年代モノの梅酒の梅は月夜の晩に梅ゼリーになる夢を見るのだろうか?

ヨーグルトマニア

第一話 

これは梅の木が梅の実をつける頃のお話し。

小樽では7月に入ってすぐのことでした。


「ジャムやゼリーやシャーベットを作りたいの」


楽しそうに居間に飛び込んで来た孫娘の夏音かのんがおねだりします。


夏凛かりんさん、作り方を教えてくれる?」


広大な音羽おとわ家の庭には、高さ10メートルにもなろうかという

梅の木があります。4月の終わりにみごとな紅梅を咲かせてくれたこの木が、

今度は大きな梅の実をたくさんつけてくれました。


「それはいいけど、梅の実が枝から落ちる前に収穫できる?」


小樽市立芸術高校クラシックバレエ科1年でバレエを習っている夏音は、

まるでボールが弾むような勢いで洗面所からバケツと洗濯ロープを引っ掴むと

今度は庭に向かいながら答えます。


「そんなの簡単よ」


小さい頃から活発で、兄や弟よりもやんちゃな夏音。

どんなふうに梅の実を取ろうとするのか心配だわ。

私も後ろからついて行くことにしましょう。


それにしても今日は何ていいお天気なのかしら。

まるで世界の隅々まで晴れ渡っているのではないかと思えるような青空だわ。


はるかちゃん、柚葉ゆずはちゃん。梅の実取るの

 手伝って」


あっという間に主屋おもやから30メートルほどの距離にある、

六角屋根ろっかくやね」と呼ばれるはなれまで

走って行った夏音が、兄の遙と弟の柚葉を駆り出そうとしています。


「脚立を持って行けばいいのか?」


夏音と同じ高校のヴァイオリン科2年に通う遙がヴァイオリンの

練習をやめて六角屋根から出て来ます。なんて大きくなったのかしら。

もう一人前の殿方ね。ほんとうに立派な青年に育ってくれたわ。


「違う。私が梅の木に登って梅の実を入れたバケツを

 ロープで吊るして降ろすから、下で受け取ってくれればいいわ」


それを聞いていた夏音の弟の柚葉が楽しそうに梅の木まで走って

行きます。この子はまだ小学4年生だけど歌がとても上手くて、

夏音や遙かと同じ学校の小学部でボーイソプラノを習っている

私の一番小さな孫。


「了解!バケツが降りて来たら受け取るよ」


そう言った柚葉が、ゆっくりと歩いて梅の木にたどり着いた私に

気づきます。


「夏凛さん。僕もう少しでケルナーの『問い』がドイツ語で唄える

 ようになるからね」


「私の大好きなシューマンの歌曲ね。とても楽しみだわ」


「夏音。そんなに高いところまで登って大丈夫か?」


ふと気づくと遙が大声を出しています。あわてて上を見上げると

「大丈夫」という夏音の声が7メートルは頭上にある枝から聞こえて

きます。ほんの少し柚葉と話しをしていただけなのに、もうあんな

所まで登ってしまって!


