前編 6

神聖イスラム圏の成立以前から、中国もインドも大国ではあった。しかし、自らを先進国だと胸を張って名乗ることはなかなかできなかった。膨大な、いや、膨大過ぎる人口は億単位の貧困層を産みだし、多様過ぎる文化、宗教、歴史も争いの火種となった。彼らは巨大過ぎたのだ。そしてその巨体を完全にコントロールすることは、容易ではなかったのだ。

 転機が訪れたのはインドからだった。そしてその原因は、やはり黒い旗の獰猛な神権国家、神聖イスラム圏だった。

 インド亜大陸にもムスリムは存在する。その総数は一億数千万にも及び、更に隣国のパキスタン、バングラデシュはそのムスリムたちがインドから独立して作り上げた国家である。かつて英国の支配からインドが独立した際、当時のインド指導者たちはムスリムも取り込み亜大陸を統一しようと試みたが、結局は多数派で数億に及ぶヒンドゥー教徒との対立を和らげることが出来ず、双方の離反を許してしまった。その代償は高くつき、殊にパキスタンは第二次大戦後長らくインドの敵国として存在することになった。 

そんなパキスタンだったが、世界に点在するイスラム地域大国と同様、神聖イスラム圏に従うことはなかった。ムスリム諸国が、イスラム法学者の支持を取り付けた筈のアブアルファドルに反抗した理由は多々あったが、パキスタンにとって最大の理由は彼が市民を弾圧する目的で強力な宗教的秘密警察を成立させたことだった。

異教徒や未納税者、更には占領地における元権力者たちといったあらゆる不穏分子。彼らは宗教警察によって徹底的に虐げられ、搾取された。アブアルファドルが許容する市民はあくまでスンニ派、即ち彼が継承者カリフであることを認めた市民だけであり、そうでないもの、例えばシーア派やかつてサウジ王家に与していたワッハーブ派などは彼にとって反乱者の予備軍でしかなかった。異教徒に到っては存在自体が論外であり、発見次第ただちに矯正施設送りか、さもなければその場で処刑された。また租税を支払わぬものに関しても、同様の処分がなされた。これはかつてシリアやイラクを占領していた原理主義者集団のやり方に酷似していたが、その規模や予算のかけ方は桁違いだった。

 パキスタンとて、異教徒弾圧の過去が無かったわけではない。独立直後や原理主義がはびこっていた時期には、凄惨な歴史が蔓延った時期もあった。しかしアブアルファドルのやり口は歴史上稀にみるほど組織的で徹底しており、一切の慈悲もなかった。要するに、継承者に逆らうものは皆殺しというスタンスであり、これは神聖イスラム圏がアブアルファドルによる完全独裁政権下に置かれていることを意味していた。まがりなりにもパキスタンは連邦制の共和国家である。こんな連中に服従できる訳がない。

 しかし、時代の流れは残酷である。そうこうしている内に神聖イスラム圏はイラクまでを抑え、パキスタンの隣国イランとの衝突が始まった。パキスタンは、アフガニスタンを挟んで神聖イスラム圏と対峙する格好になった。互いに大量破壊兵器と相応の兵力を持ち合わせている国同士ではある。しかしかねてより関係の悪かった地域大国インドと、現在世界中で最も獰猛に振舞っている神聖イスラム圏。この両方を相手にする力など、パキスタンには存在していなかった。 

そこへ、バングラデシュがインドに併合されるというニュースが飛び込んでくる。

 インド東部にあるバングラデシュは、かつてパキスタンの飛び地であった。紆余曲折により独立したが、経済的に逼迫し、更に国内におけるテロリストたちの発生が国力を更に落ち込ませた。そこへ来て神聖イスラム圏の出現がとどめを刺した。アラビア半島諸国を制圧した手際も見ても分かるように、イスラム国家に手下を浸透させて反乱を起こさせるのはアブアルファドルの常套手段であった。大方の予想通りバングラデシュ国内は大混乱となり、ついにインド軍の駐留を招く事態となった。そしてそのまま数年を待たずして、インド連邦共和国への『復帰』を宣言したのである。

