信念――PATTERNS OF BIHAVIOR――


 そして、その日が来た。

 俺の仕事の日、メアリーの出張の日だ。


 まず会社へ向かった俺は急ぎのメールや連絡をいくつか片付ける。部下に「客先へ行って夜に戻るから」と告げ、アリバイの一部をつくる。それから次の仕事に向かうべく会社を後にした。

 愛車を大きな公園に止めると、10分ほど歩いてレンタカーを借りに向かう。万一に備え、乗り捨てできるワンウェイレンタカーを予約してある。経費は嵩むが、結果を分けるのはこうした細かいことの積み重ねだ。


 どれだけ備えても結局、人はどこかで油断するし、失敗する。

 運命か、巡り合わせか、アンラッキーか……。こうしたことはどうしようもなく、それはそれとして受け入れるしかない。

 それが人の真実で限界だと認めたうえで、どこに力を入れ、どこの力を抜くかを、自分で選択し決めていく。これは経験と要領次第で、より良く決めることができるようになることだろう。

 少なくとも俺は裏の仕事の準備において、思いつくことはすべてテーブルの上に並べてみる。それを検討し、いくらかでも意味があるならば、やっておくことにしている。

 そうすることで――できることはやってある――と心が落ち着くのだ。

 心が落ち着くとは状況によっては大きなメリットになり、これ以上望めないほどの武器にもなる。


 急いで飛び乗った列車だが、実はもっと早く着く路線があった。

 慌てて着替えて家を出たが、ふと鏡を見たら、なんでこんな寝癖が、どうしてこんなコーディネイト……。

 表の日常ではこんなこともあるが、だからといってゲームが終わるわけではない。

 ところが裏の仕事がこれでは続かない。ゲームのように残機がある訳ではないのだ。


 まぁ、表の仕事もそれぐらいに励めば大きな結果が返ってくるのかもしれない。

しかしそうは言っても、掛けているものが違う。一歩間違えれば返り討ちか、依頼者に処分されかねないのだから。

 誰しも掛けるものが大きいほど追い込まれるし、真剣にもなる。

 そう、ハイリスクでハイリターン。金銭的にも感情的にも。

 それが俺にとって、クズ同士の命のやりとりだということだ。


 乗り換えたレンタカーのコンディションを確認がてら、軽く街を流す。それから次の準備へと向かう。

 レンタル倉庫のコンテナを開けると、一昨日すでに確認してある中身を再びチェックする。もう一度念入りにゆっくりと三回確認すると、車の後部に積み込みアクセルを踏み込んだ。


 高速に飛び乗ると2時間程度のドライブだ。

 法定速度+10km以内を確実に守り、先を急ぐ車には譲り、不必要なトラブルを避ける。時間に余裕があるとはいえ、仕事はもう始まっているのだ。くだらないトラブル一つで予定が狂い、焦りを生む。焦りは判断ミスや迷い、感情の揺れを引き起こす原因だ。そうして待つのは失敗の2文字と相場は決まっている。

