前編 12

 控室が天国に感じる。

革張りのソファーの座り心地は、まさに極楽の一言だ。ドア一枚隔てた向こう側では、未だ喧噪の真っ最中であろうに。

 黄女史の後、結局質問者は現れなかった。当初、あれほど黄女史より先に何か意見を述べようとしていた安曇野は、遠藤と女史との応酬を聞いている内に気勢をすっかり削がれてしまったらしい。神薙に止められるまでもなく、ただ沈黙していた。遠藤のことを奇妙な生き物でも見るかのような眼つきで凝視していたのは、気にかかったが。

 いずれにせよ、一時の休息を遠藤は手に入れていた。ひとまずデザイナー抜きで議論を煮詰めたいという防衛省お歴々の申し出を、遠藤はすぐに受け入れた。

とにもかくにも消耗していた。頭を空っぽにしたかった。今は着物のきの字も考えたくない。袂と帯が脳髄の中で、螺旋を描いてダンスしている。

混然とした思考を無にするべく、虚空を見つめ呆けようとしていると、やおら会議場のドアが開いた。

苦笑いをした神薙が、手刀を切りながらのそのそと現れた。返事をする気力さえもなかったので無視をしていたら、黙って廊下へと出て行った。どこなりへでも失せてしまえ、とすら遠藤は思った。

だが遠のいた足音はすぐに戻ってきて、挨拶も抜きに遠藤の隣へ座った。廊下の自動販売機で購入したらしい珈琲のカップを、黙って差し出してくる。無言で受け取って、一口すすった。

不覚にも胃にしみる味だった。

「悪かったな」

ぽつりと、神薙が口を開く。

黙ったまま遠藤は、その横顔を睨む。

「いや、お前にあんな弁舌の才能があるとは思わなかったよ、ほんと」

「頭からこいつをぶっかけてやろうか」

「悪かったって。あの女史が、お前にあんなに噛みついてくるとは思わなかったんだ。いつもは別の奴が生贄になってたんだがな。お前を矢面に立たせる気はなかった」

そこまで言って神薙は、もう一度「悪かった」と言って、深く頭を下げた。

こいつの、こういうところが気に食わないのだ。返事をする代わりに遠藤は、また黙って珈琲を一口含んだ。

「今のところ、お前のデザインはおおむね好評だ。あれをプロトタイプにして、色々と新式軍服が作られるだろう。忙しくなるぞ」

「そうか、通りそうなのか」

あまりにも呆気ない神薙の口ぶりに、遠藤は大口契約内定を喜ぶことすら忘れている。

「まず問題はないな。お偉方も喜んでる」

あの、お偉いさんたち。戦前から日本を牛耳る財閥の末裔。近年発言力を高める武官たち。同盟国でありながら、自らの立場、了見を隠そうともしない各国要人。連中の顔をぽつぽつと思い浮かべた後に、遠藤はずっと胸に抱え込んでいた疑問を口にした。

「で、この国の軍隊は、どうなるんだ」

ちらりと、神薙は遠藤の顔色を窺った。

その目つきは、相変わらず気の知れた旧友のそれであった。

「どうにもならん。今まで通りだ。パッケージが変わるだけで、実情はかわりゃしない」

「あの眼鏡の、安曇野とやらはそう考えていないんじゃないのか。一ツ菱のじい様たちとかも」

「まあな」

けろっとした顔で答える神薙。

「連中は、この国の名称からして変えたがっているんだ。今回のことはその布石のつもりなんだろうさ」

「帝国万歳、とでも言わせる気か」

「皇国、だそうだ」

珈琲が気管に入り込みそうになり、遠藤は少々むせた。落ち着くのを、神薙は黙って待ってくれていた。

「かつての、徳川幕府による封建時代だった日ノ本の国。天皇制を西洋帝室に擬えて造り上げた大日本帝国。疑似立憲君主制とでも言うべき戦後の、日本国。そのいずれとも異なる。限りなく新しく、限りなく古い。先進性と伝統性が共存したスメラギの国。それが、日本皇国、なんだそうだ」

