夜雪

 雪が降りだすと、思い出してしまう光景がある。

 そのことを知ったのは冬の夜。

 砂漠に接するその街では雪が舞っていた。


***


 比較的温暖なダランズール帝国の冬はほとんど雪が降らない。

 だが、昼間と様相を変え、ぐんと冷え込む夜の砂漠にも時折流れてきた雲がちらちらと雪を降らせることがあった。

 ランジュールが死んだのは、そんな夜だった。

 シェラートは並べて乾かしていた薬草をとりこんでいた時に、そのことを感じた。

 闇色の夜空を仰ぎ見る。覆い隠された星の代わりに、さらさらと舞う雪片がかがり火に照らされぽうと光を保っていた。



「アジカ」

 シェラートは呼びかける。

 かたく目を閉じた男の輪郭をなぞっていたアジカは、ふと手を止めると、振り返り微笑した。

 かつて西の至宝と呼ばれた彼女は衰え、刻まれた多くの皺は違和感なく彼女の一部を形作っている。出会った頃からは想像もつかないような姿だった。

 ただ、唯一変わらない鮮やかな青の双眸がゆったりと柔和に細められたのを眺めながら、シェラートは不思議な感慨を覚えた。

「驚いたわ。急に来るんだもの。間がいいというか何というか……」

 さっき逝ってしまったのよ、とアジカはシェラートに告げた。

「眠っているようとは、よく言ったものね」

「……だな」

「よかったわ、眠るように死んでくれて」

 アジカは自分と同じたるみのできた夫の手を取った。両手で挟んだ彼の手を、アジカは自身の額に押し当て祈るように目を閉じる。心地のよい、静かな溜息がその場に満ちた。

 かつて鷹揚とした態度で目の前に存在した男の横たわる姿を、シェラートは眺めやる。

「ランジュールは人間として死ねたんだな」

 ええ、とアジカは目をつむったまま、口元だけに苦笑を浮かべた。

「本当によかったわ。一瞬で消えてしまったら、とても耐えられなかったでしょうから」

 シェラートは口をつぐんだ。魔神ジーニーであったはずの男は本来であれば、アジカの言うとおり一陣の風だけを残してかき消えたはずだった。それが、何よりも自然に近い要素から成る彼らの最期。ごく自然なこととして存在する死の姿だ。

 しかし、今ここには彼の身体が残った。このことこそが、ランジュールが魔神ジーニーからは離れた存在――人間であったことを証明していた。

 彼と彼女の願いが成就していたことは、彼の死により、ようやく確固とした証拠をもって明らかにされたのだ。

 シェラートは、ふっと表情を和ませた。

 本来はこのような時にこんな言葉は似つかわしくないだろう。それでも他に言葉が思い浮かばなかったので、結局シェラートは「よかったな」とただ一言、自分の気持ちを口に出した。

「ええ」

 アジカは、自身の言葉をかみしめる。

 顔をあげて、シェラートの方に向き直ると、若かりし頃にたたえられた以上の笑みをアジカはその表情いっぱいに浮かべたのだ。

 ――ありがとう、と。



 ランジュールの屋敷から離れたシェラートは深い森の中にある洞穴の前へと立った。特段遠慮することなく穴の中に入って進む。幾分か奥に進んだところで、シェラートは何の変哲もない石壁に向かい問いかけた。

「ヴィエッダ、いるんだろう?」

「いるけどさ。どうしたんだい、シェラ坊?」

 ただの壁でしかなかった黄土の岩にぽっかりと入口が開く。てずから紗幕を上げ姿を現した魔神ジーニーはけだるそうに小首を傾げ、次いで目を瞠らせた。

「ジジイが死んだ」

「…………のようだね……」

 ヴィエッダはするりと紗幕から外に出た。金の双眸を眇め、シェラートをうかがい見る。

「大丈夫かい?」

「何が」

 シェラートは怪訝そうな顔をする。ヴィエッダはそんな彼に苦笑すると腕を伸ばして、彼の頬に触れる直前で手を止めた。

「きっともうこのままではいられないよ? アジカもじきに死ぬことになるだろう。そうしたら、シェラ坊はもう人間の感覚をもって生きていくのは難しくなる。私にはそんなことわからない。きっとシェラ坊にしかわからないだろうけどね。今までと同じはもう無理だよ?」

「そんなの、とっくの昔に思い知ってる」

「……そうかい」

 ヴィエッダはほんのすこしだけ宙に浮き上がった。シェラートと視線が並んだところで、彼の頭を胸元に抱きしめる。突然のことに、シェラートが「ぐわぁっ!」と叫び声をあげたのをよそに、「よしよし、よい子だねぇ」と、ヴィエッダは人間の母が子をあやすのを真似てシェラートの頭をなでた。

