後編 3
最新の全翼型飛行機はまるで馬鹿でかい蛾のようである。色も真っ白で、クスサンなどに良く似ている。それが黒い滑走路の上を這いまわっている姿を見ていると、何だか不気味に感じられる。樹液に群がる蛾の群れでも見ているかのようで。
アメリカ合衆国並びに欧州連合の外交官搭乗機が、順番にランプへ誘導されていくのを見ながら、遠藤はそんな取り留めのないことを考えていた。
浮島御殿と名付けられたこの国際空港兼迎賓館は、傍から見れば奇妙な外観をしている。純白の壁面をした近代的高層ビルには、外縁に微妙な角度の反りがかけられており、その上層部には特殊セラミック製の黒瓦を乗せた天守楼が築かれている。ここから、眼下の飛行場が一望できるのだ。帝冠様式と呼ばれるこうした建造物は、現在日本全国で次々と建てられており、さながら江戸時代の城郭の如き瀟洒な外観で人気を博している。例によって見た目に反し最新の技術が用いられ、屋根瓦のセラミックには太陽光を蓄えエネルギーに変換する一種の吸光バッテリーとも呼ぶべき素材が練りこまれている。これもまた、全国で普遍的に使われつつあるものだ。
見た目にばかりこだわるのは、心細さの表れだと、遠藤は心の中で一人ごちる。
自分が、和式軍服などという意味不明なものを作らされて早三十余年。まさか日本が、こんな短期間でこれ程の変貌を遂げるとは想像もしていなかった。最早、街で洋服を見かけることはない。いや、外来語すら少しずつ姿を消しつつある。あらゆる輸入品が店頭から姿を消した。観光客の外人もいなくなった。
今の日本は、全てのものを国内で作り、経済のサイクルをもほぼ自国だけで循環させている。さながら外界とは隔離された小宇宙の如しである。
いや、そんな大げさなモノでもあるまい。
溜息混じりに、遠藤は天守楼の窓ガラスを拳で軽く殴った。どん、とささやかな衝撃がガラスを震わせて、眼下の滑走路もほんの僅かに揺れる。
精々が、箱庭だ。海原に囲まれているのをいいことに、周囲のもの全てを拒絶して安楽を求める箱庭。瞼の裏に、涼子の横顔がふっと浮かんだ気がした。
俺はここで何をしているのだろう。
「おっきな、かもめ」
ぎょっとした。
育ちの良さそうな白人の少女が、いつの間にか遠藤の隣でガラスにへばりついていた。
見事なブロンドに肩までの巻き毛。落ち着いた雰囲気の子供用ドレス。ついさっき絵本から抜け出てきたと言われても、遠藤は信じただろう。今日び西洋童話の絵本など、なかなか見かけなくなったのだけれども。
少女は眼下の旅客機を指さし、はっきりとした日本語を話した。
「やっぱり、大きなかもめに、見えます」
ややつたない所はあったものの、一生懸命さは伝わる日本語だった。遠藤は、なるべくゆっくりとした口調で。
「君は、どちらさん、だい?」
と、尋ねてみた。
少女は首を傾げてしまった。
発音が悪かったのか意味が通じなかったのか。図りかねたが、とにかく遠藤は腕時計式端末の翻訳機能を作動させた。端末に搭載されたプログラムが、彼女の語る言葉を日本語として、遠藤の語る言葉を英語として同時通訳してくれる。
「これで、どうだろう?」
少女は一瞬目を見開いたが、すぐにしげしげと端末を覗き込んだ。
「今何をしたの?この機械を使ったの?」
「そうだよ。英語に聞こえているかな」
「とても流ちょうなキングス・イングリッシュだわ。奇麗すぎて怖いぐらいよ。私の言葉も日本語に聞こえているの?」
「ああ、とても聞き取りやすい標準語だ」
「…ヨーロッパにも翻訳機はあるけど、こうまで精巧なのは初めて見たわ」
視線を端末から離した少女は、遠藤の皺面を黙って見上げたのちに、にっこりと微笑ん
でみせた。
それから黙って手を差し出した。