 バングラデシュは、パキスタンから戦争を経て独立した国家であった。両国の遺恨は深く、関係も決して良好とはいえなかった。しかし見過ごすことは出来なかった。バングラデシュであそこまで容易に神聖イスラム圏の手下が跋扈できたという事実は、パキスタンに並々ならぬ恐怖感を植え付けた。これまで発生したイスラム過激派によるテロ行為は、いずれも散発的なものでしかなく、パキスタン政府はこれを鎮圧するだけでよかった。しかし今度テロを許せば、その隙をついて獰猛な軍事勢力がイナゴのごとく押し寄せてくるのである。彼らは旧来の政治権力を嫌い、その生存を許してくれはしない。

 結局、交渉が行われ半年足らずでパキスタンもインドへの『復帰』を決めた。これまでの首脳部が相変わらず職務を全うできる、自治領として、である。

かくして、インド亜大陸はここに統一され、インド連邦共和国は大して手も汚さず南アジアの覇者となり、強固になった国力を背景に発展途上国を脱したことを宣言した。しかしそれは、インドがさらなる多文化を抱え込み、火種を増やしたことにも他ならなかった。事実、旧パキスタン領からは大量の亡命者が当の神聖イスラム圏へ逃れ、残った者たちからも仇敵たるヒンドゥー教徒に対する怨嗟の声は消えることがなかった。

それは、いかに民族的に近しくとも、過去に産まれた憎しみをやすやすと消すことは出来ないという、大昔から人類が味わってきた当然の摂理だった。



遠藤はため息をついた。

モバイルで起動している立体映像は、鮮やかな青のターバンを頭に分厚く巻いたシーク教徒インド軍人の姿だ。

インドでは、特に儀礼用の軍服は各地方において統一されず、各々の宗教、文化、伝統により異なったデザインをしている。これは二十世紀から現代にいたるまでの慣習であり、インド文化の多様性とその混沌さを内外に知らしめる要因の一つでもあった。

本来なら、彼ら全てがめいめい勝手に独立国家として成立してもおかしくはない、あまりにも多様過ぎる文化。ヒンドゥー、イスラム、シーク、仏教、キリスト教、その他少数民族の数千にも及ぶ宗教。それを強力な指導者や政党の力を借りずして、一まとめにするという欧州連合すらなし得ていない偉業。

 それを成し遂げたのが、たった一人のみすぼらしい老人であるという事実は、世界を驚愕させた。

しかもその老人には現在何ら地位もなく、権力も財力もない。やったことといえば、奉仕活動と説得。ただそれだけである。

老人の名は、ラフル・クマールという。

かつてはインド連邦政府の要職の身にあった人物だった。これといった業績のない、平凡な政治家であったのだという。彼の変節、と、いうよりも活躍は定年後、第一線を退いてからのことであった。

 クマールという姓はインドの人名としては極めてポピュラーである。その理由はインド、ことにその多数派を占めるヒンドゥー教徒の事情が関係している。数千年前からインドに住む人々を束縛している制度の一つにヴァルナ、身分制度があった。基本的に四つの階級の家柄に人間は縛られ、階級により職業選択の道などが狭められる。特に下層の奴隷階級や、階層にも組み込まれないパリアと呼ばれる人々の扱いは厳しかった。若年層ではその限りでもないが、高齢者によっては下層階級の者とは食事も同席せず、物ももらわず、招かれても家には上がらない、などとあからさまな差別をする者もいたのだという。

この制度から下層階級が逃れる術は、イスラム教やシーク教徒に改宗するか、またはクマール姓を名乗るかであった。外見などの差異がない場合、インド人の階層は名前、殊に姓によって示される。クマール姓はインド全土であまりにも普遍的に存在していることから、生まれが分からぬようにしたい者は皆この姓を名乗るのである。

 ラフルもまた、奴隷階級の家柄に生まれたが、苦学の末に政治家の地位へ上り詰めた。彼は在任中、地味ながらも現実的な手段で、このインド社会に根付く階層間の垣根を取り払おうとした。しかし、そのどれもが功を奏さなかった。殊に農村部では反対が根強く、過去の歴史という目に見えぬ重苦しい鎖が至る所でラフルの邪魔をした。それでも彼の政治人生が平凡だったといわれるのは、彼があくまで現実に即した道を模索し、強硬で冒険的な手段に訴えなかったためと言えよう。

