第四章 雨に眠るは純白の想い

 一枚の絵がある。丁寧に梱包されており、『恵へ』と書いたカードが添えられている。


 あれから十年の年月が流れた。恵子は高林家へと嫁ぎ、一女を授かった。夫である正雄は戦地へと赴き、帰らぬ人となった。戦後、父が恵子と娘の幸子を呼び寄せ、藤崎の家に戻ってきた。


 あの想い出の部屋に入る。部屋の主である秀一郎は既にいない。結核で旅立ってしまった。恵子は臨終には立ち会えなかった。

「雨は降っている?」

「雨はどう?」

 最後まで雨が降っているかどうか、うわごとのようにつぶやき、

「柔らかい雨が降って参りましたよ」

 とのタキの言葉を聞いて、安心したように秀一郎は眠りについた。手には恵子が嫁ぐ直前に贈った懐中時計が握りしめられていた。その夜雨は雪へと変わり、ふたりの庭は純白の真綿に覆われた。花ごと落ちる椿が二輪、その白い世界の片隅で寄り添っていた。覆い隠すように白いヴェールがふたりの上に幾重にも被せられた。

 


 恵子が秀一郎と血の繋がりがないと知ったのは、嫁ぐ前のことだった。両家の出自を交換する際に戸籍を見たときのことだった。恵子は関東大震災の震災孤児だった。実の父親が藤崎の部下で2歳のときに養女として引き取られていた。どれだけの衝撃が恵子を襲ったか。どれほど秀一郎にそのことを確認したかったか。どんなにか……。


 秀一郎が遺したのは恵子の絵だった。純白のウェディングドレスに身を包んだ恵子がこちら側を見つめている。少し照れたようにそれでも柔らかく優しくこちらに微笑んでいる。背景は白い紫陽花。雨上がりの露を含んだ輝かしい水彩の花が絵に光を添えている。

 私が見つめているのは貴方。その絵を前に恵子は確信する。たった今、ヴェールを上げてくれたのは貴方。私が着たいと言っていたウェディングドレスで貴方の前に立たせてくれた。貴方は自分の想いをこの絵に、この一枚の絵にすべての想いを込めてくれた。


 一行の文章がなくとも伝わる。一言の言葉が添えられてなくともわかる。秀一郎の想いがこの絵から零れ出てくるようだ。恵子のつたない下描きデッサンのような初恋はこのような形で成就していた。想う人によって淡く色づけられ、美しい絵となっていた。


 恵子は思い返す。兄はきっと知っていたはずである。8歳違いなので突然現れた妹を母が産んでいないことがわかるだろう。父もそれを説明したかもしれない。それでも妹として接し、見守り、最期まで兄としての態度を貫いたのだ。


 あのとき、兄妹という禁忌を超えてしまってもいいと恵子が思ったあのときにも秀一郎は「兄」としての範疇を守った。恵子の未来を汚さなかった。血の繋がりはないとはいえ、世間的に兄妹で通っている以上、自分達が結ばれるには外聞が悪い上に父が進めている縁談が恵子にはあった。秀一郎はすでに病がちだった。自分の想いを封じ込め、恵子を自分の友人でもある高林に託したのだ。



 梅雨時期の薄雲りの雨は一般的には気分を憂鬱にさせがちだが、恵子には秀一郎が逢いに来てくれたように感じられる。恵子は秀一郎が唯一触れた自分の額に手をあてる。あのとき額に口づけられると思い瞳を閉じた恵子だったが、感じたのは秀一郎のくすりと漏らした吐息だった。

「きっと白無垢も似合うよ」

 そんな言葉が聞こえてきて目を開けるとそこにはいつもと変わらない秀一郎の穏やかな微笑みがあった。



 愛する人の部屋の窓から想い出の庭を眺める。青、紫、白、薄紅色などの紫陽花が雨のヴェールを纏い、雫は踊るように跳ねる。春の雨は恵みをもたらし、夏の雨で恋に目覚め、秋の雨が想いを交錯させ、冬の雨で彼は眠りについた。いくつもの季節を共に過ごし、さまざまな雨がふたりの想いを見守り、たったひとつの恋を色鮮やかな花々が彩った。


「恵みの雨だね」

 蘇るあの声。あの微笑み。


めぐみ


 たったひとり、恵子をそう呼んだ人。

 貴方へ。秀一郎さま。

 逢いに来てあいしてくださってありがとう。






~ 銀の雨 めぐみと呼びし 君想ふ

     金の花庭 永遠とこしへの夢 ~


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