13 夜
「孤独に光る赤いあの星は蠍座で、同じ向きに進み続ける光の群れは流星群。
ここでなら数え切れない星々の明滅もゆっくりと見えて、さらにその下には人々の営みがあり、僕達はそれを見下ろすほど高い位置にいるんだ」
「素敵だね、まるで神様になったみたいだね」
どこかの高層レストランで食事していた私は、同席している男が話すつまらない自慢話よりも、テーブルの二つ先にいる幼い兄妹と思われる二人が向かい合って会話をする、その内容のほうが気になっていた。見た目にふさわしいとは言えない大人びた言葉遣いと落ち着きを持った二人は、ガラス張りの店内から外を眺め、夜景を星に見立てて話している。
どちらもまるで演劇の衣装のように誇張された、あるいは可愛らしい紺のスーツと薄いグリーンのドレスを着ていた。男の子の首元には蝶ネクタイ、女の子の背には大きなリボンが付いている。テーブルにはさくらんぼの乗ったメロンソーダフロートが二つ。あんなもの、メニューにあっただろうか。
「……で、……日までその展示があるらしいんだけど、まあ面白いと思うし今度一緒に観に行かない?こういうの好きなんでしょ、君?」
「え?うん、いいかも知れないね……」
男の大きい、無遠慮な声が耳へ途切れ途切れに入ってきて、私は曖昧に返事をし、目の前に置かれたチケットを見た。そこにはあまり気乗りしないテーマを扱った芸術作品の展示について書かれていて、見た瞬間、どう言い訳をして断ろうかと悩ましく思った。前に会った時、美術館に行くのが好きだと私が言ったから持ってきてくれたのだろうが、どうにもこの男とは趣味が合わない。服も好きな食べ物も、惹かれる話題も、常に上から目線で、ナルシスト気質なところも。
友人の強引な紹介で会っていたが、もうやめたほうがお互いの為だろう。申し訳ない気もするので、この高級ディナーのお代は私が全額支払ってもいい。それをしても困らないほどの蓄えが、私にはある。恐らくは彼よりも。
私はまた視線を兄妹へ移し、男の声が遠ざかる。
水を注ぎに回るウェイターが、二人の席を素通りする。彼らのテーブルにはそもそも、客全員に与えられるはずの、水入りのコップが置かれてはいなかった。気のせいだろうか、他の客も二人を見ない。私以外には。
お父さんやお母さんはどこ。と、私は声を掛けそうになる。時間はもう夜の十時を回ろうとしているのにそれらしい人物は傍にいないし、ここは子供連れで来るような場所ではないのに。
二人はテーブルから身を乗り出し、内緒話をするように顔を寄せ、静かに囁き合っていた。全く手をつけられていないメロンソーダフロートに、彼らの口元が隠されている。
「ここから外に出て、星の海を泳いでみようか。きっと楽しいね」
「うん。飛ぼう飛ぼう。夜の風に乗って」
「駄目だよ!」
その会話を聞き、私は思わず声を荒げて立ち上がる。すると絶えず話し続けていたナルシスト気質の男も、その他の客も静まり返って私を見た。
人間が飛べる筈がない。ここは地上六十階建ての最上階。落ちればひとたまりもない。二人を止めなければと思った。
厳重に警備されているこの高層ビルから、子供が簡単に外に出られる筈もないのに。私の頭の中に今、その考えはなかった。
私の声が届いていないのか、兄妹は席を立って手を繋ぎ、笑いながら出口へ駆けてゆく。やがて店内に置かれたグランドピアノの陰に二人の姿が見えなくなり、私は急いで後を追う。男が私を引き止める声がしたがよく聞こえなかった。
子供達がの笑い声を追いかけ、廊下に出る。誰もいない。
前方にある非常階段のドアからからまた兄妹の声が聞こえた気がして、私はドア前まで走った。
けれどそこにも彼らはおらず、妹の背についていたリボンであろうものが、ドアの前で、羽のようにふわふわと空中に浮かんでいるだけだった。私の早い息遣い以外には静寂。
「いきなりどうしたんだよ……」
後から追いかけてきたのだろう、私と同席していた男が心配そうに私の背に声をかけてきた。私は彼を振り返り、またリボンへ目を戻す。リボンを見た筈だった。けれど目の前にあるのは、不規則に明滅する、非常口の誘導灯が放つ緑だった。
なぜ、と思いドアを開ける。そこには誰もおらず、声はおろか、何の気配さえなかった。私はその場に立ち尽くす。
「おいーーー」
また声をかけてきた男に、私は問いかける。
「……店の中に子供が、いなかった?可愛い服を着た、男の子と女の子」
男は思い出すように少しの間黙ったが、やがて明確な答えを返した。
「子供なんてどこにもいないよ」
私はうなだれながら、男と共に店内へ戻る。先程の出来事が尾を引いて、他の客らの視線が痛い。
最近よく眠れなくて、疲れているのかも知れない。それで、人と違うものが見えたような気がしただけ。
家に帰ったら、毎晩飲んでいる睡眠薬の量を増やしてみよう。それで深く眠れる筈だから。
兄妹達がいたテーブルには今は誰もおらず、飲み物もない。始めからなかったかのように。
ただ白いテーブルクロスに黒い蝶の刺繍が一つだけあり、それが、兄の座っていた側に縫いとめられているだけだった。
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