「ああ、夏音ちゃん。お願いだから気をつけてちょうだい」


「大丈夫---!」


音羽家の庭で暮らすたくさんの野鳥の声にまじって聞こえてくる

夏音の声は、7月の日曜の午後に舞い降りた不思議な鳥の鳴き声の

ように、頭上の枝から降ってきました。



          🌳🌳🌳🌳🌳🌳🌳🌳🌳🌳



夏音が収穫してくれたたくさんの梅をどうやって使おうかと

迷っていると、学校から帰った夏音が可愛らしいエプロンをして

キッチンに現れました。それではまず青い梅と完熟した梅の実でも

分けてもらうことにしましょうか。


「よく熟れたものはジャムとシャーベットにするわね」


「梅ゼリーはどれで作るの?」


「ちょっと待ってて。今持って来るわ」


「持って来る?」


私はキッチンの隣のパントリーから大きな瓶を取って来ました。


「これ梅酒?」


「そうよ。これは10年前に漬けておいたもの。夏音ちゃんがまだ

 幼稚園の時ね」


「私がバレエを習い始めた頃だわ」


「そう、あの頃だったわね。あの時も庭の梅の木が今年のように

 立派な実をたくさんつけてくれたのよ」


「え?それだと今年はうちの梅が10年ぶりに実をつけた

 ってこと?」


「そうね」


「10年ぶり」


夏音が考え深げに窓の外にある梅の木に視線を送ります。


10年。この子の10年はまるで永遠と同じ意味でしょう。

私の10年とはまるで違うわ。そう思うと何だかおかしくて

私は思わず笑みをもらしていたのね。それを目ざとく見つけた

夏音がやはり微笑みます。


「あの梅はいままでずっと10年おきに実をつけてきたの?」


「ええ、あの木はなぜかそうなのよ。梅ゼリーはこの梅酒の実を

 使いましょう。そのほうが風味があって美味しいから」


「うん。そうなのね」


竹串でジャムにする梅の実のヘタを取ったら、グラニュー糖と一緒に

アクをすくいながらお鍋でぐつぐつ煮詰めていくわ。

シャーベットにするものは容器に移して氷水で粗熱を取ってから

早めに冷凍室に入れておきましょう。

下ごしらえして軽く水に漬けておいたゼリー用の梅はもういいかしら。


「いいみたいね。水とグラニュー糖で軽く煮ましょう」


さっと煮詰めたあとに少し冷ましてからゼラチンを溶かして、

これも氷水で粗熱を取っておくわ。冷めたら適当なグラスに注いで、と。


「夏音ちゃん、どのグラスがいい?好きなの選んでちょうだい」


「これがいいわ。すごく綺麗だもの」


夏音が戸棚の奥から取り出したのは切子細工のグラスでした。


「これは年代物だわね。この切子細工のグラスは私と同い年なのよ。

 私が生まれた時のお祝いに大伯母さまから頂いたものですもの」 


「夏凛さんが生まれたときの贈り物?」


「古くて驚くでしょう?」


「そんなことないわ。だってこの間、友だちが遊びに来てたでしょう?

 絵麻ちゃんと玲ちゃんていう」


「あの可愛らしいお嬢さんたちね」


「夏凛さんのことパパかママのお姉さん?って聞いてきたもの。

 私のお婆さんだって言ったらとっても驚いてたわ。とてもそうは

 見えないって」


「兄弟ですって。ふふふふ、そんなバカな」


意外な言葉に照れてしまった私は、何とか誤魔化ごまかそうと笑います。


「だってね、絵麻ちゃんのお婆さんも夏凛さんと同じ66歳なんですって。

 全然同じ年齢としに見えないって言ってたよ」


「まぁ、そんなことも無いでしょうけど、とても気を使ってくれたのね。

 今度来てくれた時には二人にお寿司でもご馳走しないとね」


「やった!明日にでも呼んでくるわ」


ちゃっかりとこんなことを言う夏音に、私はむせるほど笑ってしまいます。


「さあ、ゼリーをグラスに入れてからジャムと一緒に冷蔵室に

 入れておきましょう」


「夏凛さん、あとは何をすればいいの?」


「そうね、残りの梅で梅酒を作りましょう。手伝ってくれる?」


「もちろんよ」


大瓶に梅とグラニュー糖を交互に入れてからお酒を注いで。

どれもがとても懐かしい10年ぶりの作業。それをこんなに大きくなった

孫娘と一緒に出来るなんて。何くれとないたわいも無い話しをしながら。


ほんとに私は何て幸せなのかしら。そう、とても幸せ……


「幸せなはず」


「夏凛さん?」


ああ。


「ああ、何でも無いのよ。さあ梅酒もこれでいいわ。ゼリーとジャムは

 夕食のあとにどうなっているかまた見てみましょう」


「楽しみだわ。遙ちゃんや柚葉ちゃんは喜んでくれるかしら」


「きっと喜ぶわよ」


この子は何てやさしい子なんでしょう。いつも自分以外の誰かのことを

考えて、その幸せを思い浮かべながら楽しそうにする。


それにくらべてこの私は今までどうやって生きてきたかしら。

誰かの不幸の上に自分の幸せを築いて来たりはしなかったかしら。


ああ、なぜこんなことを考えるのかしら?

そして、どうしてなのかはっきりと思い出せない。




          🌳🌳🌳🌳🌳🌳🌳🌳🌳🌳




「この梅の木は月の光をたっぷり浴びるとたくさんの実をつける」


こんな不思議なことを言ったのは誰だったのか。

夏音が梅の実を収穫したあの日から、10年ぶりの梅の実が

私に色々なことを思い出させる。特にこんな月夜の晩は。


「夏凛さん。パパと一緒に作ったシフォンケーキ美味しくない?」


夕食後に食卓でぼんやりしている私を気使って、やさしい夏音が

声をかけてくれる。


「とても美味しいわよ。すごくふわふわでしっとりと焼けているわね」


「このケーキはね、もともと僕が子供の時にお母さんから教わったものだよ」


と息子の悠里がエプロンをつけたままでケーキにかじりついています。

ほんとにこれで小樽市立大学文化人類学部の教授なのかしら。

微笑ましいことこの上ないわね。


「生クリームには梅ジャムを添えてみたのよ」


「ゼリーもシャーベットも美味しかったけれど、とくに

 今年のジャムはとてもよく出来ていますね」


夏音たちの母親で悠里の嫁の莉里子りりこさんが褒めてくれる。

ほんとに今年のジャムは上出来だわ。あら?ちょっと待って。


「今年のジャムはよく出来ている」


これは私の母が梅のジャムを作るたびに必ず言っていた言葉。

そう思い出した途端に私の記憶があっという間に50年前に

飛んでゆくわ。ちょうど今夜みたいに家族が食卓に集まっている。

お父さまとお母さまとお婆さま、そして夏音と同じ年齢だった

私。今夜と同じようにみんな楽しそうに笑っている。


でも何かが足らない。いえ、誰かが居ないのよ。いったい誰が?


