前編 10
中華民国は、かつては台湾島のみを領有する勢力であった。だがしかし、その存在を国際的に認知する国家は限られていた。国連安保理の座についていた、大陸側の共産中国、即ち中華人民共和国と敵対関係にあったからである。
第二次大戦を経て、泥沼となった国共内戦の結果、中国本土を追われた国民党は台湾に居を構えた。それから一世紀近く、西側陣営の一員として小規模ながらも安定した軍事力を保ち、共産主義陣営と反目してきた。
一方、内戦に勝利した人民共和国は、長い雌伏の時を終えた後、急激な経済成長を遂げ、自他ともに認める大国となり覇権主義を振りかざすようになった。三億人に及ぶ中産階級の存在により短期間で跳ね上がったその経済力は、共産主義の皮を被りその実徹底した資本主義に徹するという矛盾をやってのける強かな共和国の政治力もあって、盤石に続くものと誰もが思っていた。
綻びは軍部において始まった。
元より、広大な中国大陸において七つの軍管区に分けられていた彼ら中国人民解放軍は、各管区にてかなりの自主性を持たされていた。彼らは国民、国家の為ではなく、あくまでも中国共産党の私兵として存在していたのだ。
インドほどではないにせよ、中国も又、多民族国家であり、その無数の民族は共産党の絶対権力の下で統制されていた。つまりは軍部の力によって。
それ故、軍の権力が日増しに拡大し、その横行が始まるのは自明の理だった。
収奪、横流し、蓄財。不正と腐敗の連鎖はいずれの軍管区でも根深く蔓延り、市民の生活を圧迫する領域に至った。しかし共産党はこれを黙認した。むしろ、軍部と結託し私腹を肥やす地方書記すらあった。旧王朝時代より不正は中華文明圏ではごく自然に発生する風物であり、いかにそれと折り合いをつけるかが歴代中国の政治家たちに求められたスキルでさえあった。
だが、中国共産党は、中国大陸に文明が興って以来、恐らく最も莫大な富を得た勢力である。その結果、その陰で蜜を啜っていた軍部もまた、これまでに例を見ない集団に成長しつつあった。それは既に、飼い主である共産党に匹敵するやもしれぬほどの影響力を手に入れつつあった。
その力が如実に表れたのは、インド亜大陸統一後の時期である。この頃、共産党中国の経済規模は大きく後退していた。アメリカのカナダ侵攻後に起こった、世界的な保護貿易化により、未だ世界の工場の座を自負し外需によって市場を回していた中国は、関税の増額、列強による自国生産重視政策に対応しきれずにいた。三億人もいた中間消費者層も、あっという間に低所得者に早変わりしていった。事態に手をこまねく共産党の目の前で、あからさまに権力を奮い始めたのが各軍区であった。
それはまさに春秋戦国時代の再現であった。最早地方書記官のコントロールなど受け付けなくなった各軍区司令官は、各個で手を握り合い、あるいは裏切り、騙し討ちを繰り返し、さながら独裁者のごとく振舞って地方の権力を掌握したのであった。党中枢はこれら同時多発的に発生した反乱を鎮圧するべく、北京に駐留する精鋭機甲旅団を展開しようと試みたが、既に彼らも党に対し叛意を抱いていたことには気が付いていなかった。
同時多発クーデターの発生は、先にイスラム圏でアブアルファドルの起こした前例があった。だが、今回の反乱にそれを主導する人物はいなかった。めいめい、自らの私利私欲のため内側から蝕んでいた人民共和国という大所帯を、ついに食い破ってしまったというのが実態だった。
ただでさえ青息吐息だった中国経済は、一気に瓦解した。内乱は中原を焼き、それまで押さえつけられていたイスラム勢力が神聖イスラム圏の支援を背景に行動を開始。内蒙古を始めとする各地の自治区では、民族独立主義者たちが蠢動を始めていた。
しかし、それら全ての危機に対し、中国共産党はほぼ無力だった。経済と軍事という二つの武器を封じられてしまっては、さしもの彼らにも成す術がなかった。
そうこうしている内に大陸北東部にはロシア軍が集結を始め、南シナ海にはこんな時だけ無敵の結束力を発揮する多国籍軍が雁首を揃えてやってきた。あまつさえ、インド軍がチベットに進駐したとなれば、もはやこれまでであった。
最終的に打つ手がなくなった共産党が頼ったのは、皮肉にも彼らが忌み嫌ったもう一つの中国。百年以上前に内戦で袂を分かった台湾島の中華民国勢力であった。民主義者を標榜する台湾であったが、ビジネス面の必要性から仇敵である筈の共産党と強く結びついているのは公然の秘密であり、国際社会では誰もが知っていることだった。