「随分詳しいんだな、お前もそのシンパなのか」

まさかと鼻で笑って、ぴったり閉ざされた会議室のドアを神薙は睨みつけた。

「世相だか何だか知らんが、そんな子供染みた話に乗れるほど俺は純粋じゃない」

しかし、遠藤は考える。

荒波を乗り越えていける、強い国家たらんことを望む声は大きい。そんな人々の望みの前に、その、皇国とやらがどれほど魅力的に映るのか、想像できない遠藤ではない。

「そうして、そんな気恥しい名前を名乗って、力をつけて、何になるんだ」

「少なくとも世界の超大国とは張り合えるようになるさ。連中は確かに煩わしい。こちらも相応の力を見せれば考えも変わるだろうと、まあ、ガキ大将の発想だな」

「そんなんでいいのか、政治って」

冷めてきた珈琲は、異様に苦く感じた。

「そんなんでいいのさ。政治だの外交だの戦争だの、要は、ガキがやる菓子の取り合いの延長線上に過ぎないんだからな」

皆違って、皆いい。皆さん仲良くしましょうね。子供のころどこかで聞いた繰り言が、空しく頭の中をよぎる。あれを言っていたのは、幼稚園の先生だったろうか。結局はそんなこと理想論だというのは、長じてから嫌と言うほど認識させられた。一握りの超大国が影響力を世界に及ぼす時代は終わった。それでどうなったのかといえば、待っていたのは更なる混沌だった。

ありとあらゆる、異なるモノたちが、自らの利益の為だけに動く。それが現代社会である。

「そのお強い皇国作りの魁がこのコスプレ化計画なら、じゃあ俺は、来るべき大戦の片棒担ぎをさせられてるわけか」

真面目くさった遠藤の言葉に、神薙はぷっと吹き出した。

「そう大げさに捉えるなよ。強くなったから戦争をするなんて、決まってるわけでもない。それにお前、自分で言ってただろう?滑稽なデザインだって。俺はそうとも思わんが、少なくともこれまでの軍隊っぽくはない外見にはなった。伝統的で、見栄えも良い、機能性もまあまあ。良いことづくめじゃないか」

「おい神薙、まさか」

ようやく、腑に落ちた。何故、畑違いの遠藤に白羽の矢が立ったのか。

あのデザインならば、世間に伝統性を納得させることは出来ても、それ以上の過激な性向に煽り立てることは出来ない。そして、そんなデザインを、仕事として作成できる人物などというのは。

「お前しか思いつかなかったんだよ」

ぽかんとする他ない。そんな遠藤を尻目に、神薙は会議室へと戻っていった。

ふと気が付くと、遠藤の膝の上には、自分が大先達へ見事な正拳突きを決めている、例の写真が置かれていた。



結論から言ってしまえば、遠藤のプランはおおむねお偉方の高評価を得た。

防衛省はスタッフを雇用し、遠藤にこれからも継続して各軍、将兵たちの衣装デザインを依頼してきた。一菱も人材の支援を惜しまないと明言してくれた。願ったり叶ったりだった筈なのだが、今の遠藤にはどうでも良い事だった。とにかくさっさと家に帰って眠りたいのだ。

受付で来所バッジを返却した時間には、窓越しの光景はもうすっかり暗くなっていた。腕時計を見てみれば七時を廻っている。詰まるところ、半日以上舌戦を繰り広げていたということか。今更ながらにどっと疲労感を覚え、覚束ない足取りで正門をくぐると、桜色の留袖を着こんだ涼子が待っていた。

「お疲れさま。どうだった?」

肩まで切った黒髪が揺れる。凛とした笑顔が、疲れ切った遠藤の目の前にある。

わざわざ迎えに来てくれたのか。遠藤は感極まって意味もなく口を開け閉めしたのちに、今この場で涼子を抱きしめたくなったが、背後から警備員の視線を感じたので踏みとどまった。