「もっとちょうだい-ー!」


柚葉の声が目の前に広がった思い出をかき消します。


「もう生クリームが無いのよ。ケーキとジャムだけでいい?遙ちゃんは?」


と、面倒見のいい夏音がすぐに立ち上がります。


「僕はもうたくさん」


「私はもう一切れもらおうかしら」


そう言ったのは莉里子さん。よく食べるわね。

とても豪快なお嫁さんだこと。それなのにあんなに痩せていて。

この人も民俗学部の教授にはとても見えない。

微笑ましいことこの上ないわ。お似合いの夫婦だこと。


柚葉があっというまにシフォンケーキを食べ終えて、グラス一杯の

牛乳を飲み干して一息ついています。


「柚葉ちゃん」


「なに?」


「ケルナーの『問い』はもうドイツ語で歌えるようになったかしら?」


「うん」


そう答えるなり子供らしい唐突さで柚葉が歌い出します。

私の大好きなシューマンの歌曲を。



Wärst du nicht ,             もしお前がいなければ

heilger Abendschein!          荘厳なる夕焼けよ  

Wärst du nicht,             もしお前がいなければ 

Sternerhellte Nacht!           満天に星の輝く夜空よ


Du Blütenschmuck!            美しい花よ

Du üpp'ger Haein!            緑燃える森よ

Und du,Gebirg,             そして 太陽の光受け

voll ernster Pracht!            雄雄しくそびえ立つ山脈よ


Du Vogelsang              天高くから降りそそぐ

aus Himmel hoch!            鳥の歌声よ

Du Lied aus voller            人の心より溢れ出る

Menschenbrust!             素晴らしき歌の数々よ


Wärst du nihct,ach,            ああ、もしお前たちがいなければ

was fühllte noch             厭わしいことのみ多いこの日々に

In alger Zeit ein Herz mit Lust?      誰が希望を与えてくれると言うのだ?


             (J.ケルナーの詩"Frage"より 

              *日本語訳 ヨーグルトマニア)  



        

明るい月の晩にこんな素晴らしい歌を聞いてしまったからかしら。

私はその夜とても不思議な夢を見た。


たぶん私がいるのは天国の門の前にある裁きの広場。


「あなたの罪状を申し上げましょう」


ラッパを吹いた大天使ミカエルが朗々と発表します。


「あなたの罪は、あなたに向けられた数々の

 好意や愛を当然のものとして考え、まったく感謝しなかったこと。

 同じくあなたに与えられた数々の幸運にもまったく感謝

 しなかったこと。また怒りの感情に怒りの感情を突きつけたこと」

 

広場の群衆がざわめきます。


「さらにその罪状は、自分の幸せに気がつかず自分を不幸だと考えたこと。

 深いえにしの糸を粗末にしボロボロのもつれた糸にしてしまったこと。

 一日一日を大切にせず無駄に過ごしてしまったこと」


ざわめきが大きくなります。


「さらに大きな罪は、あなたがあなたの人生を

 有意義なものにしなかったこと!」


大きなどよめきの中に「地獄行きだ!」という声が起こります。


「そして何よりも大きな罪は!」


群衆の怒りの声が大きくなってゆき大天使ミカエルの声が

かき消されそうです。


「あなたの一番の大きな罪は、その大きな罪を自らの口から言わないことだ!」


群衆からは「卑怯者!」「なぜ言わない?」という声が起こります。

ついに大天使ミカエルが朗々と判決を発表します。


「よってあなたはこの天国の門をくぐることが出来ない!