「初めまして。アリス・リデルよ」
握手を求められているのだと、遠藤は数刻考えてようやく気が付いた。ここのところお辞儀ばかりで、握手なんかすることが無かったのだ。
「初めまして。遠藤修太郎です。お嬢さんは何故こんなところに?」
「お父様の付き添いで来たの。ヨーロッパのゼンケンタイシなのよ」
「ああ、ウィルソン大使のお嬢さんか」
各国要人が外交の折に、自分の家族を引き連れてくることはままあることである。遠藤にもその程度の知識はあった。
「もう一度聞いていいかな。どうして、こんな所にいるんだい」
「だって、お父様はずっとお仕事ばっかりで、構ってくれないんですもの。お母様はベアーさんの奥さんとアフタヌーン・ティーに夢中なんだわ。だから私、警備のお侍さんにひと声かけて、応接間を抜け出してきちゃったの」
「警備が通してくれたのか」
「ええ、ちゃんと丁寧に会釈してお願いしたら、じゃあどうぞって」
それで欧州全権大使の一人娘をほっつき歩かせているのか。それでいいのかここのセキュリティは。アリスに見えぬよう、遠藤は顔をしかめる。
「あとで神薙めをとっちめにゃならんな」
「ねえお爺さん。貴方はあの大きな飛行機は何に見える?私たち、あれに乗ってきたのよ。私には、カモメに見えるの」
遠藤の独り言などそっちのけで、アリスは滑走路を指さす。まさか馬鹿でかい蛾に見えていたなどとは言い出せず、鷹揚に頷いてみせるとアリスは「そうよね!そうよ!」などと上機嫌になった。
よっぽど退屈していたのだろう。さもなければ、こんな年寄りにいきなり声をかけようとは思うまい。
遠藤は、この小さなアリスとのお喋りに、少しの間つきあってやる気になった。
「そうかい、あれに乗って来たのかい」
「そうなの!大西洋と、太平洋、二つのおっきな海を渡ったのよ!お父様が、ボニンのお城を見せて下さるっていうから!本当に素敵な所だわ。イーニーに自慢しなくっちゃ」
それからアリスは、堰を切ったように喋り始めた。遠藤は、青空と飛行機を見ながら、たまに相槌を打っていた。
イーニーは、プライマリー・スクール即ち小学校の友人であり、彼女は欧州の外に行ったことがない為アリスの話を楽しんで聞いてくれること。
自分は父に連れられて、アメリカやメシーカ、イスラムなど世界中の国々に行ったことがあり、特にインドがお気に入りなこと。
空から見たボニンが、海の上に浮かぶガラス細工のように美しかったこと。
そんないつ終わるとも知れぬ、とりとめのない話を聞いている内に、いつのまにか。
遠藤にも、あの飛行機が巨大でユーモラスなカモメに見えくるようで。
こんな気持ちになったのは久しぶりだ。
「そうかい、じゃあお嬢さんは全権大使のお手伝いをしているわけだ」
「そうよ。私やお母様が一緒にいると、お父様がちゃんと家庭を持った素晴らしい紳士だって、周りの人に分かるんだって。ナタリエが言っていたわ」
得意げに頷いてから、アリスは「ナタリエっていうのはハウスメイドよ」と付け加えた。
「だから私、立派にお仕事をしているの」
「そうかい。その歳で大したもんだ」
自然と遠藤は肯定したつもりだった。だがアリスは、急に今までの屈託ない表情を曇らせてしまった。
「…でもね。本当は、タイシなんて良く分からない呼び方は嫌いだわ」
「そりゃあまた、どうしてだい」
どうやら、さっきから自分の父親を大使と呼ぶ度に言葉が固くなるのは、翻訳機の不調や遠藤の勝手な印象ではなかったらしい。
「だってパパは、タイシなんかよりもっと立派な、サーの称号を女王陛下より賜っているのよ。そっちを名乗ればいいのに」
