、航跡だけ残して音も無く冷たい海中を切り裂いていった。

 向かう先は、浮島だった。



遠藤が振り返ると、背の高い東洋系の男が、無表情に遠藤を見下ろしていた。華美を好む中国文官にしては珍しく、装飾の少ない胡服をしゃんと着こなしている。

アリスが傍らで、目をぱちくりさせた。

「そうですが」

「閣下よりお預かりしていたものを渡しに来ました。お取込み中でしたか?」

極めて流ちょうな日本語であった。

ちらりとアリスの顔色を二人は伺う。だがさすかに欧州大使の一人娘、大人同士の話が急に始まるのは慣れているらしい。小さく頷いて、窓際へ向かい、滑走路を見物し始めた。

かく言う遠藤の方が苛立ちを覚えていた。例え子供相手だったとはいえこの文官、会話に割って入ることもあるまい。しかし、黄の呼び出しでこの浮島に来た以上は、こちらの方を優先せねばならなかった。

「ええ、まあ、大丈夫のようです」

淡々と返し、男が差し出した通信端末を遠藤は受け取った。画面も、投影機もついていない、小さな端末だ。

「古めかしいものですが、骨伝導式の通信機です。盗聴の心配はありませんので」

「どうも。その辺で待っていてもらえますか。すぐに済ませますから」

「いいえ、どうぞごゆっくり」

改めて「どうも」と力なく答え、遠藤は端末のスイッチを入れた。手の甲に押し当てると数回のコール音が皮膚から体内へ通じ、直後涼やかな声が老体に響いてきた。

『ああ、遠藤大人。お疲れ様です』

中国総統、黄美鈴の声だった。昔と変わらぬ奇麗な日本語だ。遠藤は、自分の端末の翻訳機能を切った。

「いえ、改めましてお久しぶりです。いつぞやご実家をお伺いして以来ですか」

『もうそんなになってしまいますか。早いものですわね』

涼子と黄女史が交流を始めたと知ったのは、あのお披露目会から暫く経ってのことだった。

聞けば、黄女史は大学時代日本史を専攻しており、実はベッカー同様日本文化に好感を抱いていたらしい。あのお披露目会での発言は、全て党中央の方針に基づくものであり、決して本心ではなかったのだと遠藤はあとから聞かされた。帰り道で、遠藤夫妻の写真を撮っていたのもそういうことだったのだ。

日本に滞在中、黄女史はちょくちょく涼子と行動を共にしていた。浅草を観光したり、涼子に和服の着付けを教えてもらったり。年の近かったこともあり、二人はまるで幼いころからの親友のようになった。

最初遠藤は複雑な心境であったが、何度か交流を経るにつれ、政治屋として私心を捨てねばならず、感情を押し殺し生きてきた黄の苦悩を緩やかに知ることとなった。そうして少しずつ親交を深め、いつしか家族ぐるみの付き合いをするようになった。台湾にある、黄の実家に招待されたこともある。

しかしそれも、日本が孤立化政策を始動させるまでの話であった。

『これで最後かもしれないと思い、無理言ってお呼びしました。本当に来ていただいて有難う。直接話をしたかったのですけれども、もう、そんなことも出来なくなってしまいました』

「よく、ないのですか」

何がよくないのだろう。遠藤は、自らの問いかけの曖昧さに頭が痛くなった。

『よくありません。日本では今、他国に関しての報道は出ているのですか?』

そんなことも中国政府は把握しきれていないのか。神薙の情報統制が完璧なのか。

「出ていますとも。必要以上に。他国の政情不安をマスコミはこぞって報道し、日本国内の安定を強調しています」

窓辺のアリスについ意識が行く。欧米では、日本は今どのように報じられているのか。

『…お羨ましい。ですが、確かにその通りです。超大国などと名乗りつつ、六大国の政治基盤はいつも揺らいでいます。我が国においても、もともと纏まっていなかった国論が、日本への対応を巡り混沌の極みです』

日本は全ての国境を完全に閉ざした訳ではない。各国に置いた外国公館などは、現在も機能しているし、小笠原浮島での貿易も細々ながらに行われている。殻に閉じこもっているだけでは自治は保てないという、そんな周到さが現代の日本にはあった。

「ご苦労をかけているようで、申し訳ない」

『いいえ、そんな話をする為にお呼びしたわけではないのです。大人』

黄は、ゆっくりと息を呑んだ。そして、今にも張り裂けそうな声を絞り出した。

『涼子さんのことです。本当に、式にも行けず弔電も打てず、本当に申し訳ありませんでした』

ああ、と小さく。

小さく、遠藤は息を吐いた。

やっぱり、その事だったのか。

涼子は、死んだ。事故だった。

一年前だ。百貨店で、階段から足を滑らせた。老化防止のために、涼子は外出の際には極力歩くことを心掛けていた。それが仇になるとは、遠藤も考えていなかった。

『忙しさにかまけてお墓にも行けず、何が総統でしょう。何が、人民の代表でしょう』  

黄は当時、総統に着任したばかりだった。女だてらに中国全土の頂点に達した彼女には、おいそれと国外へ出る自由は既に存在していなかった。何より、既に鎖国政策を始めていた日本に渡航することは、例え一般市民であれ容易なことではなかった。