 しかし、定年後、ラフルは切れた。

 老いたラフルは、今まで自分がため込んだ全ての財産を下着の一枚に至るまで慈善団体に寄付してしまった。身一つとなった老人は襤褸切れをまとい、インド全土を渡り歩いて階層や宗教で差別を行うことをやめるよう、人々に訴えた。

 誰がどう考えても、狂人の所業であった。しかし、ラフルは大真面目であった。人々は、特にヒンドゥー教徒たちは彼がガンジーになりたがっている偏執狂だと揶揄した。マハトマ・ガンジーもまた、インド独立と亜大陸連帯の為、同じことを訴えた活動家であったからだ。しかし、ガンジーは確かにインドの独立に大きく寄与したが、説いたのは結局理想論だった。亜大陸から差別を失わせることは出来ず、過激なヒンドゥー教徒に暗殺されて終わった。人々は口々に、ラフルにも同じ運命が待ち受けていると噂した。

 ところがラフル老人はめげなかった。都市部、農村、ムスリムの暮らす区域。インドで人が暮らす土地ならば彼はどんな場所でも歩いて行った。

その言葉は単純で、明快だった。

 奴隷だったのは過去の話。パリアであったのも過去の話。何故現在で持ち出すことがあろう。例え先祖が下級階層だったとしても、それは普通の人にはできない大変な仕事を生涯かけて成し、いわれのない批難をはねのけて生き続けた誇りある日々だったのだ。どんな宗教にしても同じである、世界にはこれだけ神が溢れかえっているのだ。そして、恐ろしいことにその神は全て、信ずる者にとってはそれぞれ正しい存在なのだ。それさえ分かっていれば、どうして垣根を作る必要があるだろう。

 ラフルの話は、これまでインドで何度でも論じられた話だった。しかし彼は挫けずに、至る所でこの話を続けた。暇なときは奉仕活動や、畑仕事を手伝うなどして食いつないだ。 

やがて、偶然出くわしたバックパッカーが、ラフルのことを撮影しSNSに取り上げた。

これを切欠に支持者を増やし、旅に同行するものも現れた。何よりも、ラフルの元政治高官とは思えぬ、ざっくばらんな人柄が好評を博した。

彼は人から、自身をガンジーの再来だと思うか聞かれて、こう答えたことがある。

 「俺はあんな偉い人じゃないよ。真似事みたいなことしてるのは恥ずかしいよ。でもとにかく、仕事やってるうちに溜まってたストレスをこうして晴らしてるんだ。とりあえずあんたも聞け。インドはな、ぐちゃぐちゃだが、一つの集まりなんだからな」

 支持者は日毎に増えていった。生まれも、宗教も、職業も関係なかった。神聖イスラム圏の脅威を、間近に感じていたインド国民、又、当時まだ連邦入りしていなかったパキスタン、バングラデシュの人々も、何か連帯のシンボルを求めていたのかもしれない。権力を奮うでもなく、誰かをけしかけるのでもなく、ただ淡々と連帯を説くラフルの存在は、インド亜大陸の人々が求めていたものだった。

やがて彼は、人々から老師だとか導師とか呼ばれるようになり、その人気から連邦議会ではラフルの活動を支援するための、老師特別法まで可決された。マスコミもこぞって彼を取り上げた。

しかしラフルは決して自らの立ち位置を揺るがさず、ぼろを纏い、身一つで、相変わらず砕けた口調で人々に自分の考えを語った。

 「喧嘩してどうするんだ。チャパティでも食って落ち着け」

 そして今や、ラフルはインド亜大陸統合の象徴として存在している。首相や大統領を差し置き、国の代表扱いされているのだ。時には他国の要人がラフルの元を訪ねることすらある。しかしラフルは今日も変わらず、広大なインドのどこかを彷徨っている。

 何とも、悠久の国らしいことだ。

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