歌い去られし風の奏でよ

消えない歌があるよ あなたは知っているでしょう

飛べない鳥がいるよ あなたは知らないでしょう


ずっと空を夢見てたの

だからいろんなものを捨ててきたの

ずっと空を夢見てたから


ねぇ 雲は柔らかいですか

粉雪の始まりはもっと真白なのですか

届かないよ いつまでも

ねぇ なくした意味はあったの


飛べない鳥がいたの あなたは知っていたでしょう

そうなの 私も知っていたはずなの


忘れたわけじゃない

忘れたいわけでもない

ずっと空を夢見てたの

ずっと空を夢見てたから


ねぇ 雲は柔らかいですか

ここはとても柔らかかったの

きっと空よりも

温かいと 思ってしまうくらいには



「これは何の歌なの?」


 フィシュアはサクレに問う。

 すべての歌には物語があると教えてくれたのは彼だった。だから、フィシュアはいつからかサクレに尋ねるようになった。

「そうだね」

 サクレは目を優しく細めながら、フィシュアの頭を撫でた。

 指の長い大きな手。すっぽりと覆われてしまいそうな手を受けて、フィシュアは顔をほころばせてはクスクスと声を立てて笑う。

小さな姫君ディーオ・トリアは何の歌だと思う?」

「わからない」

「もうちょっと考えてみないと」

「だって、わからないもの」

 フィシュアはちょこんとサクレの膝の上に座る。

 だから早く教えて、と彼を見上げてねだる。

 サクレの大きな手の中には、手よりももっと大きな物語がいっぱい載せられているのだ。

 それは決して零れ落ちはしない。いつもキラキラと輝いている。

 サクレの瞳と同じように。

 垣間見える世界が好きだ。見えなかった世界が広がる瞬間が大好きだ。

 サクレは歌うように奏でる。いろんな物語を。

 だから早く彼の世界を見たくて、フィシュアは握ったサクレの手を「早く早く」と上下に振った。

「これはね、鳥の話でもあるんだ。鳥はね、空を飛ぶためにいろんなことを捨てたんだよ。身体の重さを軽くしないと空を飛ぶのは難しいからね。だから、広げた翼に比べて、身体はあんなに小さい。ほら、ホークを見てごらん」

 フィシュアは頷いて、五歳の誕生日に与えられた茶の鳥を見た。

 あれから一年は経ったが、イリアナが持つファイと比べると幾分も小さい。地面に生えた雑草をついばみ遊んでいるらしいホークの翼を、サクレは傷つけないようにそっと開いてみせた。