近年、殊に六大国では自らの家柄や旧来の家系を誇りたがる風潮が起きているらしい。こうまで伝統を有難がる風潮にあるのだから、仕方のないことだと遠藤も思う。日本でもついこの間、公家の家柄を参議院議員が、平安貴族風の屋敷を建てたとかで話題になった。おおむね世評からは冷ややかな声をもらっていたものだったが。
欧州、中でもイギリスは王侯貴族の存在が連綿と続く国家のひとつである。ウィルソン大使がサー、つまりは子爵の称号を授かっているのも、有名な話だ。
それにしたって、そこまで大使の号を毛嫌いすることもなかろうが。
「それに、タイシのお仕事をしているときは、お父様は私のことなんかほっぽらかしなんだから」
ああ、そっちが本音なのか。
自分の察しの悪さに、遠藤は鼻先をぽりぽりとかいた。これだけ年をとっても、どうにも他人の機微というものが苦手である。
「だから私、外でタイシと呼ばれているよりも、カントリー・ハウスでサーと呼ばれているお父様の方が好きなの。狩りにも連れて行ってくれるし、寝る前にベッドでお話しもしてくれて…」
そこまで言ってからアリスは、喋り過ぎたとばかりに頬を赤らめて、手をぶんぶんと振った。可愛らしかった。
「今のは忘れて頂戴」
「そうするよ。まあ、ちょっとの間この爺さんで我慢しておくれ」
小学生にもなると、就寝前の夜伽話はもう恥ずかしい対象になってしまうのだろうか。遠藤は自分の時はどうだったろうかと記憶をまさぐってはみたが、特に何も思い出すことはなかった。ふっと視線をやると、考え込んでいた自分の皺面を、アリスが真剣な表情で見つめていた。
「貴方はとても紳士なのね、Mr.シュウ」
ミスター、ときたか。笑いだしそうになったのを遠藤はこらえた。紳士とやらにはあるまじき行為であろう。
「そんなことは無いと思うがね」
「そうかしら。だって、この話をすると皆笑ったり、お父様の味方をしたりするのよ。ちゃんと聞いてもらった試しがないわ」
「実は笑うのを我慢してたんだ」
アリスは一瞬呆気にとられたが、すぐに口元を押さえ小さな声で笑った。
「やっぱり、紳士だわ」
心地の良い声だな、と感じた。
吊られて遠藤も、頬をほんの少し緩めた。
「あの、ところで、Mr.シュウ」
ようやく笑い終えると、今度はアリスの視線が遠藤の全身をくまなく見まわし始めた。
「何かな」
「ずっと気になっていたんだけれども、どうして貴方は、着物じゃなくてモーニングを着ているの?」
直截な物言いに、今度は遠藤が呆気にとられる番だった。だがしかし、ここは年の功とでも言うべきか。すぐに咳払いして気持ちを平静にする。
「おかしいかね?」
横目で見ると、アリスは首を振っていた。
「ううん!とっても似合っているわ」
これもまた、はっきりとした物言いだった。
何故か遠藤は照れ臭くなって、また鼻の頭をかいた。この出で立ちを褒められたのは、涼子や黄以外に初めてだった。
「有難う。リデルさんも、そのドレスがとてもよく似合っている」
「ええ、ママと私で選んだのよ」
元来、着物よりも洋服の方が好みな遠藤である。派手すぎず清楚な雰囲気の青をしたワンピースドレスは、品が良くも勝気に笑うアリスにはぴったりの装いであると、素直に評価出来た。
「でも私、今日は着物が着たかったの」
思わぬ言葉だった。
アリスはスカートの裾を持ち上げて、ため息をついていた。
「お母様は言うの。その人にとって一番似合う装いは、その人が産まれた国の装いなのですよって。私も、そう思うわ」
ネクタイのノットを握りしめ、遠藤はアリスの横顔を見やった。
「でも、私は着物が好き。ううん、着物だけじゃないの。色んな国に行ったけど、どの国の服も着てみたかったの。イスラームのヒジャーブも、インドのサリーも、メシーカのウィピルも」
恐る恐るといった様子で、アリスも遠藤の顔を見た。普段こういった話をする度に、家族からどう言われているのか、その態度だけで知ることが出来た。