 永遠に地獄の猛火に焼かれるがよい!」


この後もミカエルと群衆が非難し続ける声が響きます。


「その罪をなぜ言わない?」


「なぜ自らの口でその罪を言わないのだ?」


「なぜ言わない?」


「なぜ?」


「なぜだ!?」


ここで私は悪夢を見た人がよくするように、汗をかいて呼吸を荒くしながら

目を開けました。


窓からは恐ろしいほど明るい月の光が差し込んで、反対側の壁を照らしています。そこには庭の梅の木の影もしっかりと映り込んでいました。

風が吹いているのでしょう。影になった木の枝が小刻みに揺れています。


「私の罪は、私が犯した大きな罪は」


私は目覚めたことに半ば気づかず、必死でミカエルと群衆の「問い」に

答えようとします。


「私が犯した大きな罪は」


そこで私はハッキリと目を覚ましました。

私のまわりの現実が私の心をしっかりと捉えてくれたのです。


ああ、なんていう夢を見てしまったのかしら。

この恐ろしい夢がまるで今でも体の周りにまとわりついているようだわ。


私もこんな夢を見て怯えるような歳になってしまったということなのかしら。



          🌳🌳🌳🌳🌳🌳🌳🌳🌳🌳



夏音たちが夏休みに入った今でも、ミカエルの裁きの夢は私の周りに

まとわりついていた。


梅の木の近くにあるこの古ぼけたあずま屋で夕涼みをしながら目を瞑ると、

ミカエルの言った私の一番大きな罪を思い出せそうな気がするのに。

もう少しというところで何かが心をおおい尽くして、その記憶を

どこかに閉じ込めてしまうの。


「ここは家の中にいるよりもずっと涼しいわね、夏凛さん」


夏音がバレエのレッスンを終えたらしく、このあずま屋に来てくれました。


「そうなのよ。ここは私のお気に入りの場所でね、小さい頃は毎日のように

 ここで遊んでいたものよ」


ちょうどその瞬間とき、涼しい風が吹いてきて梅の枝をざわざわと

らしました。


この風はまるで子供の時にも吹いて来てくれたようななつかしい風だわ。


そう思った瞬間、私の記憶は遠い過去に飛ばされてゆきました。

60年も前の遠い過去にとてもやさしく。


6歳。私は6歳になったばかりだった。


あの日もいつものようにこのあずま屋で遊んでいたわ。すると……


「君の望みをかなえてあげよう」


誰かが話しかけてきたの。お父さまでも庭師でもない、

とても若くて綺麗な男の人。


私は見とれたわ。その長い銀色の髪に。美しい顔に。しなやかな長身に。

幾重いくえにも重なるようにデザインされた光沢のある不思議な衣服に。


「君の望みをかなえてあげるかわりに、君は僕の欲しいものを

 僕にくれるかい?」


その綺麗な男の人はそう言ったの。私は聞いたわ、何が欲しいの?と。


「……」


もう少しでその言葉が私に届くわ。いったい何と言っているの?

もう少しでわかる……もう少し。


「ご飯だから呼んで来いって!」


ヒグラシの鳴き声とともに聞こえた柚葉の声で、私の心は一瞬で

この時間に戻って来てしまった。


「もう夕食なのね。まだ空が暗いわけでも無いのに月があんなに

 明るく見えるわ。さあ夏凛さん、行きましょう」


ええ、そうね。


「夏凛さん?」


私はいつでもわずかな不安を持っていたの。

私の人生がこんなにも幸せでいいのかどうかと。


今まではこの不安の正体がまったくわからなかった。


でも今は、その正体が子供の頃のこの記憶にかかわっているということが

心の中ではっきりとわかった。


そしてあの男の人がつぶやいた言葉を思い出したその瞬間ときに、

この漠然とした不安がどうしようもない恐怖に変わるのだということも。



          🌳🌳🌳🌳🌳🌳🌳🌳🌳🌳



8月も近くなった7月の終わり。

夏音がこんなことを言い出したわ。


「毎月最後の日曜に、千秋せんしゅう公園でフリマがあるでしょ?

 私も参加してみようと思うので、もし夏凛さんが出してもいいものあったら

 協力してもらえないかしら?」


「それはもちろんいいけど。なあに?お小遣い稼ぎ?」


フリーマーケットに参加ですって。この子の行動力には驚いてしまうわ。


「うん。あのね、このブレスのお金を払いたいの」


そう言って夏音が見せたのは黒曜石こくようせき柘榴石ざくろいしでデザインされた

とても綺麗なブレスレットでした。


「まぁ、綺麗なブレスレットね。これの代金を払うですって?」


「そうなの。いろいろわけがあって支払いを待ってもらってるのよ。

 これはとても高価なものだけれど、私どうしても欲しかったの」

(*「少女たちが考えるプラトニック至上主義の市場価値と経済効果」参照で

  お願いします)


このくらいの女の子がお洒落に熱心なのはわかるけど、支払いを待ってもらって

るっていったいどういう事情なのかしら。夏音は本当に面白い子ね。

でもこの子は絶対に間違ったことをしないから安心だわ。


それでは売り物になりそうなものがあるかどうか探してみましょうか。


「夏音ちゃんも手伝ってくれる?」


「もちろんよ」


クロゼットの奥の奥の方。

奥になればなるほど思い出の多い古い品物ということになるから、

より分けるのも大変だわ。この日傘はもう要らないかしら。それから、

このバッグや靴やワンピースも夏音に預けてしまいましょう。


あとは本なんてどうかしら?


