道化――BAD EXAMPLE


 ゼーゼーとしばらく荒い息を繰り返す。だんだんと歯茎がしびれ、顎が痛んできた。その痛みがだんだんと俺を正気に戻していく。俺は痛みに感謝した。体の痛みがなければ朝日に照らされるまでそのままだったかもしれない。もしそうならば、気が狂っていることだろう。

 右手で顎の付け根を押しながら、少しずつ縮みきって固く硬直した顎の筋肉を上下に引き剥がしていく。何度か顎を広げたり閉じたりを繰り返し、ほぐそうとしてみる。


 俺は馬鹿なピエロで、ショーの主役ってわけか。

 組織から足抜けしたい奴らへの、最高の見せしめだよ、コイツは。組織に逆らわずとも、その意に沿わないだけでこうなるという最高のサンプルケースだ。

 クズにはクズなりの秩序があると思ったが、骨の髄までクズってことか。


 まぁいい、最高のショーとは、あくまでも最後まで演じ切ったらの話だ。

 クライマックスの直前の幕間(まくあい)で、役者が逃げたらどうなる? 

 大勢の観客はバカ面を下げていつまでも待っていると思うか? 


 いや、そんなことがあるはずがない。「いったいどうした?」「説明しろ!」となるに決まっている。

 さて、そのときショーの主催者はどうなるかな?

 依頼は失敗し、メンツはつぶれ、責任者は糾弾される。

 クズな組織の裏社会の責任問題だ。俺が探して復讐せずとも、命のやりとりになっても不思議はなかろう。


 そう思うと、ひどく落ち着いてくる。落ち着いて考えはじめたことで、俺の中でひとつ、またひとつと、要素が次々に並び、つながっていく。


 吹っ掛けたはずの報酬が言い値のまま通ったこと。

 メアリーがマイホームの下見の翌日、国会議員と会っていたのに嘘をついたこと。

 ホテルのロビーにその議員先生がいたこと。

 テレビで見た政治家やら有名女性起業家が、郊外都市の店なんかに揃って来店していたこと。


 ショックは抜けきっていないが、急いで考える必要がある。

 まず、メアリーの殺害は本当に依頼があったのかどうかだ。

 俺の足抜けの見せしめ、そのためだけに無関係の人間を殺害させる――ということは考えにくいだろう。見せしめが目的なら、わざわざ手間とカネを掛ける意味はない。効果的に俺を処分する方法などいくらでもある。おそらくメアリー自身に理由があると考えるべきだ。国会議員を店だけでなく、下見のマイホームで見かけることなどかなり不自然だし、ましてや贈賄疑惑のある議員だから尚更だろう。

 推測に過ぎないが、メアリーの殺害依頼がはじめにあった。それに組織が乗っかったとみるのが自然に思える。

 人間関係が先か、商売上の付き合いが先かは俺にはわからない。いくらメアリーのセンスが良くても、わざわざ有名人が郊外の店で集まるには、それ相応の理由があるということか。

 ……ということは、メアリーも非合法な裏の世界に関わりがある、そういうことだろう。

 資金源か、マネーロンダリングか、裏工作用の金庫を預かっているのか……、大方そんなところだろう。

 孤児院に関わる慈善事業さえ、感傷的な理由ではなく、ただの隠れ蓑かもしれない。孤児院については……そうは思いたくないが……。


 どうするか?

 いや、自問するまでもないだろう。

 俺は隣の部屋にいるメアリーに、メッセージを送った。


 ――○○ホテル1105にいるな? 

   隣の1106号室へ来い

   俺はそこにいる

   ブラッド――


 それから10分後。

 部屋のドアがノックされる。俺は部屋のドアを開けると、メアリーがそこにいた。

「ブラッド! ああ本当に! どうしてあなたがここにいるの?」

 メアリーは口を開けて何かを言おうとするもの、上手く言葉として続かないようだ。口を開きかけて辞め、「あぁ」と声を漏らして何か言いかけ、留まることを何度か繰り返す。

 俺は部屋へと入るようにジェスチャーで示した。そのままメアリーをベッドに腰かけさせる。俺はデスクの椅子に座り、話しはじめた。


「まず、この部屋に盗聴器は仕掛けられていない。安心しろ。お前の部屋はわからないがな……。だから俺からはお前の部屋に出向かなかったんだ。ついでに言うならば廊下に監視カメラがないことは確認済みだ。……この部屋はとりあえず安心できる」


 口では安心しろと言う、自分のバカさ加減にうんざりする。安心しろと言われて簡単に安心する奴がいるものか。気が利かない男だと自分を心の中で責めた。


「今、お前はひどく混乱しているだろう。『なぜ俺がいるのか?』『自分が下手を打ったのか?』『いったい何が起こっているのか?』『どう連絡を取ればいいのか?』とな。そのいくつかに答えよう」