「だって、どれも素敵なんですもの」
アリスが何故自分に声をかけてきたのか、遠藤は、ようやく分かった気がした。
「ねえMr.シュウ。日本人は自分の国の文化が大好きで、いつでも着物を着ている筈よね?貴方は、普段から洋服を着ているの?」
「ああ」
「どうして着ていられるの?周りから、何か言われたりしないの?」
「…ああ、言われるよ」
正直に、答えなければ。
行きずりの少女が放つ、真剣な眼差しを受けて、遠藤の背中にここ何年も感じてこなかった力が漲ってくる。
「特に、娘にはよく言われる」
「娘さんが、いるの」
「ああ、私なんかとは大違いの、出来の良い娘がね。よく言うんだ、お父さんはご近所の目が気にならないのって。頑固も大概にしてほしいって。今どき筒袖で街を歩いてるのなんか、お父さんぐらいよ、とね」
「つつそで?」
首を傾げるアリスに、遠藤は自分のスーツの袖を指さした。高性能翻訳も、単語の意味までは教えてくれない。
「日本の服は、大体袖口を広くとっているんだ。風通しを良くするのと、見栄えを良くする為に。要は、娘は私が外国の服を着ていることが恥ずかしいと、そう言うんだ」
「皆と、違うから?」
「まあそういうことだな。お嬢さんは、世界中の国の文化に興味があるのかな」
「そうなのよ!」
手拍子が響いた。力強く頷いたアリスが、目を輝かせて、手を合わせて、遠藤が少し驚くほど声を張り上げた。
「大人や友達は、ヨーロッパのことさえ知っていればそれで良いって言うわ。だけど私は、その外の世界をもっと知りたいの。特にこの、日本のことは」
「こんな小さな国に、興味があるのかい」
「ええ!何千年も前からのエンペラーが治めて、古い古い自然の神様を信じて、だけど、新しい技術も沢山あって。今じゃ誰も簡単に入れない、海の果ての島よ!」
改めて並べられてみると物凄い印象を受けるが、確かにそれが現代日本である。エンペラー云々や、海の果てといった表現には異論が出てくるかもしれないが。
「ずっとずっと、来てみたかったの。ずっとずっと、見てみたかったの」
アリスの瞳の中に、星が宿っていた。遠藤が、とっくの昔に見失った、小さな星明りだった。
この少女の情熱は本当なのだ。遠藤にも、最初、日本語で話しかけてきたではないか。
「本当は、ボニンだけじゃなくって、日本の本島に直接行ってみたいわ。だけど、お父様も、皆も、そんなことは出来ないって。行けたとしても、意味のないことだって。よその国なんかよりも、とにかくヨーロッパを見なさいって。そればっかりなの。確かに私はヨーロッパを愛しているわ。素晴らしい土地だと思うわ。でも、だからって、他所の国を好きになっちゃいけないの?面白いって、思っちゃいけないの?どうしてそれだけで、誰かから悪口を言われなくっちゃならないの?」
遠藤は、目を細めた。
眼の前にいる少女。時折大人びて、時折年相応な屈託ない笑顔を見せる、少女。その抱える悩みを、こんな空港でばったり出会った年寄りにぶちまけるとは、よほど平素から抑圧され続けていたのだろうか。
そしてその苦悩は、昔から常々、遠藤もぶち当たっていた壁の一つではなかったか。
少女は、遠藤の目を、じっと見つめている。
すっ、と、遠藤は手を差し出した。
何の助けにもならないかもしれない。お節介かもしれない。しかし、これも、縁という
奴であろう。きちんと答えてやらねばならない。それが、この少女の為に、否。
遠藤自身の、為に、なるのでは。
口を開こうとした矢先。
「遠藤大人ですか?」
甲高い声がした。
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