「書庫には要らない本がたくさんあるはずだから行ってみましょう」


「了解!パパやママに聞かなくても大丈夫?」


「そうね。今日は私の本がある書棚だけにしておきましょう」


夏音と二人で書庫に行って私の本棚の本を整理しだすと、

ああ、やっぱりこんなに読まない本があるわ。これも、これも、

夏音に預けてしまって、と。


「夏音ちゃん。本は重いからそんなにたくさん一度に持つのは無理よ」


「大丈夫ーー」


そう言うなり夏音はもう六角屋根に本を運んで行くために玄関から庭に

飛び出して行くわ。ほんとになんて快活で活発な孫かしら。ふふふふ。


笑いながら手に取った幼い頃に好きだった「灰かぶり姫」の絵本を

懐かしくめくっていると、最後のページの奥付けに描かれたクレヨンの

いたずら書きが目に飛び込んできました。


それは長い髪の毛を銀色のクレヨンで描かれた男の人の絵。私はハッとして

その絵を凝視しました。これは私の幼い頃の記憶の底に沈んでいる

恐怖の正体。あの美しい男の人。


「アダム?」


その絵の横には覚えたてのカタカナでアダムという文字が書かれていました。

そうだわ、この男の人の名前はアダムというのだった。


だんだんよみがえる私の記憶。


その記憶のドアにあるいくつかの鍵穴の二つ目の鍵を、

私は見つけてしまったのかもしれない。



          🌳🌳🌳🌳🌳🌳🌳🌳🌳🌳



8月に入ったある日、私は大伯母の一凛いちりんさんの家を訪問した。

この家に来たのは久しぶりだけど、いつ来ても綺麗に片付いていてとても

居心地がいいわ。


「それでね、今度そのフリーマーケットに夏音がお店を出すのよ」


「そうかい。女の子がそんなことして大丈夫かね?」


相変わらず心配性な一凛大伯母さま。


「遙ちゃんも柚葉ちゃんも一緒みたいだからもちろん大丈夫よ」


「そうかい。だけど一応おとなのあんたがついていてあげなさい」


「わかりました。そうしましょう」


「お前は音羽家の本家筋のたった一人の跡継ぎ娘だからね。ほんとにしっかりして

 家を守っていかなければいけないよ」


言われ続けたいつもの言葉。はいはい、ちゃんとそのつもりですよ。


「ほんとにねぇ、本来ならば本家にはもう一人立派な娘がいたのにねぇ」


ふふふ、いったい何を言っているのかしら?


私は生まれたときからの一人っ子よ。90歳をとうに超えた大伯母は

いろんな記憶が入り混じって、ありもしないこんなことを言うように

なってしまったのね。


「大伯母さま。足の具合はどうかしら?」


「この頃は2階に行くのも億劫おっくうでね。家の中の掃除は

 ヘルパーさんに任せっぱなしだよ。料理も作ってもらう始末さ」


「今年はうちの梅の木がたくさん実をつけたんですよ。ジャムを作りましたから

 おすそ分けに今日お持ちしましたよ。よかったら召し上がってください」


「弟のあんたの父親もこれが好きだったね。たったの85歳で死んでしまって。

 なんて早死になんだろうねぇ。あんたの母親に至ってはたったの70歳だった」


「そうねぇ。母はほんとに早すぎたわ」


「あんたの母親はそれは綺麗な人だったけど泣き虫でね。いつもピーピー

 泣いてたね。女はね、旦那さまの女遊びくらいで泣くもんじゃありませんよ。

 ほんとにあれは世間体の悪いことだったね」


また大伯母さまはありもしないことを。私の父親は子煩悩で母思いの

やさしい人だったわ。母を泣かせたことなんてただの一度も無かった。

私はこの上なく幸せな家庭で育った恵まれた人間よ。


話しを変えてしまいましょう。


「このマドレーヌはいつものようにオレンジママレードを入れて

 焼いたのですか?」


それは紅茶に添えてあったマドレーヌ。


「ああ、そうさ。足の調子のいいときに焼いたものだよ」


「懐かしいわ」


懐かしいオレンジの香りのマドレーヌ。これは子供の頃から大伯母が

家に来るたびに手土産として持ってきてくれた私の大好きな焼き菓子。


そのせいかしら。そのオレンジの香りを嗅いだ瞬間、私の脳裏には

キッチンの隅で小さな肩を震わせながら泣き崩れる母の後ろ姿が浮かんできた。


何なのかしら、この思い出は。


これはまさか私の心の中に沈む、恐ろしい記憶のドアを開ける

三つ目の鍵なのかしら?