 出来事とは全て、因果の糸で繋がっているものだ。

 はじまりがあり、過程があり、結果がある。そしてその結果が次のはじまりの種となる。

 世界はループの輪で繋がっているのかもしれない。


 高速とは単調になりがちな道だ。

 等間隔で過ぎ去る白線や柵。ずっと変わらない前後の車両。ほぼ真っ直ぐで、アップダウンの少ない道。

 つまらなさや眠さを吹き飛ばすように、時折踏み込みたくなるときもある。その方が変化もついて楽しいに違いないが、グッと堪える。

 その代わりに到着後の予定やホテルの図面を思い起こし、リハーサルしながら進む。

 途中、一度サービスエリアで休憩したが、至って順調だった。いささか退屈にすぎるほどに。

 都心に近づくと混雑しはじめたがそれも思ったほどではなく、実にスムーズな旅路だった。


 ホテルの前まで来ると、あえてホテルのまわりを2周する。外観と道路、周囲の店をざっと確認すると、ホテルの駐車場を避け、数ブロック離れたコインパーキングに駐車した。

 荷物を入れた黒いトゥミのアルファ2を引っ張り出す。頑丈で十分な容量があるバッグだ。なによりも人と被り、没個性的なところが個人的に最高だ。

 俺の仕事には目立つ意味など、欠片さえもない。もちろん足がつきかねないトレイサー登録なんてもってのほかだ。裏稼業で住所氏名を登録など、笑い話でしかないだろう。

 さらに着替えを入れた黒のガーメントバッグを取り出し、歩き出した。


 いつも通りのいいリズムだ。予定通りに流れている。だが、少し自分に酔いはじめているのかもしれない。


 俺は自分を戒めるためにスマートフォンを取り出すと、わざと画面を見つめ、前方を一切見ずに聴覚だけを頼りにホテルへ向かう。


 信号で止まる車のブレーキ、自転車の軋み、加速する車のエンジン音。店頭に流れるミュージックや呼び込みの声。会話しながら歩くカップルやビジネスマンたち。風ではためくのぼりやゴミが転がる音。

 街には音が溢れている。

さまざまな音を聞き取り、取捨選択して淀みなく歩き、止まり、歩き、ときに障害を避け、進む。

 集中力を高め、慢心を心から追い出した。


 時間を調整してホテルへ入ると、予定通りカフェを目指す。一人であることを告げ、案内されたテーブルに座るとコーヒーをオーダーした。

 軽く目を閉じ、集中する。

 手前のテーブルからはじめよう。


――イヤに貧乏ゆすりが多い奴だ。椅子の軋み、靴底が床とこすれる音がする。会話はない、一人だ。


――パソコンのキーを叩く音がする。時折独り言を言いながら打ち込んでいるようだ。内容は提案書のようだな。独り言から推測するに、俺が上司なら確実にやり直しだ。


――タバコに火をつける音がする。今時珍しいブランドのガスライターか。金属なのに音がしっとりと湿っているような響きだ。いい趣味をしている。

だが、めくって見ているものは週刊誌だな。安くて薄いカラーページをめくるシャリシャリした音がする。


……



 ん、だいたい無関係な人間は把握した。


 俺は目を開け、ここに戻ってくる。それからテーブルの新聞を手に取った。

 新聞を満員列車でビジネスマンがするように縦長に畳んで持ち、顔の高さに掲げて読む。読む素振りをしながら周辺視を使ってあたりを見回す。

 どいつだ?

 音でハズレはチェックしてあるから、数は限られている。それを順番にチェックする。

 近くのテーブルの待ち人来たらずの男。あいつは違うな。パソコンに向かうビジネスマン、観光風の男、初老のエグゼクティブ、さらにその奥……、あれか?

 運ばれたコーヒーに二度三度と口をつけると、新聞を置いて伸びをしながら再度確認する。さも今気づいたという風に「あれ、あそこにいるのは……」とわざわざ口にする。席を縫うように進み近づくと声を掛けた。


「先日の再開発ではお世話になりました。今日も打ち合わせですか?」


 あくまでもフレンドリーに、予定された符牒を唱える。


「いやー、恥ずかしいところを見られてしまいましたね。時々こうしてサボっているんですよ。駅や路面店では知り合いに見られる可能性がありますからね」


 予定通りの符牒が返され、笑顔を向けてきた。この笑顔にダマされる奴もいるだろうな――と思うような爽やかな笑顔だった。俺には顔が引きつるだけで、できそうにない種類の笑顔だ。実のところ詐欺師が本職なのかもしれない。


「ささ、どうぞお座りください」


 促されるままに席につくと、5分ほど会話をした。適当に話を合わせただけで、まるで中身の無い会話だ。

 もっともらしい世間話をしながら、さりげなく受け渡しを行う。



 観客のいない芝居を切り上げ、俺はテーブルに戻り再び新聞に目を落とした。さらに30分ほど時間を潰すとカフェを出、化粧室に向かい、ガーメントバッグの中身に着替える。着替えを終えた俺は、先ほどの詐欺師風情とパッと見は同じになったはずだ。もともと背格好が同じ奴が選ばれて、あらかじめチェックインを済ませているのだ。



        ◇



 ロビーのエレベーターに向うと、なぜか聞き覚えのある声がした。

 こんなところで……。

 誰だ? 