「うまく、うまくいったよ」

「良かったわ。ところで後ろの方は?」

涼子が指をさした先には、ばつが悪そうに立っている黄女史の姿があった。遠藤は一瞬息を呑んだ。比喩表現ではなく、本当にひゅうという音が辺りに響いた。

「そんなに驚かなくてもいいじゃありませんか、大人…」

夜景の灯に銀縁の眼鏡を光らせ、強かにして苛烈な大陸の女性は慇懃に微笑んだ。遠藤は返答に窮した。どうしたというのだ。なぜ自分を追いかけてきたのか。まだ何か、言い足りないことでもあるのか。掌にじんわりと脂汗が浮かぶ。

「あなた、こちらの方は?」

遠藤の背後より、涼子が余所行きの笑顔を貼り付けて顔を覗かせた。あなた、の部分に妙に力が籠っているのは気のせいか。いや、気のせいだと思いたいのだが遠藤としては。

「仕事相手のひとりの、ああ、黄さんだ。黄さん、こちらはその、妻の、涼子です」

「奥様でしたか、これは失礼を」

優美な含み笑いと共に、中国式の礼をしてみせる黄。夜風に漢服がなびく姿が楚々として美しい。それに対し、深々とお辞儀を返す涼子。唇の端に、この女とはどういう関係?という詰問が出かかっているのが遠藤には見て取れる。この良妻は時折遠藤が胃を痛めるほど嫉妬深くなるのだ。

「先ほどは色々と失礼な質問をしてしまい申し訳ありませんでした。あれも仕事の上のことですので、恥ずかしながら弁解したく声をおかけしました。個人的にも、遠藤大人は興味深いお方でしたし」

最後の一言が余計なのだ。涼子のこめかみにひびが入るのを感じ、遠藤は浮足立つ。

「いや、そんな、私など」

「それにもう一つ、何といいますか」

黄の目が瞬時、相対する遠藤らの間を彷徨った。それから、小さな、それは小さなため息をひとつ、ついた。

「お二人のお姿が、少し気になりまして」

「私たちの、ですか」

「ええ、西洋の服と、和の服とで、並んで歩くあなた方の姿が」

「おかしい、でしょうか」

「不是。そういうことではありません」

きょとんとする遠藤らに、黄は眉をへの字にして笑った。それはこれまでの不敵な態度とは異なる、しょうがないなぁとでも言いたげな、優しい笑顔だった。

「とてもお似合いで、少し羨ましくなってしまっただけです」

遠藤らは更にきょとんとして、何を言われたか認識するのに数秒を費やした。それから「いえ」とか「そんな」とか、二人して不明瞭な返事をぽつぽつ返すと、黄女史はますます楽しそうに口元に手をやって笑った。

「対不起。笑ってしまって。あの、お二人の写真を撮っても良いですか?」

そう言われて、二人は猶更顔を赤くした。



笑顔で手を振り去っていった黄を見送って、二人はゆっくりと夜の東京を歩き出した。道行く人々は、大半が着物に袖を通している。彼らは国や、政府から、決して強制されたわけではない。自分たちの好きで、ブームの一環として和装をしているのだ。それは決して悪いことなどではない。そしてその中には、ちらほらとまだ洋服姿が混ざっている。

涼子は、遠藤の肩にそっと寄り添う。

「何か暖かいものでも食べに行きましょう。もう一度になるけど、お祝いしましょう」

「そうだな、そうしよう」

答えながら遠藤は、この光景をそっと胸の内に留めておいた。いずれあの洋服たちも、皆着物に取って代わられるのだろうか。そして自分は、その後押しをしているのだろうか。

時代の流れ、社会の風潮によって、衣服、食べ物、住居、娯楽、こうした文化はいともたやすく移り変わり、その姿かたちを変えていく。それは自分が言ったことではないか。

だがそれを、寂しいと感じてしまうのはなぜなのだろう。借り物の文化に、愛着や温かみを感じてはいけないのか。人間とはそこまで偏狭にできているものなのだろうか。俺はやはり、ひょっとしたら、とんでもないことに片足を突っ込んでいるのではないか。

「着物を着なくちゃいけない日本に、なるのか、この国は」

涼子が、幽かな声で尋ねた。

「何か、言った?」

「いいや、何でもない」

何でもないんだ、と、遠藤は繰り返した。

そうして二人の姿は、雑踏に紛れて見えなくなった。

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