忠告――FRIENDSHIP――


 月曜日の朝、俺はいつもより1時間早くブラウンの革靴に足を入れた。

 すっかり型落ちのクーペタイプの車に乗り込み、走り出す。数ブロックを過ぎたところで通勤なら右に曲がる交差点を真っ直ぐに進む。


 今日は商談の日だ。

 俺はいつも組織のボスであるマイケルと直接会っている訳ではない。

 俺には俺の表の生活があるし、組織もわざわざ関係者を積極的に世間様に公開するようなバカなことはしないのだ。何度も会うということは「組織につながりのある人物」ということの宣伝にほかならない。

 マイケルと直接会うのは正式な仕事の依頼のときだけだ。


 そのかわりにいつでも「つなぎ」がとれるよう連絡員が用意されている。

 定時連絡は月曜の出勤前、セントラルホテルでモーニングを食いながらと決まっている。

 俺はいつものホテルにつくと、定位置に車を駐車し、慣れた足取りで中へ進んでいく。



「よお、兄弟!! 気分は最高か?」


 ベージュのスリーピースにブルーのシャツをノータイで着て、隣の椅子にはやはり ベージュのボルサリーノのパナマを座らせている。

 ハットは決して預けたりせず、必ず大事に自分の隣に置く。そう言うヤツだ


 大げさに力強く差し出される右腕に、――いつになっても慣れないな――そう思いつつ、俺も右手を差し出す。上下に細かく何度も振られ、再会の儀式が終了する。

 このノリが苦手なのだが、合わせてやらないとこいつは機嫌が悪くなるのだ。

 裏の世界の付き合いとはいえ、表の世界のサラリーマン的処世術で相手に合わせることも必要ということだ。


 こいつは何も相手に媚びる訳ではない。誰だって嫌いな相手には、「言うほど重要ではないかな」という情報は伝えないものだ。そうしたわずかな情報の有無が、生き残ることができるかどうかを分ける。翻ってそれは自分のためなのだ。

 肩で風を切って堂々と周囲を威圧して歩くことが俺の命を保障するなら、喜んでそうしよう。

 けれどもそれは余計なトラブルを招くだけだ。


 俺が席につくとニックは右手を上げる。するとウェイターがワゴンを恭しく押してきて、音を立てずに食事の用意をする。ナイフやフォーク、プレート、ドリンクにデザートまで完璧に、すべて全部だ。最後にチップを渡してウェイターのルーティンワークが終わる。


 こうして誰も近くに寄らない時間と場所を確保する。ただでさえゆったりと円形のテーブルが配置された贅沢な空間だが、隣のテーブルまでもリザーブにすることで気兼ねない商談ができるようになる。


 何も依頼が無いときも決まってここの場所で情報交換はしているが、今回は明確なテーマがある。俺の引退記念ゲームだ。

 スポーツ選手の引退記念試合が優勝のかかるような重要な試合では行われないように、どうやら今回の仕事に難しいことなど何もないようだ。

 隣の部屋から仕掛けるだけのことで、俺にとっては最低レベルの難易度だろう。


 『複数の足音からターゲットの足音を聞き分けて特定し、仕掛ける』とか、『30メートル先のテーブルの交渉内容を聞き分け、その内容からやるかやらないかを判断し、仕掛ける』といった高度なことなら、入念な準備が必要だ。

 事前に接近して足音を確認するとか、交渉の内容をある程度理解し、仕掛ける合図となるワードまで決めるという細かい打合せが欠かせない。けれども今回は与えられたステージを有効に使う、それだけのことだ。


 メインの話はすぐに終わり、組織の噂話、ニックのペットや女の話、議員の贈賄と口利き疑惑……、そんな他愛のないことが話題の中心にかわる。


「なあブラッド、マジで引退するのか?」

「……俺は一介の仕事人にすぎん。名誉もなけりゃ、出世する地位もない。この経験が生きる将来も、もちろんない。結局は辞めるか失敗するかしかないのさ。塒(ねぐら)や借金で食うに困っていた時代とは、もう違う。

 続ければ続けるほど地獄に近づく。その覚悟はしているとはいえ、寿命で死んでからだって十分だろ、地獄巡りは。――そうは思わないか?」


 ゴホン!突然ニックが咳払いをする。


「どうした? 風邪か?」


ニックは窓の外を見つめて俺の問いには答えない。


「これは……、独り言だ。問いも答えもない。独り言とは一人だけでするものだ」

「……」

「このヤマは大きなヤマだ。とても、とても、とても大きい。……組織にとっても、単なる一般人にとっても、そしてお前にとっても……だ。」

「そりゃそうだろう、吹っ掛けた報酬を値切らなかったし、ましてや俺にとっては引退だからな」

「……」

 

俺はルール違反を犯したようだ。それに答えはない。


「とても大きい。文字通り大きなヤマだ。中途半端はやめるんだ。何も知らない0か、10分の10すべてを知るかだ。3を知るとか5を知るとかはあってはならない、絶対にだ」

 

 俺とニックは深く腰掛けながらも、視線をはずせずにいた。俺はテーブルの上で、右手の掌を左手の親指で何度もさすった。唾がひどく飲み込みずらく感じたが、カップにコーヒーは既に残されていない。


 俺は今回の仕事の内容を思い返す。そしてニックの言葉をリフレインしてみる。

 ――それほどまでに有名な人物がターゲットなのか? 

 ――一般人がなぜここで出てくる?


 何度もニックの言葉の意味を探すが、思い当たらない。

 わかったことは俺が答えを持っていないことだけだった。それだけは確実に間違いない。

 ということは、余計な詮索をするな――そういう意味なのだろう。


「長年の友情と忠告に感謝するよ。ニック、ありがとう」


 俺がそう伝えると、ニックは目を眇め(すがめ)てから、テーブルのカップに視線をうつし、小さな頷きを何度も繰り返したのだった。

 そして俺とニックは再び握手をして別れ、それぞれの人生に帰っていった。

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