後編 1
屋根瓦に照り付ける陽光が、眼に突き刺さるのだ。これほど暑いというのに誰一人身じろぎもせず、声ひとつあげず、来客の到着を待ち構えている。
ずらりと整列した面々は、全員黒い着物に身を包んでいる。江戸時代に正装とされた裃姿だ。頭に被っているのは陣笠である。
その最奥、玉砂利に敷かれた緋毛氈の上に、更に古式ゆかしい装いたる直垂と烏帽子を着こんだ男が、仁王立ちで扇子を煽いでいる。随分老けたとはいえ、未だ精悍さを残すその顔つきは、この国の首相たるに相応しいものである。内閣の紋章たる桐の大紋を散りばめたこの黒直垂も、実に様になっている。
遠藤修太郎は、その男の隣にぽつねんと立っていた。取り巻きを大勢引きつれている首相とは違い、自分はたった一人だ。それでも、まるで政府要人かの如く、首相の隣に堂々と立っている。別に来たくて来たわけではない。呼ばれたから来た、それだけだ。
「暑いな」
峻厳な声である。この男、神薙亮一は、三十年を経っても相変わらず飄々さと厳粛さを兼ね備えた独特の雰囲気を身に纏っている。だが遠藤は知っている。この男は、今自分が着ている直垂の、漢字の読み方すら知らなかったという事実を。
「もうそろそろお出ましだろう」
ぽつりと返答する。そういう自分は、相も変わらずの洋装であった。モーニングスーツにネクタイ。三十年前ならば全世界でフォーマルな装いとして認められていたこの姿。だが、現代日本においては浮いていると言わざるを得ない。特にこの場所では。
「遠藤さん、今からでも着替えていらっしゃったら如何ですか」
神薙の傍ら、若い首相補佐官が耳打ちする。遠藤は露骨に嫌な顔をしてみせる。
「おい首相閣下。この国は一個人の服装の自由すら許さない不自由な国だったのか」
こうした公の式典に、一民間人たる遠藤が顔を出したのは、当然のことながら今回が初めてである。未だに洋服を着こなす頑固爺を相手に、若い補佐官は明らかに困惑していた。しかも首相の古くからの親友であるというのだ。それは扱いにも困る。
神薙は、喉の奥で声にならぬ笑い声をあげて、扇子をひらひら躍らせた。
「構うな睦月くん。こういう男なんだ。昔からちっとも変わっておらん」
「抜かせ。今更こんな所まで引っ張り出しやがってどういうつもりだ」
「仕方がないだろう。先方のたっての希望なんだ。お前だって、あの方とは長い付き合いのはずじゃないか」
「まあ、な。向こうで政界に打って出てからはなかなか会えなんだが。ここまでの交通費ぐらい出して貰えるんだろうな税金泥棒」
「爺一人の足代を内閣府が払うのか。それこそ税金の無駄だな」
「何だとキサマ」
老人二人の無意味な応酬は、突如頭上を覆った影に遮られた。見上げれば、ゆっくりと甲高い音を立てて、小型のエアロスクラフトが降下してくる最中であった。派手な赤地のボディに金龍の紋様をあしらったその機体から、あれに乗っている人物が何者かは容易に知ることが出来た。
緋毛氈の端に着陸したエアロスクラフトのハッチが開く。現れたのは、これも又老いて尚怜悧な眼差しの衰えぬ、銀髪の女性であった。上衣下裳、女だてらに男物の玄端を翻らせている。中国古来の礼服の一つであるこの玄端は、皇帝位の装束たる冕服に似てはいるものの、冠から簾が下がっていないという違いがある。
供の文官たちには、活動的な胡服を身に纏わせる。一見すれば日本の公家がかつて利用され、現在は儀礼用として利用される束帯や宿衣などの衣装に似てはいるが、更に足回りが動きやすくなっている。
ともあれ、華やかという言葉はこの光景の為にあると言わんばかりの一団が、遠藤らの目前へとゆっくり歩み寄ってくる。
扇子を畳み懐へしまうと、神薙は中国総統、黄美鈴女史に深々と礼をした。
「お久しぶりです、閣下」
総統は三十年前と全く変わらぬ微笑みを浮かべると、恭しいまでの答礼を返して見せた。あまりにも深々としていたので、周囲の文官たちが一瞬戸惑いの表情を浮かべたほどであった。
「神薙大人にはご機嫌麗しく。空からこの浮島御殿を拝見させていただきました。噂に違わぬ美しさですわね」
「いや、お恥ずかしい。こんな仰々しい施設が本当に必要かと不安に思っていたのですが、閣下のお眼鏡に叶うのであれば幸いと言うほかありません」
「相変わらずの無意味な謙遜ぶりですわね。貴方がた日本の方は」
深い皺が刻まれてしまったものの、黄女史の笑みは未だ高貴さ、優雅さを損なっていない。民主的に選ばれた中華民族の支配者は、直立不動で自分を注視している白髪交じりの男に、そのたおやかな唇を開いた。
