第二章 雨にすくむは金の戸惑い
秀一郎は絵を描くのが得意だった。高等学校から美術学校へと進学していた。
父の総一郎は実業家として成功していた。いくつかの会社を興し、経営している。
母の貴子は結核で34歳という若さで亡くなった。家のことは女中のタキが切り盛りしていたが、恵子にとって優しい母親を失った悲しみは幼い心をふさぎこませた。
そんな母の代わりというわけではないが、恵子の心を支えたのは秀一郎だった。
あの恵みの雨の話以来、恵子は庭の花を眺めるのが好きになった。秀一郎は学業と描画の合間によく庭の手入れをしていた。その作業をしている秀一郎の傍で恵子はよく色水遊びをした。
増築した部屋は秀一郎の部屋だった。庭に面する1階の部屋でその部屋だけは洋風に造られており、学習机と当時はまだ珍しいベッドが置かれていた。恵子が幼い頃はよくそのベッドでふたりで眠った。それとは別のテーブルが画材置き場となっており、部屋の至るところにデッサン画や水彩画が飾られていた。窓際の棚には数え切れないほどの絵具が並べられていた。
恵子も小学校にあがり、個室が与えられていたのだが、恵子は自分の部屋よりも庭に通じている秀一郎の部屋にいるのが好きだった。
秀一郎は整った顔立ちをしていた。男子ではあるが、白百合のような美しさと気高さがあった。色が白く線も細く、同級生の男子とは比べものにならない落ち着きで、温和で頼もしい兄だった。恵子に微笑みかける秀一郎の眼差しは陽ざしに反射する
ある日、雨に濡れて恵子が学校から帰ってきた。恵子は10歳になっていた。タキが風邪をひいてはいけないからと心配して風呂の支度をしている間に、庭の花たちを眺めようといつものように秀一郎の部屋に入った。秀一郎はまだ学校で不在だった。
夏の夕立の中、
「きゃっ!」
空を切り裂く音に耳を覆って後ずさった。その拍子に後ろにあったテーブルにぶつかり、置いてあった
落としてしまったスケッチブックを拾おうとした恵子の手が止まった。
落ちた拍子に開いてしまったスケッチブックに描かれていたのは裸の女性の絵だった。
「きゃっ!」
恵子は顔を手で覆ってスケッチブックに背を向ける。心臓の音がどんどんと鳴り響く。今までそこにあるなど意識もしなかった心の臓が大太鼓のように打ち鳴らされている。胸の動悸がおさまらない。雷鳴は何度か轟く。雨音も激しい。恵子は今度は耳を押さえながらもう一度スケッチブックの方を振り向く。
見たこともない女性だった。どこの人なのかしら。どうして裸なのかしら。お兄様のお友達なの? それとも……。どうしてお兄様は裸の女の人の絵を描いたの? その人のことが好きなの? いつもはお花や綺麗な風景を描いているのに……。
風呂の支度ができたとタキが呼んでいる。びくっと驚いた恵子は急いで秀一郎の部屋を出た。
夜になり、部屋に戻ってきた秀一郎は床に広げられているスケッチブックを目にした。デッサンの授業で使ったそれを閉じたが、もしや
夕立があがった夜空には美しい月が出ていた。いつもは玄関まで駆けてくる
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