未来――SWEET HOME――


 青い空が山の端まで続き、空は晴れ渡っていた。

 アパートの向かいの敷地で目を引く、コバルトブルーに咲く紫陽花がいささか気の毒になってくるような最近の暑さだった。あまり降られても困るが、紫陽花には雨が似合うものと決まっている。

 そう感慨に耽りながら、雨が降れば降ったで出かけることが億劫になる――例えばレザーソールの革靴を履くか履かないか――ことを思い出し、俺は自分の勝手さに呆れた。


 メアリーが晴れ渡る青空と、今が盛りの紫陽花と揃えたのだろうか、真っ青なジーンズのアクティブな上下で駐車場に降りてきた

 体のラインが出るタイトなパンツにジャケットを羽織り、インナーは白いTシャツ。紫陽花と同じ色のスカーフを巻いた白いトートを肩掛けに、髪をポニーテールでアップにしている。

 その姿を見て俺は――今日は間違いなく長くなる――そう覚悟した。



        ◇



 その不動産屋はメアリーの知り合いだった。

 メアリーの店の定休日に合わせ、俺達は家の下見に出かけた。メアリーは平屋の庭付き一戸建てを望んだ。俺は建物そのものに希望は無かった。建物よりも立地優先で、線路脇や幹線沿いのような騒々しい環境でなければオーケーだった。にぎやかすぎる場所は得意ではない。


 不動産屋は俺達の希望に合う物件をいくつかピックアップすると、順番に案内して見せた。一つ、二つ、三つ……。三つめが当たりのようだった。

 正直なところ、俺にそれぞれの魅力の違いはわからなかったが、メアリーには大きな違いがあったようだ。

 三件目を隅から隅まで見て回り、外を一周して外観を細かにチェックする。まるで絵描きか写真家のように指でフレームまで作って覗きこんでいた。

 そんなメアリーの様子を見て、もう一押しで決まりだと思ったのか不動産屋は――何なら一泊してもOKだ――と提案してきた。

 そもそも今日の予定は家探しだ。いざ決まってしまえば、これといった差し迫った予定もない。二つ返事でメアリーがその提案を受け入れた。

「明日にはきっと、鍵と共に良い知らせを届けられると思いますわ」

メアリーがそう言うと、不動産屋は鍵を俺に手渡し、足取り軽く戻っていった。



 それから二人で不動産屋に教えられた近所のマーケットに買い物に出かける。

 簡単な雑貨――タオルや下着、飲み物など――を買い揃えた。さすがに契約前の家で調理はできないので、メインはデリバリーを頼むことにする。

 マーケットから戻ってからは、もうメアリーの独壇場だった。


 まずは庭からだ。

「ここに薔薇を植えて、こっちには百合にしようかしら……。外の柵は白色に塗り替えて門を……」

 種類だけでなく、薔薇の色――いつの間にか青いものもあるらしい――、百合の色の講義も勿論あった。

 それから玄関に移動する。

「玄関に掛ける絵画はさりげないサイズの……で、この作者は……」

 リビングからダイニング、さらにはキッチンへと続いていく。

 テレビにソファ、センターテーブルのサイズ、カーテンの色や柄、ダイニングセットにその上のクロス。食器棚の置き場所、こんなオーブンがあれば便利だ……。


 俺はメアリーの希望が平屋であったことに、心から感謝した。2階があれば追加で2、3部屋、もしかするとベランダまでだからな。

 いささかメアリーの興奮ぶりには閉口したが、ここはにっこりと笑顔で我慢、いや、対応すべきだろう。ショッピングとは「より良いものをチョイスするとき」と「買った瞬間」が最高と決まっている。

 実際に手に入れればアラが見えたり、綺麗に保つ苦労があったり、雑草に手を焼いたりするものだろう。

 そう思ってもこのタイミングで口に出さないということは、この瞬間を最大限に楽しむルールだ。


 今は仮の宿のこの家で、険悪な一夜を過ごすようなマゾヒスティックな趣味は俺にはない。

 ――こうしてメアリーのワンマンショーは、夕食のデリバリーが届けられるまで続いたのだった。



 前の住人が置いていったのであろう備えつけのダイニングテーブルに、デリバリーのピザやマーケットで買ってきたサラダ、飲み物を並べる。


「二人の未来に、乾杯」

「乾杯!」


テレビも何もない部屋で、俺達は二人の未来についてずっと語り続けた。

 そうして未来への希望に満ちあふれた夜は過ぎていく……。



        ◇



 翌朝、目覚めるとメアリーの姿は俺の横にはなかった。


 さすがにこれからマイホームになるとはいえども、いきなり熟睡できるほど安心と言う訳ではないのだろう。ベッドサイドに置いた黒いメタルコアバンドのG-SHOCKを見ると、いつもの時間よりもかなり早い。

 それにもかかわらず、なぜか寝不足の不快感はない。それどころか、このまま起きて近所を数ブロック、グルッと勢いに任せて走れそうなほどだ。そんなバカバカしいことを考えてしまうことに不思議な思いがする。

 どうやら浮かれていたのはメアリーだけではなかったようだ。


「喉、渇いたな」

 昨日買った水を取りにリビングへ向かうと、キャップを捻りミネラルウオーターを口に含む。口を漱ぎ、うがいをしてから、ゴクリ、ゴクリと喉を鳴らして飲む。

 一息ついて見回すと、家の中に人の気配は感じられなかった。

 メアリーも慣れないベッドで落ち着かなかったのだろうか? 