          🌳🌳🌳🌳🌳🌳🌳🌳🌳🌳



「お母さま、何で泣いているの?」


誰よりも美しくやさしい母が毎日のように肩を震わせて泣いている。

そんな母を見るお婆さまの目は冷たく「何て辛気臭い嫁なのだろう」

と眉をしかめてののしる。6歳になったばかりの私の日常はそんなシーンの

繰り返しだった。


家の中は辛すぎる。あずま屋に行ってしまおう。あの梅の木のそばに。


今年の梅の木の周りには薄桃色やだいだいの可愛らしい実がたくさん落ちているわ。よく見ると枝にも緑色の実がたくさんっている。


落ちた梅の実をおままごとセットのお皿に乗せて遊んでいると

綺麗な声が響いてきました。


「この梅の木は月の光をたっぷり浴びるとたくさんの実をつける」


声の方に振り向くとそこには……


「すごい風だわ。雨もひどくて。8月には珍しいわね」


六角屋根から主屋に戻ってきた夏音が悲鳴をあげるように

話しかけてきました。


たしかに窓に吹きつける雨の音はすさまじく、恐ろしいほどでした。

私ったらまったく気がつかないなんて。


「今週の日曜日がフリマなのに大丈夫かしら?あとたった3日しか無いのに」


「そうねえ。きっと大丈夫よ」


「そうだといいな。まだお昼前なのにこんなに暗いわ。夏凛さん、電気つける?」


「ありがとう。このままで大丈夫よ」


私のようすを気にするように振り向きながら居間から出ていく夏音。

それでもフリーマーケットの準備に忙しいようで長居は出来ないみたいね。


窓に吹きつける大雨の音がまた遠ざかる。


「あなたはだあれ?」


そこにはふたたび6歳の私がいた。


「君は僕のことをよく知っているよ」


そこに立っていたのは長身の美しい青年でした。


「生まれるずっと前からね」


おままごとのお皿から梅の実が地面に転がる小さな音が聞こえます。


「それでも忘れてしまったと言うなら教えよう。僕の名前はアダム。

 この世界では悪魔と呼ばれる存在さ」


悪魔ですって?おとぎ話や聖書に出てくるあの悪魔?まるで天使のように

見えるけど。


私はアダムに見とれました。なんて綺麗な男の人なのでしょう。

光の中に溶け込むような銀色の長い髪にしなやかな長身。空気のように

軽そうな光沢のある布で幾重いくえにも重なるようにデザインされた衣装。


「君の望みを叶えてあげよう」


私の望み?私の望みは何かしら?

叶えてほしいことは数限り無くあるけれど、特にその中でも特別の望みって。


その時、あずま屋の椅子の上に家の中から持ってきた「灰かぶり姫」の

絵本が置いてあることに気がつきました。


そうだわ。


「おとぎ話みたいに幸せな一生を過ごしたい」


「その君の望みを叶えてあげるかわりに、君は僕の欲しいものを

 僕にくれるかい?」


その人はそう言ったの。私は聞いたわ、いったい何が欲しいの?と。


「夏……」


ああ、何だか頭がふらふらするの。もう少し大きな声で言ってちょうだい。


「夏音」


強風で窓に叩きつけられる雨音がふたたび大きく聞こえてきました。


「夏音……」


そんなはず無いわ。あの子は元気でここにいる。それもあんなに楽しそうに。


「ああ、何てこと!そんなはず無いわ!そんなことって!」


そう叫ぶ私の声をかき消すように雨と風の音はますます激しくなってゆきました。



          🌳🌳🌳🌳🌳🌳🌳🌳🌳🌳



8月最後の日曜日。

何だかもう秋めいた青空に涼しい風が吹く気持ちのいい日。


夏音が朝早くから張り切ってフリーマーケットに自分の店を出店します。


「午前中が勝負なんだって。お昼過ぎるとどんどん安くしないとダメみたい」


そう言う夏音の店には、遥をはじめ柚葉に悠里に莉里子さんに私と、なんと

家族総出で手伝う体制を整えていました。


「柚葉、何か歌え!この間の歌で客寄せしろ」


と悠里が無茶なことを言い出します。


「いやだよー。恥ずかしいよー」


 微笑ましいことこの上ないわね。


「じゃあ、遙がヴァイオリンを弾けばいいじゃない」


と、これは莉里子さん。似たもの夫婦とはよく言ったものだわ。


「持って来てないよ。なんでフリマアプリじゃなくて

 本当のフリマなんだよ、夏音」


「まぁ、いいじゃない。ピクニックみたいで楽しいわ。ほら、

 私が作ったお弁当食べてね。夏凛さんも手伝ってくれたのよ」


と夏音が私に笑いかけてくれます。私も思わず笑みを返します。

この上なく幸せな人生。私の人生はいつだってそうだったわ。


その幸せの代償が可愛い孫の夏音ですって?