「お元気そうで何よりです遠藤大人。この度は私の我儘でご足労頂き、感謝の念に絶えません」
両手を袖に通しての中国式再敬礼に、遠藤もまた見事な角度で答礼してみせた。最も遠藤の場合は黄総統のように演出効果を狙ってのものでは無く、ただ年甲斐もなく慌ててしまっての急角度であったが。
「いえ、閣下におかれましては、お会いできて光栄であります」
「やめてください他人行儀な。私はそんな堅苦しい挨拶を聞くために貴方を呼んだわけではありませんよ。顔を上げてください」
慌てて顔を上げた遠藤の姿を見まわして、黄女史はまた、にっこりと微笑んだ。
それは、移ろいやすいこの世で、ただ一つ変わらないモノを見つけたことに対する、安堵から生じた笑みだった。
「貴方はやっぱり、西服姿がお似合いですわねえ…」
※
太平洋上、小笠原浮島。
極端な入国制限政策を執り、事実上の鎖国体制に入ったとされる日本の唯一の玄関口である。
結局、東亜同盟は長続きしなかった。国境が隣接し膨大な人口を抱える中国とインドの軋轢はすぐに露呈し、国境紛争勃発という最悪の形で瓦解した。
短期間で終わった紛争の後、二国は独自の生存権の確立を図る。程なくして中国は東アジアで、インドは南、東南アジアにおいて、強い影響力を奮う覇権国家となった。
米、欧、露、回、中、印。
この六つの超大国によるせめぎ合いの中で、世界は動かされるようになった。一国一国が冷戦時の米ソ両国をも凌ぐ国力を有すると目される彼ら六大国に、歯向かえるものなど何もありはしなかった。既存の政治的枠組みや経済協調は彼らによって次々と書き換えられ、いよいよ国際連合は完全に力を喪失した。
この潮流の中で日本に残された道は、六大国いずれかに協調するか、あるいは自らも超大国を目指すかのどちらかであった。どちらを選択するにせよ、日本には大国になり得る下地が十分にあった。経済力、軍事力、人口と、いずれも超大国たり得る水準を満たしてはいたのである。
米、欧、中、印は日本を自らの勢力圏に取り込もうと画策した。ロシアと、回こと神聖イスラム圏は東アジアに中国のほかもう一つの超大国が産まれることを警戒し、圧力をかけてきた。六大国の狭間、日本はどう振舞うか世界が注目した。
そして、日本がとった行動は国際社会において全く予想外のものだった。
孤立化政策である。
二十世紀以降の日本は海洋国家である。戦を重視するか物流を重視するかの違いはあれど、海を越え他国との経済網を確立することによりその国力を増大させてきた。それが今更列島に籠り、自産自消の小世界を確立しようと様々な政策を執ったのだ。
軍隊組織を復活させ、国風文化にふける日本であったが、不思議と先軍主義は根付かず、太平洋戦争以降変わらぬ平和主義を貫き通していた。何せ自衛軍が設立されてから数十年が経っても、大量破壊兵器の一つも保有しなかったのだ。かつての東亜同盟発足の時点で、中国、インドの両国から核兵器貸与の申し出はあったものの、日本は頑なにこれを拒絶してきたのである。
世界を牛耳る六大国は、確かにいずれも強国であり、歴史上日本と密接な関係にある国もあった。米国やインドなど友好的なアプローチをかけてきた国もいた。だが、それでも彼らの振舞は独善的だった。何処につくにせよ、いつか必ず起こるであろう超大国間の破滅的な戦争において、同盟国がその長大な軍列の敷石にされることは明らかだった。
どの大国についても、いつかは利用されて終わる。ならばいっそこの島国で、再び太平の眠りにつこうではないか。
遠藤には妄言としか思えない声明が、他ならぬ旧友の口から発せられてたった五年。
小笠原諸島沖合に、広大なギガフロートが建造された。浮島と名付けられたこの浮遊式の人工島には、国際空港、各国大使館、そして自衛軍の前線基地が集められた。世界中が呆気にとられる中、日本はこの浮島を今後の日本における唯一の外交窓口とし、日本国政府の許可を得ていない外国船舶、航空機が経済水域及び防空識別圏内に入ることを事実上禁じた。
それは唐突な、鎖国宣言であった。
馬鹿々々しい、と、遠藤は最初これを一笑に付していた。ギガフロート建造以前、当時すでに閣僚として出世していた神薙の口から、ぽろっと零れた日本鎖国化構想の話題を聞き、居酒屋で大笑いしたものである。