「ほんとうだ!」

「ね?」

 サクレは、茶の鳥の翼から手を離した。

 羽を掴む手の支えを失くしたホークは半ばよろけて二、三後ずさる。

 それを見てフィシュアはけたけたと笑った。サクレはすまなそうに指でこめかみをかくと、そのまま律儀にも幼い茶の鳥に頭を下げ謝った。

「ねぇ、ねぇ、サクレ様。でも、歌の鳥は空を飛べなかったんでしょう? だから身体が小さい意味はあるのって言ってるの?」

「うん、そうかもしれないね」

「そうじゃないかもしれないの?」

「うん、そうじゃないかもしれない」

 明確な答えをくれないサクレに向かって、フィシュアは「もう」と口をとがらせる。

「じゃあね、じゃあね、サクレ様。なくした意味はあったの? そう歌っていたでしょう?」

「うん、それはね、きっとあったんだよ」

 サクレはふんわりと微笑んだ。フィシュアにはわからなかった。

 いくら待ってもそれ以上何も答えそうにないサクレに焦れて、フィシュアは彼の手をゆする。

「でも、鳥は空を飛びたかったんでしょう? 飛べないのに、なくしたのなら悲しいよ?」

 こてんと首を傾げてみせたフィシュアの、子ども特有のやわらかい髪が揺れる。サクレは数多くの可能性を身の内に秘めている少女を眩しそうに眺めた。

小さな姫君ディーオ・トリアはそう思う?」

 フィシュアは「うん」と頷く。

「それなら、それもきっと一つの真実なんだろうね」

「真実?」

「本当のこと」

「本当のこと?」

 フィシュアはサクレの言葉を繰り返す。

「真実、本当のこと、真実」

 なんとか意味を咀嚼しようと確かめながら呟くフィシュアに、サクレは「僕の真実はね」と続けた。

「きっとなくしても、それは意味のないことじゃないと思うんだ。なくしたことにもきっと意味はある。だって、自分の夢のためにね、叶えたいことのためにね、頑張ってきた事実は消えたりなんかしないよ。最終的に願いは叶わなかったかもしれないけれど、頑張ってきて、その途中でなくしてしまったから気付けたんだよ、あの鳥は」

 サクレは遠い空を見上げて、それから膝に座っているフィシュアに微笑みかける。

 サクレを見上げていたフィシュアは眉を寄せた。フィシュアにはサクレの言っていることがちっとも理解できなかった。

「何を? 何に気付いたの?」

「さぁ、何だろうね」

 サクレはフィシュアの眉間に寄せられた深い皺をついと押しやった。

「うきゃあ!」と悲鳴があがる。

 フィシュアは額を抑えて、サクレを睨んだ。

「教えてくれないの?」

「教えてあげないの」

「教えてよ」

「だーめ」

「けち」

「結構、結構。けちで結構です」

 ぷうと膨れているフィシュアを眺めやって、サクレはおかしそうに苦笑する。

「いつか……」

 サクレはフィシュアの脇に手を差し入れ、地面へと抱き降ろした。

 少女の足がしっかり地に着いたのを見届けてから、彼はにっこりと笑って、フィシュアの額を指先でトントンとつついた。

「いつかフィシュアにも僕の真実がわかってもらえる日が来るといいな」

 琥珀に近い少女の茶髪に、陽光が冠をつくる。

 難しいこと。けれど、気付けたら簡単なこと。気付けたとしても、もしかしたら彼女には難しいかもしれないこと。

 きょとんとした顔で見あげてくる幼い少女。

 サクレは「小さな姫君ディーオ・トリア」と彼女の髪を撫で、しかし彼のを呼ぶ声に別方向へ振り返った。

 離れていった大きな手。

 フィシュアはそれをじっと見つめる。

 大きな、大きな手。大好きな手。たくさんの物語を大切に大切に包み込んでいる手。

 優しい一対の穏やかな声が聞こえる。フィシュアはそれも大好きだった。だから、そうっとそうっとこの想いを包み込んで、瞳を閉じて、胸に手を当てる。

 大きすぎて、小さすぎる想い。

 傍にあっても、離れても、温かくて大切なふんわりと輪郭のない気持ち。

 だから、彼女は瞼をあげて微笑むと、手を振って大好きな彼らの元へ駆け寄ったのだ。



*****



「フィシュア!」


 名を呼ばれたフィシュアは、風にたゆたう髪を手で押え、声のした方を振り返った。

「あ、テトにシェラート」

「わああああっ! 危ない! 危ないから、動かないでっ!」

 外廊に繋がる角から全速力で走ってきた栗色の髪の少年は、走ってきた勢いのまま、はしっとフィシュアの服の裾を掴んだ。その後ろでシェラートがテトの背を支え、ついでにフィシュアの服の背を掴む。