『たった一人の親友の死も、まともに悼んであげることが出来ないだなんて。情けないことです。お許しください、大人、大人』

喉の奥に、何かがこみ上げてくるのを感じた。こらえていた衝動が暴れだし、胸の名から無数の刃物で滅多刺しにでもされているかのようだった。

しかし、年をとるというのは不思議なもので、口から出てくる言葉だけは、自然と、冷静なものになっている。

「やめて下さい閣下。その言葉だけで十分です。涼子も、きっと喜んでくれていると思います。もう一度、貴女のご実家を訪れたがっていました」

どうしてこんな、形式ばった物言いしか自分は出来ないのだろう。黄は立場を忘れて、心から涼子の死を嘆いてくれているのに。こんな他人行儀な言い方しか出来ないのは、何故だろう。それが年を取るということだったのか。だとしたら自分は、何と無意味な歳月を生きてしまったことか。

噫、という溜息とも嗚咽ともつかぬ一呼吸が響いたのち、黄は己の乱れた心をようやく抑えつけたようだった。

あとはお互いに感情を表さぬよう努め、二、三の言葉を交わし、遠藤は通信を切った。

顔を上げると、恐る恐るといった風情の中国文官が、遠藤に歩み寄って来ていた。

「もう、よろしいのですか」

喋るのも、億劫になっていた。さっきアリスと話していた時の高揚感は、どこに行ってしまったのだろう。

「ああ」とか「ええ」とか、そんな唸り声にもなっていない返事をして、遠藤は通信端末を文官に差し出した。受け取り、懐に忍ばせると、文官はそそくさとその場を去っていった。

頭を抱えたくなった。後悔と懐かしさとが波となって押し寄せて、遠藤を責め立てた。

娘の由希が自分を罵ったあの日のことが、今更のように駆け巡った。涼子は亡くなる間際まで、海外に行きたがっていた。黄の生家がある台湾。若いころ夫婦で行ったテノティトラン。どこでもいい。何か思い出を残したいわね、などと言っていたのだ。

結局、どこにも連れてやれなかった。

どうしてこの年になると、出来なかったことや、辛かったことばかり思い出すのだろう。人の記憶を司る海馬というのは、そういう意地悪な造りをしているのだろうか。もう老い先の短い人間が、さっとあの世に行けるように、この世なんか居ても良いことは無いのだと、囁いてくるようだ。遠藤は、いよいよどうしようもない衝動に襲われ頭を抱えて。

背中に、柔らかな掌の感触を感じた。

「どうしたの」

アリスだった。

たどたどしい日本語で、恐る恐る懸命に声をかけてくる。

「かなしい、電話だったの」

心配そうな表情。不安げに揺れる瞳。

遠藤はほんの少し、我に返った。翻訳機能のスイッチを入れる。

「ああ、いや。昔馴染みからだったんだがな、死んだ女房の話をしてね。つい、思い出してしまってな」

「奥様、亡くなっているの」

「少し前にな」

どれだけ科学力が進もうが、難病が撲滅されて行こうが、人は死ぬ。それも呆気なく。

こんな時代においてもそれは歴然たる現実であり、遠藤らが、いや、アリスたちも永遠に付き合っていかねばならない命題だった。

「かなしい、の」

「…ああ、思い出すと、悲しい」

「私、大人になったら、悲しいって感じることがなくなるものだと思っていたわ」

自らも誰か亡くしたかのような沈痛な面持ちで、アリスは遠藤の隣に座った。いや、ひょっとしたら、本当に、そう遠くない過去で既に味わっているのかもしれなかった。

「そんなことはない。表に出なくなるだけなんだ」

「じゃあ本当は泣いているの?ならどうして、涙が出ないの」

「さあ、どうしてかなあ」

苦笑いするしか、遠藤にはできなかった。アリスは老体に寄りかかると「そう、悲しいのね」と、小さな声で呟いて、それきり静かに、遠藤が落ち着くのを待ってくれていた。



一本の、灰色をした円筒が、海中を音も無くひた走っている。無駄な挙動を一切行わず、海流を、潮流を貫いて、只管に目標目がけてひた走る。

円筒には四枚の羽根があり、尾部のノズルから放たれる圧力によって推進していた。一見すると緩やかな動きで、実際には恐るべき速度を発揮しながら、海面へ次第に上昇していく。

やがて真っ白な瀑布が海面に弾け、円筒は空へ飛び出した。その先端を突き破り、今度は銀光りする矢じりに似た物体が放たれる。矢じりは閃光を放つや否や、海面に荒波を立てて増速を開始した。即座に人間の目には追えぬ程の速力となり、今度は強烈な風切り音を立てて空中を突っ走る。

矢じりも又、増速すると同時に高度を上げていくようだ。風切り音が大きくなり、甲高くあたり一面響き渡る。一際高音が轟や、矢じりは空中に現れた水蒸気の壁をぶち破り、いよいよもって誰にも止められぬ、音速の領域で吶喊する。

向かう先には、浮島があった。一際高くそびえる、自衛軍の航空管制塔があった。

矢じりは一切のぶれなく、鈍色をした塔へ飛び込んだ。

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