第二章 雨にすくむは金の戸惑い

 秀一郎は絵を描くのが得意だった。高等学校から美術学校へと進学していた。

 父の総一郎は実業家として成功していた。いくつかの会社を興し、経営している。

 母の貴子は結核で34歳という若さで亡くなった。家のことは女中のタキが切り盛りしていたが、恵子にとって優しい母親を失った悲しみは幼い心をふさぎこませた。


 そんな母の代わりというわけではないが、恵子の心を支えたのは秀一郎だった。

 あの恵みの雨の話以来、恵子は庭の花を眺めるのが好きになった。秀一郎は学業と描画の合間によく庭の手入れをしていた。その作業をしている秀一郎の傍で恵子はよく色水遊びをした。躑躅つつじ紫丁香花らいらっく花梨かりん牡丹ぼたん、紫陽花。花を摘んではとりどりの色水を作って楽しんだ。時折、秀一郎が恵子の色水遊びに加わった。赤と青の色水を合わせると紫色の色水になった。黄と赤を混ぜると橙色に変化した。恵子は目を輝かせて喜んだ。秀一郎のことを本物の魔法使いだと思った。陽に透ける硝子がらすの瓶の煌きと優しい色の魔法の水は秀一郎の心を彩り、恵子の心を潤した。


 増築した部屋は秀一郎の部屋だった。庭に面する1階の部屋でその部屋だけは洋風に造られており、学習机と当時はまだ珍しいベッドが置かれていた。恵子が幼い頃はよくそのベッドでふたりで眠った。それとは別のテーブルが画材置き場となっており、部屋の至るところにデッサン画や水彩画が飾られていた。窓際の棚には数え切れないほどの絵具が並べられていた。

 恵子も小学校にあがり、個室が与えられていたのだが、恵子は自分の部屋よりも庭に通じている秀一郎の部屋にいるのが好きだった。


 桜鼠さくらねず花緑青はなろくしょう花浅葱はなあさぎ紅掛花色べにかけはないろ杏色あんずいろ。棚の絵具の色の名前を眺めるのがなによりも好きだった。秀一郎がそれらの絵具を使うときは、わぁ、綺麗な色! こんな色なのね! と隣で歓声をあげた。秀一郎が描く麗しい色彩も、自身の絵と対峙する秀一郎の横顔も恵子には憧れの象徴だった。

 秀一郎は整った顔立ちをしていた。男子ではあるが、白百合のような美しさと気高さがあった。色が白く線も細く、同級生の男子とは比べものにならない落ち着きで、温和で頼もしい兄だった。恵子に微笑みかける秀一郎の眼差しは陽ざしに反射する硝子がらすの瓶よりも輝かしかった。



 ある日、雨に濡れて恵子が学校から帰ってきた。恵子は10歳になっていた。タキが風邪をひいてはいけないからと心配して風呂の支度をしている間に、庭の花たちを眺めようといつものように秀一郎の部屋に入った。秀一郎はまだ学校で不在だった。

 夏の夕立の中、金木犀きんもくせい紫丁香花らいらっくなどの樹木がしたたる雫に濡れながら佇んでいる。桔梗ききょう撫子なでしこの花はこの雨に打ちひしがれている。大丈夫かしら、そんな風に花の心配をしていると稲妻の音がした。

「きゃっ!」

 空を切り裂く音に耳を覆って後ずさった。その拍子に後ろにあったテーブルにぶつかり、置いてあった画帳スケッチブックが床へと落ちた。

 落としてしまったスケッチブックを拾おうとした恵子の手が止まった。

 落ちた拍子に開いてしまったスケッチブックに描かれていたのは裸の女性の絵だった。

「きゃっ!」

 恵子は顔を手で覆ってスケッチブックに背を向ける。心臓の音がどんどんと鳴り響く。今までそこにあるなど意識もしなかった心の臓が大太鼓のように打ち鳴らされている。胸の動悸がおさまらない。雷鳴は何度か轟く。雨音も激しい。恵子は今度は耳を押さえながらもう一度スケッチブックの方を振り向く。

 見たこともない女性だった。どこの人なのかしら。どうして裸なのかしら。お兄様のお友達なの? それとも……。どうしてお兄様は裸の女の人の絵を描いたの? その人のことが好きなの? いつもはお花や綺麗な風景を描いているのに……。


 風呂の支度ができたとタキが呼んでいる。びくっと驚いた恵子は急いで秀一郎の部屋を出た。


 夜になり、部屋に戻ってきた秀一郎は床に広げられているスケッチブックを目にした。デッサンの授業で使ったそれを閉じたが、もしやめぐみがこの絵を見たのではないかと危惧した。その日を境に秀一郎は学校での課題を家に持ち帰るのをやめた。


 夕立があがった夜空には美しい月が出ていた。いつもは玄関まで駆けてくるめぐみは早くに寝てしまったと秀一郎はタキから聞いた。雨に打たれてお風邪をひいていらっしゃらないといいのですが、とタキは心配していた。恵みの雨はさまざまなものをもたらす。新しい季節。満ち欠けを繰り返す月。己でも整理がつかない心情。戸惑い。めぐみは大丈夫だろうか。風邪はひいていないか。それから……不快な思いをさせてはいないだろうか。

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