「何、どうしたの? 二人とも?」

「「“どうしたの”じゃない!!」」

 見事に揃った怒鳴り声に、フィシュアは呆気にとられて目をぱちくりと瞬かせた。

「フィシュア、ここ、二階! 落ちたら、大変!」

 混乱しているのか、焦っているのか、テトは一語ずつ息も切れ切れに叫んだ。

「だいたいお前は、どうしてそんなところに登っているんだ」

「風が気持ちよかったから」

 あっけからんと返った答えに、どうしようもない、と深い深い溜息が二つ落ちる。

 皇宮の中庭に面する壁のない外廊。その手摺の上にフィシュアは平然と立っていた。

「フィシュア、危ないから早く降りて」

「大丈夫よ、テト。裸足だし、そう簡単には落ちないわよ。慣れてるもの」

「降りてっ!」

 テトの顔は真剣そのものだった。自分よりも小さな手にぎゅっと裾を強く握られて、フィシュアは苦笑した。

 テトを困らせるわけにもいかないのでフィシュアは言われた通り、とんと床に降り立つ。

 なんともないと手摺に寄りかかり「ね?」と笑いかけてきたフィシュアに、テトは危うく脱力しそうになった。

「フィシュアはいつも心臓に悪いよ……」

 テトは独り言のようにぼやく。

 フィシュアは、テトの視線と同じになるように膝を折ってしゃがみ込むと、下から黒い瞳を覗き込んで言った。

「あのね、空を飛びたいと思っていたのよ。ホークみたいに。ある人がね、言ってたの。鳥は空を飛ぶためにいろんなことを捨てたんだって」

「いろんなことを?」

「そう。いろんなことを。きっと大切だったこともね」

 テトはフィシュアの顔をじっと見つめ、「けど」と口を開く。

「鳥は空を飛びたかったから、そのため捨てたんだよね。なら、捨てた大切なことよりも、もっと大切なことを鳥は手に入れることができたんじゃないかな」

 フィシュアは目を丸くして、それからふと相好を崩す。

「それはきっとテトが辿り着いた真実ね」

「真実?」

「そう、本当のこと」

「本当のこと?」

 テトは繰り返しながら不思議そうな顔をする。

 そうして、もう一人、不思議そうな顔をしている人がいた。

 フィシュアはテトを見つめ、それからシェラートを見上げて、クスクスと笑う。

「私ね、初めて空を飛んだ時すごく感動したの」

「……ああ、あの時な。きょろきょろしてたもんな。落ちそうで恐かった」

「フィシュア、僕よりはしゃいでたもんね」

 二人の相槌に、フィシュアは頷く。

「すごく綺麗だった。ホークはこんな世界を見てるんだって思ったの」

 夕陽にそまった白壁の家は、水辺は、そして砂漠の砂は、キラキラと輝いて――きっと簡単には忘れられるものではない。

 次第に小さくなっていく家々は、移りゆく世界は、想像していたものよりも、ずっとすごかった。

「でも、フィシュア。空を飛びたいなら、シェラートに頼めばいいのに。手摺に登っても飛べないし、危ないだけだよ!」

 もう登っちゃだめだからね、とテトは真面目な顔でフィシュアを叱る。

 まるで幼子に言い聞かせるような怒り方だ。

 フィシュアは曖昧に請け負いつつ、「ええ」と頷く。

「空は飛べたからもういいの。私は地上ここの方が好きだってもう知っているから。ただね、時々ね、無性にあの鳥になりたくなるのよ」

 目を閉じて、風を受けて、サクレの言葉を思い出す。

 彼の飛べない鳥の真実を想う。

 心はとてもほんわかとして、あの頃とは違った温かさを持つ。

 ここはとても柔らかかった。これが、フィシュアの鳥の真実。

 瞼を開いたその先には、地上が映る。

 次いで、映ったのは訝しげな顔をした人だった。

「空を飛ぶくらいはわけないから、手摺には登るな」

「飛びたいわけじゃなくて、あの鳥になりたかったのよ」

「意味がわからない」

「それもまた一つの真実かもね」

 フィシュアはクスリと笑う。

 さっぱり理解できないテトとシェラートは互いに顔を見合わせると、諦めるように肩を竦めた。

 フィシュアは彼らの様子を気にも留めずに立ち上がると、一つの歌を風に向かって口ずさむ。

 彼方より吹いてきた風。彼方へと歌を運んでいった風。


ねぇ 雲は柔らかいですか

ここはとても柔らかかったの

きっと空よりも

温かいと 思ってしまうくらいには


ねぇ だからこの歌は続いていくよ

消えない歌があるよ 私ももう知っていたよ


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