 思い出せない。

 けれども最近聞いたはずだ……。


 通路の端に立つと、先ほどのカフェの連絡員から受け取った携帯を耳に当て、電話中を装う。もちろん声の主を探すためだ。

 あれか……、鮮やかな青のジャケットにパンツの後ろ姿、ボーイッシュな髪型で50前後か……。

 この場所、服装に色……、人に見られる仕事か? 社長、講師、先生……。


「ああ、あの朝の議員か」


 国会議員ならば、この首都の街にいてもおかしくはない。俺はエレベーターへと再び歩き出す。エレベーターを待つ間、横目で見るとはなしに見てしまう。

 なぜか気になる。

 ……だが、気のせいだろう。

 国会議員がそれほどの格もなく、議場から遠いこのホテルに泊まるとは思えない。俺のターゲットは違うだろう。奴の用事はパーティーか、打合せか、いずれかだろう。

 俺のターゲットは宿泊客のはずだ。


 すぐにエレベーターが到着し、思考は打ち切られる。11階で降りると先程のカフェの連絡員から受け取ったルームキーを使い、部屋へ入った。

 照明が適度に明るく、清潔感のある部屋だった。薄暗い照明の部屋とは、たいてい壁紙や絨毯に汚れや傷があるものだ。けれどもこのホテルは、そうではなかった。

 右手にバストイレ、さらに先の右側にベッドがあり、ベッドの横の側面は壁にピッタリとついている。ベッドの足元と窓の間は50センチほど空間があり、東側に面する窓にはレースと遮光のカーテン。奥の左手角に冷蔵庫があり、その手前に簡易のデスクがある。テレビはデスクの冷蔵庫側に置かれていた。


「配置は図面の通りで間違いないな」

 ターゲットの反対の壁に耳を当て、様子を伺う。こちらもわずかな気配も感じられない。試しに壁を4か所叩いてみる。

 ――コンコン、ゴンゴン、コンコン、ゴンゴン――

 厚みも、壁の下地の骨組みの位置も、頭に入れた図面が正しいと音が返してくる。

 それからベッドにひざまずくと、手のひらを利用して計測する。

 俺はいっぱいに開いた掌の親指から小指までが20センチなのだ。ブロックやレンガの幅に高さ、標準的な窓の大きさ、大衆車の全長全幅……、何もなくても空間的な大きさや位置が把握できるよう、日頃から意識して訓練しているのだ。こうしたことは才能を必要としない。やるかやらないだけだ。意味があると思えばあるし、無いと思えばない。単純なことだ。


 ベッドのサイズも高さもオーケーだ。手で押し、寝転がり、沈み込む深さのイメージをつくる。資料によると、ターゲットはほぼメアリーと同じ身長と体重だと予想されている。俺はメアリーの寝顔を思い出し、心の中で一言謝ってから、イメージの中に御出演いただく。


 メアリーがベッドの縁に腰かけている。左の手の平に体重をかけ、それから肘で支え、上半身を後ろに傾ける。沈み込むベッドでバランスを取り、足をのせていく。それから横になると、両肘をついて真ん中へズレながら位置を決める。

 こんな感じだろう。それから仰向けになるか、うつ伏せか、丸くなるか、端っこへ寄ってくか……。

 だいたい掴めたろうか? 

 イメージの中のメアリーに感謝を告げ、頭の中から御退出願った。今は裏の仕事の最中なのだ。


 一通りの環境条件は確認した。イレギュラーはないはずだ。念のために人差し指で順に示しながらグルっと回す。

「次に移ろう」

 黒いバッグを開け、得物を準備し組み立てる。いつでも嵌められるように皮製の手袋も取り出しておく。

「……さて、あとは待つだけか」

 あとはターゲットの移動の連絡があるまで、待機するのみだ。それが2時間か、3時間か、それは相手次第になる。

 事前の情報によると、ターゲットはここのレストランで仲間と会合を持ち、そのあと部屋に宿泊する予定ということだ。

「今回の仕事で、一番しんどい時間になりそうだ」

 ひとり呟いた。


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