日本は海洋国家である以前に、島国だ。国内における資源の量はたかが知れており、原油、鋼材、木材、食糧、何から何まで輸入に頼っている。いくら内需が発達していると言えども、これを全て国内で賄えるほどの生産力はない。
また、地政学的問題もある。日本列島はユーラシア大陸の東の玄関口である。莫大な資源を有するロシア、未だ世界の工場として機能している中国、彼らが自らの物資を携え太平洋に出るには、どうしても列島の島々とその周辺を経由しなければならない。それは、北東アジアに物資を輸出するアメリカ、東南アジア諸国も同様である。津軽海峡などは、こうした流通路のを確保する為に公海とされている。
もし鎖国を断行したとして、これらの経路を封鎖してしまえば、六大国は必ず日本に報復措置を仕掛けてくるだろう。それが軍事的圧力になるのは必然あり、現在の日本でそれに対処することは到底できない。世界経済にとって開かれた日本は必要不可欠なものなのだ。
馬鹿げたことを言うなと遠藤は笑い、ビールを喉に流し込んだ。
お忍びで旧友に会いに来た神薙は、着流し姿で、折角の酒の席だというのに非常に暗い眼をしていた。
その理由はすぐに知れた。
まず人工衛星を利用した発電システム網が各地で確立された。大都市では、核融合プラントが試験的に稼働を始めその膨大な電力を賄うようになった。
海底資源の掘削も急ピッチで進んだ。レアアース、金属、化石燃料、あらゆるものが日本近海で確保されるようになった。
過疎地となった農村部を不動産ごと買い取り、巨大な食糧プラントが建設された。更に品種改良された広葉樹、針葉樹が植林され、木材の安定した供給も国内で確保された。
又、小型の髭鯨を始めとした海獣類の品種改良と養殖が始まった。多産で、肉質が良く、プラントで生産された合成飼料を餌とする家畜鯨が、やはり人口を減らした離島や沿岸部などで大量に育てられた。環境保護団体などからの抗議は全て黙殺され、過剰なものは容赦なく取り締まられた。
更に、それらの国内生産資源を基に、もともと日本の得意分野だった素材工学の技術が飛躍的に向上した。少ない資源で大量の加工品を合成、生産出来るようになり、廃物の再利用も奨励された。
これらの事業は、表向き各国との共同で、ごく普通のビジネスとして行われた。しかし影では、国外企業をいつでも切り離せるよう根回しがされていたのである。
そしてついに鎖国が始まった。周辺諸国の反応は予想通り強硬なものだった。軍事的圧力どころか、開戦も辞さない姿勢を打ち出した国が大半だった。一機で小国の三つや四つほど滅ぼせる量の核弾頭を搭載した無人ステルス爆撃機が日本の周辺空域を周回した。対馬やオホーツク海島嶼部では、探査用の無人潜水艦が出没。日本のみならず世界へ向けた派手な軍事的デモンストレーションで、この愚かな島国の出鼻を挫こうと、六大国はそれぞれ動いた。
自衛軍は、これを悉く拿捕、あるいは撃墜して見せた。
特に究極のステルス機能を有するとされたアメリカの無人爆撃機が捕捉、無線誘導の後に拿捕されたという事実は、世界中の軍事関係者を驚かせた。そうこうしている内に国籍不明の潜水艦が日本めがけてSLBM、即ち水中発射式弾道ミサイルを撃ち込んできた。国家間の争いに弾道ミサイルが使用されたのは、人類の有史以来初めての事だった。冷戦期やアブアルファドルの蜂起の時にすら、こんな物騒な兵器は使用されなかった。だが、果たしていずこの国がこのような凶行に出たのか、今となっては誰にも分からない。
ミサイルは迎撃、撃墜され、潜水艦は国籍を確かめる前に撃沈されてしまったからだ。
次は、ついに衛星兵器による攻撃が始まるのかと噂が流れたが、結局それはなかった。日本が攻撃型軍事衛星の配備を内外に布告したからだ。恥も外聞もなく、大量破壊兵器は搭載しておらず、あくまで日本近海に侵入した脅威を排除するための自衛手段であると言ってのけた日本の姿は、かつて平和ボケ国家と陰口を叩かれた時代からは考えられないものであった。
だが、どれほど自衛手段、抑止力と日本が言い張っても、衛星兵器を一たび使えば世界中が攻撃対象となり得る事実に変わりはない。何度か超大国により撃墜が試みられた。が、その高度な隠密性と光学兵器による迎撃システムにより、全てが失敗に終わった。
最後に、在留していた外国人の帰還事業が急ピッチで行われ、日本は完全に己が殻に閉じこもった。
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