前編 7

立体映像の中で、渋面をしてチャパティ(インドのパン)を貪るラフルを三秒ほど見詰めたのちに、遠藤はまた深いため息をついてモバイルを閉じた。

植民地支配や、時代の荒波をいかに受けてもインドは未だ伝統を保ち、生き続けている。その多様性の規模は日本など及びもつかない。神薙は同盟の代表もお披露目会に来るとか抜かした。つまりは伝統というものに対し、それほど目の肥えたインド人に、日本の軍服かくあるべしという姿を見せねばならないというわけだ。しかも、同じく同盟関係にある中国人も来るのであろう。あの、大国としての誇りを隠そうともしない連中が。

遠藤の唇の端に、冷笑がこみ上げてきた。

 無理だ。どうすれば良いのだ。

おまけに期間はたったの一か月。遠藤の仕事は決して早いものではない。草案を造り、何度も練り直していればそんな時間すぐに過ぎてしまう。

やりようがない。サンプルを持っていくのは諦めるしかないだろう。しかしそれをお偉いさん連中に勘弁してもらえるだろうか。更には気難しい軍人たちまでやってくるのだ。

一体俺はどうすれば。

 ぐるぐると回る脳みそを何とか制御しようと遠藤はその晩必死に試みたが、結局、考えはまとまらなかった。

 そうこうしている内に、本当に時間などというものはあっという間に過ぎてしまうものである


 ※


 光陰矢の如し。

 などという意味のない言葉が胸の中を吹き抜けていく。早くも一か月。どういうことだ。あれだけぐだぐだ書いておいて実際の時間経過はコメ印一つで済ませてしまうとは俺に恨みでもあるのか作者。

 などとメタフィクショナルな突っ込みを脳内でかましつつ、遠藤は再び市ヶ谷、防衛省にやってきた。相も変わらずガラス張りの瀟洒な外観。鉄骨とコンクリートで組まれた要塞の如き威圧感。これが瓦を乗っけた帝冠様式へ本当になってしまうのだろうか。それはそれで勿体ない気がするのだが。

 神薙は周到に手配をしていてくれたようで、身分証明書を一枚見せただけで受け付けの女性は遠藤をすんなりと通してくれた。来庁者用の玩具みたいなバッジを胸ポケットにつけて、堅苦しい表情を崩さぬ受付嬢に連れられ遠藤は会議室とやらに通される。木製の扉を開けると、そこには小さな、しかし豪華な造りのソファーがある待合であり、やや奥まったところにもう一枚、重厚なドアがあった。

 「お時間になったらお呼びがかかりますので、その際はあのカメラの前に立ち、ドアノブあたりにバッジをかざして下さい。そうしなければドアが開きませんので」

 淀みなく一息でそこまで全て言ってのけ、受付嬢は遠藤一人を残し待合から去っていった。既にドアの中で会議は始まっているようであり、程なくして無二の旧友が顔を出した。

 「よう、来てくれたか。もう少し待っていてくれないか」

 そこまで言って、神薙は顔を歪めた。

 「お前、何で背広なんだ」

 全く予想外の質問だった。眼をぱちくりとしばたかせて、遠藤は答えた。

 「何かまずいのか?」

 「まずいって、お前。ここに来てる連中はお前のことを着物の専門家だって聞いてるんだぞ。それをお前」

 真剣に神薙は戸惑っているようだった。

 「神薙一佐殿。この防衛省に勤めるお前だってネクタイ絞めてるじゃないか。おかしいことはあるまい」

 「だから、それじゃこのご時世難があるからお前に…ああ、いい、しょうがない。もう少しだけ待ってろ」

 顔を引っ込ませて、神薙は乱暴にドアを閉めた。遠藤は頭をかいて、確かに言われてみれば羽織袴ぐらい着てくる方が良かったのかもしれないと思い至った。着物のデザイナー、という説得力も生まれただろう。しかし来てしまったものはもう仕方がない。

 第一、自分の服装に気を配る心の余裕など現在の遠藤には存在していなかった。一か月の間、身悶えし頭を捻り涼子に叱られてのループを何十回も繰り返した挙句、ようやく立体映像のデータは出来上がった。自信は全くない。果たしてこれを見せて、連中がどんな反応を見せるものか想像もつかない。緊張のあまり鈍く痛んできた前頭葉を抑えて、遠藤はどん底に深いため息をついた。