 メアリーは左右の膝をくっつけ、絨毯に視線を落とし小さくなっている。


「俺には裏の仕事がある。有り体に言えば、殺し屋ということになるだろう」


 驚き戸惑うかと思い、一度区切って様子を伺うが、メアリー自身がいまだ落ち着かないのか、反応はない。


「組織のボスに依頼を受け、殺しのためにここに来た。そしてターゲットのことは女としか知らされていない。名前や顔、殺される理由、もちろん依頼者のことも、俺は知らない。あくまで俺は実行するだけだからな」


 俺の殺し屋としてのウリとは、相手の顔を見なくても実行できることだ。今回の仕事は、実に簡単な仕事のはずだった。そのはずだったが……。


「手筈はこうだ。この部屋から隣の部屋で眠るターゲットを仕留めるだけ。俺がこれまでやった仕事に比べたら、カンタンなもんだ。……けれどこのホテルにきて、俺には違和感があった。いや、正確にはここ最近ずっと感じていたと言うべきだろう。一階のロビーであの国会議員を見たんだよ。そしてその議員先生は、俺達がマイホームの下見に行った翌日の朝、お前が表で話をしていた女だよ」


 メアリーは固まったままだ。

 俺は椅子から立ち上がり、メアリーの前に膝立ちになる。うなだれる両肩に手を置いた。


「いいか、落ち着け、落ち着くんだ。俺達はとてもハードな状況にいる。ハードでシリアスな状況だ。これからどうするかを決めなければならない。それもすぐに決めなければならないんだ、メアリー。そのためにはまず状況を整理する必要がある。誰に狙われたのか? それがまず一番だ。身内が依頼したのか? それとも敵がいて、そいつが依頼したのか? それ――」

「そんなのあたしにわからないわよ! どうしてあたしが狙われなきゃいけないの?」


 俺の話はメアリーの叫びに中断させられた。今のメアリーは全く話についていけていない。落ち着けと繰り返し言い聞かせても無駄だろう。

 どうするか? そこで俺は話の方向を変えることにした。


「メアリー、俺はもう今回を最後に、裏の仕事から足を洗うつもりだった。今回の仕事はいわば退職金のはずだった、俺にとってはな。つまり俺はお前との未来を選んだ。だから俺はお前と生きて帰りたい。

 いや、帰るだけじゃなく、これからも暮らしていきたい。……残念ながらマイホームは難しくなったがな。それは事実だ。けれどマイホームがすべてじゃない。それよりも……まずこれから、俺達がどう生きるかを決めなければならないんだよ、メアリー」


 大声に大声で返しては、お互いにエスカレートするばかりだ。

 だからあえて、ゆっくり子供に聞かせるように、わざと声を小さくし、穏やかに話しかけてみる。すると昂ぶりはいくらか抑えられたようだ。


「メアリー、……さっき子守唄を歌っていただろう? 俺によく聞かせてくれた、あの子守唄を」


 何度も聞かされ覚えているその歌を、俺なりに何フレーズか歌ってみる。

 メアリーは床を睨みつけたまま、難しい顔をしていた。

 すると突然、じっと固まっていたはずのメアリーは、我慢できないというかのように手を突き出し、笑いだした。


「……ストップ! ストップ! 歌詞は合ってるけど、どうしてそうなっちゃうのよ? あたしの歌をいつも聞いているのに、めちゃくちゃな音程じゃないの。呆れたわ。いい、こうだから」


 俺が歌った部分をメアリーが歌い直す。メアリーが歌い終わると、「次はあなたよ」と手で促され、俺が歌う。

 メアリーのレッスンが唐突にはじまった。


「OK、だからこうだろう」


 聞き取った通りにやってみるのだが、まったく違うらしい。何度もダメ出しを喰らう。

 何度も繰り返すけれども、正直なところ俺には違いがわからなかった。


 俺は聞き分けることは得意なのだが、同じように再現して歌うことは別の才能が必要らしい。楽器も歌も、実はイマイチなのだ。

 そもそも聞き分ける才能と演じる才能がまったく同じものであれば、音楽評論家やコンテストの採点者に勝てる者などいないだろう。そう言い訳したかったが、やめておいた。


 とうとうメアリーは俺に教育することを諦め、自分で1コーラス歌った。

 そこに流れたのは、まさしくいつもの子守唄だった。



        ◇



「わかったわ、あなたを信じます」


 メアリーは俺の正面に向き直って、きっぱりと宣言した。場違いな子守唄のレッスンが終わり、この部屋に忘れていた現実が戻る。戻ってきた現実とは、しかしレッスンの前と質の違うものだ。鋭く尖った荒々しい空気感は、ここにはない。


「あなたがサプライズとか、あたしへの嫌がらせでこんなところに来るなんて、落ち着いて考えてみればあり得ないことだわ。サプライズならエリーの、議員のことについて話す必要なんてないし、別れたければ何もこんなところへ追いかけて来るまでもないものね」