 散歩に出るなら誘ってくれれば――そう思いながら南側の庭に面する掃き出しの窓へ向かうと、その先に居た。


 メアリーは一人ではなかった。

「あれは、たしか……」


 起き抜けの頭で考えを巡らせる。気分良く目覚めたせいなのか、相手の顔にすぐに思い当たった。

「メアリーの店で見かけた国会議員か……」

 一度メアリーの店で見かけたことのある、女の政治家だった。


 仕事か? 

 あいつの選挙区はここだったか? 

 それともこんなところに住んでいるのか? 

 確かここ最近、口利きに絡む贈収賄の疑惑が週刊誌を賑わせていたようだが……。


 いくつかの疑問が頭をよぎった。

 だが、答えを出せそうな情報を俺は持っていなかった。

 安アパートならいざ知らず、窓が閉まったままでは庭先の立ち話など、集中しても聞き取れないだろう。


 窓を開けて聞き耳を立てるか? 

 表へ出て挨拶すべきか? 

 しばらく思案する。


 顎をさする手にヒゲがザリザリと当たることが気になったが、諦める。玄関に向かいながら手櫛でみっともなく見られない程度に髪を整えると、ドアを開けて庭へ向かった。

 何と声を掛けたらいいだろうか?――そう構えながら向かったのだが、その心配はまるで必要なかった。


「じゃあ、よろしく頼んだわよ」

「お任せ下さい、お気をつけて」


 俺が表へ出ると会話は終わり、議員の先生が乗り込むと車は静かに滑り出していった。


「……メアリー、誰だい?」

「えぇ、その、御近所の方よ。空き家のはずなのに人がいるようだからって……、気になったらしいの」

「そうか、そりゃ気になるよな。挨拶したかったな、俺も」


 そう答えながらも違和感を消せなかった。

 おかしい、見間違いだろうか? 

 歩いて散歩しているならともかく、不審に思ったとしてもわざわざ車を降りるか? そうも思った。

 だが、仕事のことならば俺も隠していることもある。

(殺し屋です、などと言えようか?)

 同じようにメアリーにも仕事の隠し事はあるかもしれない。

 メアリーは貴金属を扱っているし、量によっては額面も張るだろう。ましてや相手が本当に政治家の先生ならば、そういうこともあるかもしれない。売買の課税逃れ、財テク、果てはマネーロンダリング……。


 バカバカしい、キリがない、止めだ。


「早いな、よく眠れたか?」

「あなたこそ、どう?」

「ああ、早いが目覚めは悪くない、むしろ快適だ。いつもこうなら助かるんだがね」

「あたしに叩き起こされずにすむものね! 毎日こうならとても安い買い物よね!」


 何だかはぐらかされたような気がするものの、話し相手は女だ。男ならどもかく、そう神経質になることもないだろう。そう考えて気持ちを切り替えた。


 それからメアリーを誘い、二人で30分ほど朝の住宅街を散策した。早朝の住宅街は静かだったが、時折庭の番犬に吠えられる。仕方がない、まだ俺達はここでは余所者だ。じきに歓迎されるようになるかもしれない。

 エサをあげてみたら? 

 犬を飼ってみようか? 

 そんな冗談を言い合いながら歩いた。


 久しぶりに手をつないで外を歩いた気がする。

 メアリーはとても機嫌がよくて、俺にいくつか歌って聞かせてくれた。旅立ちとか、新しい暮らしとか、そんな歌詞の曲だった。

 知っている歌で、つい合わせて口ずさんでしまうと叱られた。どうやらメアリーに言わせると俺は音痴らしいのだ。

 俺はわざと歌って、メアリーに突っ込ませる。そんなことを何度か繰り返して、互いに笑いあった。


 未来の我が家に帰宅した俺達は、ゆっくりと昨日のディナーの残りで朝食をとり、綺麗に後片付けを済ませる。すっかり気に入った未来の我が家に、名残惜しさを感じながら後にした。

俺の愛車までも新しい車庫が気に入ったのか、エンジン音まで心地良く変化したような気がするほどだった。



「まずは店かな? それとも不動産屋かな?」

「お店に送ってくれるかしら? それからあたしが手付を用意していくわ」

「俺も顔を出そうか?」

「ありがとう、でも大丈夫よ。それに今度の商店会のことで、昨日伝え忘れたことがあるの。きっとあなたにはつまらない話よ」

「ん、助かるよ、ありがとう」


 そういうメアリーに任せることにして、メアリーを店のシャッターの前まで送り届けると、俺は仕事場へと車を向けたのだった。

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