 出来ることなら今すぐ帰りたい。

 「で、ありますからして。帝国主義にあらじという印象を与えることも出来るのです」

 会議室の中から大きな声が聞こえてきた。

神薙の声ではない、険しい色のドラ声だ。意外と扉が薄いのか、声が大きすぎるのか、その声は煩悶していた遠藤の耳にざくざくと突き刺さってくる。

 「確かに現代においては同盟関係にあるといえ、我が国には中印へ侵攻した歴史があります。それは揺るぎようのない事実です。軍国主義政権が世論の暴走を抑えられず、自らも先鋭的な思想にはまり込んでいったのもまた事実でありましょう。然るに!往時の彼らの服装を思い返してみてください」

 険しい男の声は、意外と若いものに聞こえた。そのドラ声につられて遠藤も、資料にあった旧日本軍の軍服を思い浮かべてみる。詰襟やシャツ、ゲートルにブーツ。例外は地下足袋程度のもので、そのほとんどは。

 「そうです!洋服です!彼の時代、庶民は和服に袖を通し、貴族や軍人のような特権階級は洋服に身を包んでいたのです。即ち!洋装はある種、帝国主義日本の象徴ともとれるのであります」

 その認識には大きな誤りがある。と、遠藤は思ったが、まさかここから声をかけるわけにもいくまい。ドラ声はなおも続ける。

 「で、ありますからして。此度の和服回帰は、旧軍よりの伝統からの脱却!そして新たなる、真の日本国としての姿への回帰に他ならないのであります」

 真の日本、とは一体どんな日本だろうか。天皇が、貴族が治める日本か。侍が、軍人が治める日本か。資本家が、庶民の声が治める日本か。遠藤には多分一生、その答えを出せそうにもない。

 「ですので、先ほどの中華民国代表殿のご指摘は、的外れであると小官は」

 「分かった、分かったから安曇野くん」

 聞き覚えのある声が、演説を遮った。神薙だった。遠藤との会話では決して出さぬ鋭い声色だ。そこでスピーカーが鳴った。

 『入ってきてくれ』

 いよいよこの時がやってきてしまった。小鹿のように足を震わせて遠藤は立ち上がる。ドアへ向かいながら、何とか愛想の良い表情をつくろうと口角を上下させる。意味のない行為であると分かってはいる。

 ドアを開けると、真っ先に神薙と目が合った。神薙は真っ白な会議場の中央で立ち上がり、もう一人起立していた軍人の挙動を掌で遮っていた。きっと彼が、先ほどまでのドラ声の主であろう。

 「このまま小田原評定を続けていても埒が明かない。既に、今回の新式軍服のデザイン責任者にお出でいただいております」

 お偉方が、ほう、と息を吐く。まさかこの連中には自分の来訪を知らせていなかったのか。何ていうサプライズを仕込むのだ神薙。頼むからやめてくれ、そういうの。

 「遠藤修太郎氏、著名な服飾デザイナーであります。今回は無理言って、彼に基本となる型のデザインを依頼しました。ひとまずそれをご覧になってから話を進めるのはいかがでしょうか」

 そこまで言い切ってから、「どうかね安曇野君」と神薙は上目遣いにドラ声の主を睨んだ。対峙する若い軍人、安曇野は、二、三度咳ばらいをした後に。

 「一佐殿のご命令に従います」

 と、言って着席した。

 会議場の空気は張りつめていた。ずらり並んだお歴々。きっちりした軍服を着こむ日本の将兵たちが、興味深そうに遠藤を見つめている。その隣には、同じように軍服を着こんだ白人男性がいた。筋骨隆々、金髪に青い目。そしてこの場でガムを噛む臆面の無さ。誰に言われずとも合衆国軍人だと分かる。

 その傍らには、裾の長い民族衣装を着た東洋人の女性が座っていた。銀縁の眼鏡をかけて、不敵な笑みを浮かべた、やや冷たい雰囲気を漂わせる美人だった。恐らくは、中華民国の人間だろう。

また、更にその隣に、もう一人今度は遠藤にとって見慣れた姿をした外国人がいた。鮮やかな青のターバンを巻いた、浅黒い肌の男。資料で幾度か見かけたシーク教徒のインド人だ。まさか本物に会えるとは。

 「遠藤さん、こちらへどうぞ」

 促す神薙。すっかり吞まれていた遠藤は、唾を飲み込み思わず。

 「ああ、分かった」

 と、いつもの口調で返してしまった。眉を顰める神薙に、内心で謝罪しながら遠藤は前に出る。

ああ、帰りたい。

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