「ありがとう、わかってくれて嬉しいよ」


 ひとまず分かり合えてホッとしたが、内心ではかなり時間が掛かっていることに焦ってもいた。

 これからどうするかをすぐに決めなければ、手遅れになりかねない危険がある。

 メアリーの手を握り直して、再び尋ねはじめる。


「メアリー、ここへは何しに?」

「……1つは買い付けよ。これは嘘じゃない。本当よ、信じてブラッド」


 俺はうなずいた。


「そしてそれが終わってから、議員のエリーと会ったわ、予定通りにね。ほかにも有名な人がいたわ、各界の有力者ね。そもそもあたしの店は、エリーがスポンサーなの。……というよりも、エリーが表向きの資金でできないことをするために用意したお店なのよ。賄賂を贈ったり、貰ったりするためのね。そして今回は贈る側よ、そのための金やダイヤを、お店で売る分とは別に仕入れて夜の会合で配ったの」

「ありがとう、話してくれて」


 目的はわかった、だが、この情報だけでは次の行動の判断材料にならない。


「どうしてあたしが狙われるの?」

「……何か最近変わったことはなかったか? 客とのトラブルや賄賂の受け渡しで恨みを買ったとか」

「……思いつかないわ」

「エリーはどうだ? 怒らせたとか、カネの流れで捜査が入りそうだとか、議員のライバルの噂とか……」

「ずっと上手くいっていたし、最近だって……。ブラッドと家を買って住むことを話したときだって、『お祝いしなきゃね』って1番に喜んでくれたのに。」

「……」

「……」


 メアリーは右手を額に当て強く目を閉じると、―――ちょっと待って――という風に左手を俺の方に出しながら考えている。俺は辛抱強く待った。するとピクッとしてメアリーが目を開けた。


「何か思い当たったか?」

「……あー、えーと」

「どうした? 『まさかこんなことが』ということでもいいんだよ、それがきっかけかもしれない」

「そういうことじゃなくて……、でもわかったわ。怒らないで、落ち着いて聞いてね」

「ああ、約束する」

「今年に入ってから、何度か頼まれて断ったことがあるの」

「断ったこと?」

「ちゃんと断ったから、そこはハッキリさせておくわ。……その、何というか、言いにくいわね、こういうことって……。

 その、夜のアルバイトを持ちかけられたの。あたしはブラッドがいるからできないって断ったわ。でも、一度で諦めてくれなくて、そのあとも2,3回持ちかけられたの」

「……悪かったな、嫌なことを思い出させて」

「ううん、いいの」

「しかし、何度もメアリーに持ちかけるということは……」

「……あたしもそう思う。誰かは知らないけど、あたしをご希望のようね。気持ち悪いけど……。ブラッドがいるからって断ったら『何年も付き合っているのに結婚しないなんて、本気じゃないんでしょ』なんて言い出しちゃって。だからあたし、困って言ってやったのよ、『あたしはそうするつもりですし、ちょうど話し合っているところなんです』って。」

「ありがとう、結婚するつもりと言ってくれて嬉しいよ。……あの店は、書類上はメアリーの店ということでいいのか?」

「ええ、そうよ」


 俺は考えた。

 自分の裏の金庫に関わる人間が結婚するということはどういうことか?

 もしパートナーがカネに困っていたり、経営に関わりたいと望んだらどうなる?

 そいつらが離婚したら、どうだ?


 どう考えても、いいことはないだろう。

 指名を断ったことと合わせて、そろそろ用済みと思う奴もいるかもしれないな。


 しかし殺しの依頼までするか?

 ちょっと理解できない。


 ……一方で俺の方はどうだろうか?

 組織が抜け出そうとする奴の見せしめにするだけなら、単純に俺に制裁を加えるだけでいいはずだ。わざわざ遠くの舞台を設定して、カネ、ヒト、時間まで掛けてやる意味がない。

 もともと依頼が先にあった――そう考えるほうが自然だ。

単純に組織が俺に実行させるということは、下品な理由しかないだろう。メアリーが俺の女だということは周知の事実だ。自分の女の管理もできないヤツとあざけり笑い、仲間内で賭けの対象にでもして面白がっているのだろう。

 


「繰り返しで悪いが、ほかに思い当たる人物や出来事がありそうか?」

 俺は更に尋ねたが、その後も特に候補になりそうな人物、思い当たる最近の出来事はなかった。

 メアリーがこの部屋に入ってから、1時間が経っていた。あまり長い間ここにとどまることは、ぞっとしない。いずれにしても早くここを離れなければ……。


「メアリー、とりあえずここから離れよう」


 メアリーと手筈を打ち合わせてから、一旦部屋へ戻す。もともと俺は最小限の荷物しかないから、すぐに準備を整え、部屋を後にした。


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