共産党の構成員たちは、自らの地位の安泰と引き換えに民主主義者に国を売り渡した。暴走した軍部の鎮圧のため、台湾勢力を中心とした多国籍軍の中国本土上陸を黙認したのである。独裁者の乱立と後世へ延々と続くであろう戦雲の到来よりは、遥かにマシだと判断したのであろう。それはまるで十九世紀末、義和団の反乱に耐えきれず列強諸国の侵入を許した清帝国の姿に酷似していた。
かくして、中国大陸はあっさりと民主化した。多国籍軍の到来により、数年を経ずして各地の軍閥勢力も根こそぎ駆逐された。
そして国土の切り売りが始まった。
※
「しかしこれら苦汁の日々を跳ねのけて、我が中国は一躍世界の列強として再び国際社会に舞い戻ったのです」
長々とした歴史の講釈がようやく終わり、遠藤は半開きになりかけていた口を強引に閉じた。表情筋が完全に弛緩しきっていた。
「貴国に対して、我が中国は非常に複雑な感情を抱いています。かつて東亜の覇権を巡り相争った仲でありながら、貴国は中原より武装勢力を打破するべく惜しみなく協力してくださった。貴国の戦力がまだ自衛隊と呼ばれていたころ、遼東半島にて行ってくれた補給作戦、その後の上海上陸作戦支援は、いまだに我が軍においても語り草になっていますわ。それ故に我々は、この群雄割拠の時代に、アジアの平和と秩序の為、貴国と手を結ぶことを決意したのです」
黄女史はそこまで一口で言いきってから、大きなため息をついた。
「その意味を貴国は理解していらっしゃらない。そうとしか思えません」
物凄い肺活量だな、などという感想ぐらいしか頭に浮かんでこないのは、疲労のせいであろうかと遠藤はぼんやり考えていた。
だが、そんな心の余裕などなく顔面を紅潮させやおら立ち上がったのは、おおかたの予想通り安曇野だった。
「質問させていただく。我が国の国民が右翼的性向にあるとはどういうことか」
完全にバカにし切った表情で、花びらのような唇を黄女史は歪めた。
「いまだにお分かりいただけませんか?封建的戦闘集団の装束を、着こんでそれを良しとするその思考が問題なのですわ」
頭を抱える神薙を挟んで、黄女史と安曇野が対峙する。遠藤を始めとしたその他一同はその光景をぼんやりと見つめるほかなかった。特にベッカーは完全に興味を失っているらしく、片手でモバイルを弄っている。
「貴国軍事勢力、即ち自衛軍は憲法上先制攻撃を否定した稀有な戦闘集団です。そのモットーはかつての自衛隊を受け継ぎ、専守防衛を志していらっしゃる。私はこれを非常に評価しております。然るに侍という身分階級は、常日頃から戦いに明け暮れ長きにわたり内戦を繰り返し、あまつさえ外征を行い大陸を脅かした過去を持っています。極めて先鋭的、好戦的な集団といえましょう。貴方がたは自衛軍にこの侍の思想を持ち込み、その本質の変貌を図っていらっっしゃるのではありませんか」
「言いがかりであります。そもそも侍は戦うのみにあらず。確かにその成立は戦闘集団としてだが、政治を預かり、中世、近代日本の文化風俗の発展に大きく貢献しています。又、穏やかな執政を行い国力を安定させた。確かに戦いを辞さない面はあるが、その一面だけで侍の本質を云々されるのは甚だ不愉快だ。況して、自衛軍においてをや!」
二人の論争は既に遠藤を置き去りにして進行されていた。遠藤は相変わらずぼんやりと、この状況を眺めていた。しかしいつまでもこうしている訳にもいかない。既に安曇野も黄女史も似たような発言を繰り返すばかりで、堂々巡りの議論に嵌りかかっている。この次に遠藤へ矛先が向けられるのは時間の問題であろう。
遠藤は考える。自分は、何を、どう発言すべきなのか。中国勢が物言いをつけてくるのは想定済みだった。中国本土を奪還して以降、覇権主義にとらわれている彼らは三国同盟の中でことあるごとに序列中の一位を主張してくる。独自路線を貫く日本もインドも、それを放置してきたが、近年彼らの尊大な言動は目に余るようになりつつあった。
今回の件でも、何かしら注文をつけてくるだろうとは思っていた。だがこのままでは黄女史は新軍服の撤回すら要求してきそうな勢いである。そうなれば契約もなくなり、遠藤の仕事も消えてなくなるわけだ。
何とかせねばなるまい、などと遠藤が今更のように決意を固めたその矢先。
「では、遠藤大人」
矛先がこちらに向いた。
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