第三章 雨に溶けるは薄紅の吐息
美術学校を卒業した秀一郎は自宅で絵を描いていた。病がちで士官もできず、就職もあきらめた。体調が許すときに近所の子供に絵を教えていた。恵子は16歳になった。笑顔は幼い頃と変わらない可愛らしさだが、長い黒髪がゆるやかに揺れ、娘らしい美しさで大人びてきた。来年には女学校を卒業する。
秀一郎が恵子の誕生日祝いに何が欲しいか尋ねると、自分の絵を描いてほしいと恵子は答えた。季節は秋から冬へと移ろうとしていた。静かな午後、秀一郎の部屋、横顔の恵子、部屋には鉛筆を走らせる音だけが響く。花が少なく紅葉なども葉を落とした閑散とした庭。
「来年の誕生日にはもうここにはいないね」
秀一郎が沈黙を破る。女学校の卒業と同時に結婚することはよくあることだった。恵子にも父が縁談を用意していた。
「高林なら
婚約者は秀一郎の高校の同級生だった。まだ数回しか会ったことがないが、嫁いで、家と夫の為に尽くすのが自分の役目である。
「ウェディングドレスが着たかったわ」
恵子は教会で挙げる洋風の結婚式を夢見ていたが叶わないようだ。
「生まれ変わったら今度はウェディングドレスを着るわ」
無理に明るく振舞う恵子に秀一郎のデッサンの手が止まる。
「今度生まれ変わったら……」
秀一郎がデッサン中の恵子を見つめる。木枠の窓の
「生まれ変わったらなぁに? お兄様」
絵の恵子を撫でる。
「……」
秀一郎の気配が違うことに恵子が気づく。
「お兄様?」
恵子は首をかしげて秀一郎の様子を窺う。窓を濡らす水滴が筋となって
「いや、丈夫な体で生まれてきたいね」
何かを諦めたかのような寂しい笑みを秀一郎は浮かべた。晩秋の雨が音もなく降りてくる。空から漏れ、庭に溶けていく雫。
秀一郎が立ち上がる。恵子が反応する。
窓辺に立ち寄り、外の雨を見やる秀一郎。
「柔らかい雨だね」
この雨で季節は次へと進むだろうか。恵子も座ったまま庭へと視線を移す。
秀一郎が窓辺を離れる。自席には戻らない。
恵子の元へとゆっくり歩み寄る。
近づいてくる秀一郎を恵子は見上げる。
いつもの穏やかな眼差しとは違う。
鼓動が早まる。両手を握りしめる。
秀一郎が恵子を気遣いながら距離を詰める。
心の動揺が聞こえてきそうな感覚の中、恵子ははっきりと自覚する。
たとえ兄妹でも。
たとえ許されなくとも。
ずっとずっと、小さい頃からずっと。
目の前までやってきた秀一郎の手が伸びる。
恋というものが何なのか知らない頃からずっと。
恵子の前髪を左右に分ける。
この気持ちがそれだと、けれども誰にも打ち明けられない想いと気づいてからも。
秀一郎の震える指が恵子の額に触れる。
壊れやすい
ふたりの眼差しが交わる。絡まる。
お兄様しかもう見えない。
すべての音が消える。時が止まる。
顔を寄せてくる秀一郎。恵子は息を詰める。
額が、火がついているように熱い。でも。
触れていて。離れないで。お兄様が好き。
そんな想いを言葉にすることはできず、見つめ続けることもできずに恵子は目を閉じた。
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