夕凪――EVENING CALM――


 ザーッと流れる水の音と、キュッキュッとスポンジのこすれる音が小気味よく響いていた。テンポよく白い皿がピカピカに洗われて、水切りカゴに整然と並べられていく。口元がかすかに動き、彼女は小さく歌を口ずさんでいた。

 前髪をカチューシャで留め、グレーの部屋着の袖をまくり、歌に合わせて白い足首がリズムをとっている。


「メアリー、来月の10日なんだが……仕事の都合で遅くなるよ。泊まるつもりはないが、明け方近くにになるかもしれない」

「あら大変ね。こっちじゃないの?」


そう言ってメアリーはグラスを呷る真似をしてウィンクを投げてくる。


「ハハハッ、違うよ。新しいパソコンのアプリケーションなんだが、終業後でないとできない業務があるんだよ。難しいことはないが使用中にはできないし、やってみないと分からないこともあるからね」

「わかってるわよ、ブラッドはアルコールを飲まないものね。えーと10日、10日、あらヤダ! この日はあたしも仕入れで出張よ」

「じゃあ、ちょうど良かったよ。あとで『遅い』『浮気だ』なんて吊し上げを喰らわずに済むな」

「まぁ! ちょっとひどいんじゃない。寛大なこのメアリー様が、いつ小言を言ったのかしら?」


 カレンダーを見ていたメアリーがくるりとこちらに向き直る。腰に手を当てて仁王立ち、しかし首を傾けて笑顔で俺にクレームを付けた。


「おお、神様仏様メアリー様、どうかその寛大さで御容赦ください。……冗談じゃないか、愛してるよメアリー」


 そう言っておどけながら立ち上がって近づくと、とメアリーの腰に手を回しキスをしようとする。


「もう!」


 メアリーが一度嫌がるそぶりをして、それから二人はキスをした。


 メアリーは小さなアクセサリーショップのオーナーだ。小さいながらにきちんとした常連がついて、店は上手くいっている。オーナーの趣味が全開の、メアリーのセンスで成り立つ店だ。

 メアリー自身の自作のものはもちろん、外部からの仕入れもメアリーが買い付けていて、統一されたエレガントさが特色の人気の店らしい。

 昼の仕事の合間に俺が店に顔を出そうとしたとき、意外な客がいて驚いた覚えがある。

 テレビで見た政治家に有名女性起業家が揃って来店中だったのだ。

 もちろん俺は中の様子を伺って、邪魔をしないようにクルッと回れ右をしたのだが。


 メアリーは事業で得た利益のかなりの部分を、孤児を支援する活動につぎ込んでいる。

 メアリー自身の出自も俺と同じで孤児院だから、その活動は理解できた。俺達には子供もいないし、愛情を振り分ける相手も必要だろう。俺自身が積極的に関わることはないが、逆にそれが上手く二人の関係を調節する役割を果たしているように思う。

 おそらくその意外な客たちも、こうした慈善活動の中で生まれた付き合いなのかもしれない。


 いずれにせよメアリーが出張なら、俺は気兼ねなく夜の仕事に集中できる。

 今度の仕事さえ上手く終わらせてしまえば、二度と危ない橋を渡る必要もない。

 メアリーと二人、気楽な人生を送れるはずだ。


「なあメアリー」

「何?」

「このあいだ言ってたやつなんだが……」

「何のことかしら? ああ、夏休みを取って旅行する話ね」

「そうじゃない。そうじゃなくて旅行のかわりに……」

「どしたの? 奥歯に物が挟まったような言い方するわね? 何かやっちゃったわけ?」

「……コホン、旅行のかわりに、家の下見に行こうと思うんだが」


 ただでさえ大きめな瞳をいつもの倍くらいに開いて、固まっている。


「ホン……ト…に?」

「ああ、決めたよ。君の気持ちが変わっていなければ……」

「変わっているなんてはずがないでしょ、あぁもう、なんて言っていいのかわからない!! とにかく最高ね」

「喜んでくれて良かったよ。散々渋って待たせたからね」


 メアリーは口元を手で覆い、目をギュッと閉じた。目尻が光を受け、輝いていた。


「泣かなくていいだろ?」

「いいの、いいから、ちょっと泣かせて」


 しばらくして俺の胸元から顔を上げると、メアリーは恥ずかしさからか、俺に憎まれ口を言った。


「なんでこんなことを普通の何でもない夕食の後に言うの? 外でのディナーとか特別な日にすればいいのに……バカね」

「ゴメン、気が利かなかったかな? ゴメン」

 

 なぜかこの後も繰り返し謝り続ける俺だった。




 俺の人生はずっと仮住まいだった。

 物心ついた頃には10数人のガキどもと数人のシスターに囲まれる孤児院にいた。

孤児院を出た後も住み込みで働いたり、そこを辞めた後も仲間の部屋を転々としたり……。そんなことの繰り返しだ。

 メアリーとばったりと再会し付き合いだしてからも、数年はメアリーの部屋に泊まることを避け続けた。

 ずっと帰るべきところを持たずに育った俺だから、帰る場所をつくることが怖かったのだ。居場所がないことが俺の人生だったから。


 メアリーも似たような環境ではあったが、その経験から導かれた結論は俺とは逆だった。メアリーは籍を入れたがったし、子供も欲しがった。ずっと子供を拒んできた俺だったが、ここ数年はメアリーの希望を叶えようとした。けれども俺達には、子供は縁のないもののようだった。(そりゃそうだろう、俺のような裏稼業で殺しをやる人間に恵まれるべきではない。だが、メアリーには資格があると思うが……)

「あたしはダメみたいね」

 そう言って諦めるメアリーは気丈に振る舞っていたが、かえって痛々しかった。


 彼女が慈善活動に進んでいったのもこの頃からだった。かつて育った孤児院に、支援者として立場を変えて顔を出すようになったのだ。

 ここでも俺は彼女と逆だった。

 ほとんどの時間をまっとうに生きているものの、残りのわずかな時間を立派な小悪党として生きる俺だ。パッと見でわからないとはいえども、図々しくも嘘で塗り固めた仮面をつけて顔を出せるほど、俺は厚かましくはない。


 俺も年を取ったのだろう。俺くらいの年ならばハイスクールのガキがいてもおかしくない年だ。いまさら理想の家庭や人生がどうのこうのと言う気はない。けれども若い頃の鋭さとか、強い気持ちを持ち続けるということは、確実に難しくなってきている。もちろんメアリーとずっと付き合っていることの影響もあるだろう。彼女の愛情や傷つきは、いちばん近くにいる俺に伝わっている。

 いや、……まどろっこしく、みじめで言い訳がましいな。

 ハッキリと言ってしまえばこの俺は、既にメアリーを家族として完全に受け入れてしまっているのだ。一線を引いて付き合うような冷たさ、厳しさを、俺はメアリーとの間に持つことができなくなっている。

 殺し屋という悪党でありながら、何も告げずにメアリーのもとを去ることなどできないし、突然メアリーがいなくなることも受け入れられそうにない。


 失うかもしれないものを持ちたくなかった俺は、数年経った今、メアリーというアキレス腱を手に入れてしまった。

 一方で支えになるものを持ちたかったメアリーには、子供という支えは願っても得られなかった。


 ならば俺が引退し、ささやかなマイホームと共にメアリーのデカいガキになることは合理的だろう? 

 メアリーが拒絶したりしないかぎり……。

 幸いにもここまで、メアリーは呆れて俺を見放すことはないようだから。

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