私の記憶は何かの悪夢に違いない。そう、子供の時に見た悪夢を

現実のことと思い違いしてるのよ。私は無理矢理そう思い込もうと

しました。


けれどもこの記憶はまごうことなき真実なのだと叫ぶ心の声を

消し去ることはできません。


「ねえ、夏凛さん。今日は夏凛さんにとってすごく嬉しいことがあるのよ。

 楽しみにしててね」


お弁当のお茶を注ぎながら夏音がやさしい声で話しかけます。


「まぁ、いったい何があるのかしら」


こんな私をもっと幸せにしてくれるの?


「この本はいくらですか?」


「10冊まとめて200円です」


ぼちぼち商品が売れ始めたわ。私の出したレース編みの本を

買ってくれる人がいるのね。さっそく夏音が応対しています。


「すみません。このお皿とカップのセットを下さい」


「はい。それは5組セットで300円です」


この子ったら手慣れたものね。


「あ、そうだ。夏凛さんの本の中にこれ入ってたよ」


夏音が差し出したのは古びた写真でした。


「これ夏凛さんの赤ちゃんの時の写真でしょ?大切にしないと」


その写真にはベビーベッドに寝ている赤ちゃんが写っています。

写真の裏を見ると19〇6年とあります。


これは私では無いわ。19〇6年だったら私は6歳だもの。誰のものかしら?

従姉妹か親戚かもしれないわね。


「ありがとう、夏音ちゃん」


さまざまな品物が売れてゆくうちに太陽も回り、

午前中は木陰で涼しかったこのお店も

直射日光が当たるようになって来たわ。


さすがにちょっと疲れたかしら。

いったん家に帰って少し休んで来ようかしら。


「夏凛さん、疲れたでしょう?いったん家に帰って

 休んで来たらどうかしら?」


夏音が私の心の中を読んだように声をかけてくれます。

この子ったら本当に私のことを気遣ってくれて……


「また店仕舞いの頃に手伝いにくるわね」


私はそう言い残して賑やかなフリーマーケットの中を歩き出します。

千秋公園から家までは15分くらい。ちょうどいい散歩になるわ。


家の門をくぐって見慣れたに庭の景色を見ながら玄関までの敷石を

歩いていると、あずま屋の方に人影が見えます。


ああ、あれは。

あの梅の木を見上げる横顔は。


私はその横顔に引き寄せられるように梅の木の下へ歩いて行きます。

私に気づいたその人が振り向きます。


「久しぶりだね、夏凛さん」


栖朔すざくさん」


「今帰って来たところだよ。ただいま」


ああ。貴方の横顔は、その振り向く様は、あの時と少しも変わらないのね。

初めて出会ったあの日。あの時も貴方はこうやって庭の木を見上げていた。

森林科学の研究者として。


「どうして急に?」


「夏音にね、君の元気が無くて心配だから帰って来てくれないかと

 頼まれたんだ。アメリカでの研究は一時中止して帰って来たよ」


「まぁ夏音ちゃんが……あの子が私の大切な旦那さまを呼び戻してくれたのね」


今日は私にとって嬉しいことがある日だとあの子は言っていたけれど、

このことだったのね。


「みんな千秋公園でフリーマーケットに参加しているのよ。

 また夕方には手伝いに戻るつもりですが、貴方はどうなさる?」


「そうだね、私も行ってみよう」


「みんな喜ぶわ。大好きなお鬚のおじいさまが帰って来たんですもの」


「ははは、そうだと嬉しいね。私も会うのが楽しみだ」


「それではお疲れでしょうから、それまでお休みになって」


「ああ、そうだね。思いのほか君が元気そうで嬉しいよ」


元気そう?いいえ、貴方の顔を見て元気になったのよ。今までとても

不安だったの。夏音が心配するほどに……


「ありがとう、何も心配いらないわ。私はとても元気よ。

 さあ、中でお茶でもれましょう」


いけないわ。安心したら涙が出てきた。栖朔さんに見られたら大変。

ハンカチはどこだったかしら。たしかトートバッグのポケットに。


「夏凛さん、何か落としたよ」


後ろから歩いてくる栖朔さんの声が聞こえます。私は急いで

涙を拭いてから振り返りました。


「ああ、それ?それはフリーマーケットに出していた

 私の本の中にあった写真だわ。さっき夏音ちゃんに渡されて」


「君の妹の写真だね。生まれてすぐに亡くなった」


え!?


「夏凛さん、大丈夫かい?」


遠くなってゆく意識の中で、栖朔さんのあわてふためく声が

小さく聞こえていました。


そうだったわ。私には夏音という生まれてすぐに亡くなった

妹が居たのだったわ。


心によどむ暗闇を閉じ込めたドアの鍵は、

すべて開けられてしまったの?


混乱する私の意識に、あの声が聞こえてきました。



          🌳🌳🌳🌳🌳🌳🌳🌳🌳🌳



「存在とは、底知れぬ無と無を結ぶ一瞬の残像でしかない」


貴方はアダムね。何て久しぶりに会うのかしら。

あの頃。6歳の頃に見た貴方とまったく変わらずに美しいわ。


「そのような残像を自分の幸せと引き換えにしたからといって

 なぜそのように苦しむのだ」


今は夜なの?私はなぜこんな夢を見ているの?

この幸せを妹の命と引き換えにしたですって?


「夏凛さん、大丈夫かい?」


私を抱え込みながら心配そうに見つめる栖朔さん。

ええ、ええ大丈夫よ。少しめまいがして意識が遠のいただけなの。

そして、アダムの夢を見ただけなの。


「ええ、大丈夫よ。少しつまづいただけなの。私ったら」


「つまづいた?」


「そうなのよ。私ったら栖朔さんが帰って来てくれたのが嬉しくて

 舞い上がっているのね。恥ずかしいわ」


そう、アダムの夢を見ただけなのよ。


そして家でお茶を飲みながら夕方を待って、私は栖朔さんと

みんなの居る千秋公園に向かいました。


「栖朔さん!お帰りなさい」


真っ先に駆け寄って来たのは、やはり夏音だわ。

それに続いて柚葉も栖朔さんに飛びついて来ます。


「栖朔さん、お土産は?」


「ははは、家に帰ってからのお楽しみ」


柚葉を抱きかかえながら栖朔さんの顔がほころびます。


「お父さま、お帰りなさい。さあ、それではさっさと

 店仕舞いをしてしまいましょう」


「まぁ、すごい。あらかた売れてしまったのね」


「お父さん、お帰りなさい。そう、夏音はすごいですよ。

 バレエより販売のほうが向いてるかもな」


莉里子さんと悠里の挨拶のあっさりしたこと。二人とも

栖朔さんが帰って来ることを知っていたのね。


「栖朔さん、お帰りなさい。アメリカはどうだった?」


遥もだわ。知っていたのね。


「それも家に帰ってからゆっくり話そう」


私たちは西日の中で店仕舞いを始めます。


店仕舞い。まるで私の人生のようだわ。

そろそろ念入りに店仕舞いの支度をする年齢になってしまった私。


悠里と莉里子さんは、まだまだ昼下がりのお店っていう

ところかしらね。


夏音や遙や柚葉は、まだ午前中にお店を開き始めたばかり。

あなたたちの人生はこれからよ。


何だかしみじみとしてしまうわね。


そんな私を不思議そうに見つめる栖朔さん。


「栖朔さん。実はここのところ恐ろしい夢を見るのよ。

 子供の頃に悪魔と出会って、この幸せな人生と妹の命を

 引き換えにしてしまった夢よ」


三界さんかいは安きこと無し、なお火宅かたくの如し」


「栖朔さん?」


「人間には一生背負わなければならない業がある、ということだよ。

 君だけじゃない、もちろん私にもある。そして悠里や莉里子さんにも

 あるだろう」


「三界は安きこと無し、なお火宅の如し……」


「いずれは夏音や遥や柚葉たちも背負うことになるのだろう。

 人生とはそういうものだ」


あの元気いっぱいの夏音たち。楽しいことしか知らないようなあの子たちにも

いずれこの業火が降りかかるというの?ああ、そんなことって。


「夏凛さん、栖朔さん、待たせてごめんなさい。これから私のおごりでね、

 ファミレスで夕食することになっているのよ。今日はすごく儲かったの」


夏音が嬉しそうに今日の成果を報告します。


こんな業火のような真っ赤な夕日の中にあってさえ、弾むように楽しそうで

明るく輝く夏音たち。私の悪夢でこの子たちの輝きを消してしまうわけには

いかないわ。


それではご馳走になりますか。


人生とは火宅の如し……

だけど……


「微笑ましいことこの上無いわね」



                     

                       《終わり》     

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年代モノの梅酒の梅は月夜の晩に梅ゼリーになる夢を見るのだろうか? ヨーグルトマニア @fuwa_fuwa_otaru

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