「悲しいのなら泣いたっていいさ。耐えられなくなったらここにおいで。私は、まだここにちゃんといてあげるからね」

「だーーーーー!! もう、やめろ! 大体ここに来た方が耐えられなくなる!」

 シェラートがなんとかヴィエッダを引きはがすと、彼女はころころと笑った。楽しそうに笑うヴィエッダをシェラートは睨む。

「……ヴィエッダはジジイのところに行かなくてもいいのか?」

「行く予定はないわねぇ。アジカになら会いに行ってもよいけど。私らにしてみれば、死なんてそういうものだよ、シェラ坊。悲しむためのものじゃないんだ。死ねばそこで終わり。消えてしまえば自然の要素の一つに戻る。所詮一過性のものだからね。ランジュールの死に様を見たって意味がないよ。だってそんなもの私らの中には存在しないものだったんだから」

 ヴィエッダは、馴染みとなった翡翠の双眸をのぞきこむ。

 珍しく「シェラート」と彼の真名を呼んだ彼女は、もう一度だけぽんぽんとシェラートの頭を抱え込むと、「時のままに流れなさいな」と言った。



 他に誰もいなくなった部屋の中で、アジカはランジュールと唇を重ねた。

 体温の低くなった片翼の唇を甘く噛む。久しくしていなかった行為。反応が微塵も返らないのは当初の頃と同じ。

 懐かしくて、触れるのをやめたアジカはくすりと苦笑を洩らした。

 本当にあれはひどかったわ、と彼女はごちた。

「ランジュール、あなたもすっかりジジイといわれても仕方ない姿になってしまったわね」

 微笑んだままアジカは一度、ランジュールの髪をすいた。閉じられた瞼に片方ずつ口づける。

「さよなら、ありがとう、あなたのおかげで私は私として生きられた」


*****


「辛かったら泣いてもいいわよ? 何だったら胸も貸してあげる」

 そう言ったフィシュアの笑みはどこか悲しげだった。

 きっと自分もああいった顔をしてしまっていたのだろうとシェラートは目の前に立つ彼女を眺めながらぼんやりと思う。

 随分と歳が離れているはずなのに、シェラートに向けられた眼差しはまるで年下の――庇護するべき対象に向けられているもののようにも見えて、彼はそのことを怪訝に感じた。

「それは断る」

「失礼ね」

 言いつつも、フィシュアがあらわにしたのは怒りでなく安堵だった。

「じゃあ、悪いけど私がシェラートに抱きついてもいい?」と伸ばされた両手と寄りかかってきた重みにシェラートは驚く。

 さっきまで頬に添えられていたフィシュアの手は冷たくて、熱がこもっていなかった。対して、受け止めた身体の方は思っていた以上に温かかった。

 肩に額を押しあてられ、隠れた表情からは何もうかがい知れない。ただ、馬と土、汗の匂いの中に、ほんのかすかに淡さがくゆった。

「どうした?」

 シェラートはフィシュアに問いかける。言葉ではなく、返ってきたくぐもった唸りに、シェラートはポンポンと彼女の頭をなでて答えた。

 辛い、とフィシュアは漏らした。

 ならばフィシュアも泣くのだろうかとシェラートは考えた。辛いなら泣いてもいい、と言ったのは彼女だったから、フィシュアは泣きたかったのかもしれないと、そう思った。

「大丈夫か?」

「うん……、まだ、大丈夫。シェラートは?」

「ああ、まだ、大丈夫だ」

 かすかにフィシュアが身じろいだのがシェラートにはわかった。もしかしたら、また苦笑していたのかもしれない。

 シェラートは膝から落ちないようにとフィシュアの身体を抱え込む。手を伸ばして、フィシュアの髪に触れた。

 けれども、結局フィシュアがそれ以上何かを吐露することはなかった。

 彼女もまた、泣くことはしなかった。ただ静かに身を寄せていただけだ。

 シェラートがフィシュアが眠ったことに気付いたのは、首にまわされた腕からふっと力が抜け落ちたからだった。



 それは、ある夜のこと。

 シェラートが空を仰ぎ見ると、冷たい雪片が鼻をかすめた。

 言葉を発そうしてやめてしまったせいで、口が開いたままになっているシェラートを見てフィシュアは不思議そうに首を傾げた。

「どうかした?」

「いや、雪が……」

「雪? あ、ほんとだ」

 フィシュアは舞いはじめた小さな白いかけらを見て、顔をほころばせた。

「すごい! 珍しいわね。テト! テト、ちょっと来て! 雪、雪! 雪が降ってる」

 フィシュアは部屋に戻って、中にいるテトを呼びに行く。「どうりで寒いと思ったよ」と言いながらも、ぱたぱたと近寄ってくる足音にシェラートはどうしようもない親しみを感じていた。

 はっ、と噴き出した息が白く舞う。

 夜に降る雪を見て思うのはいつも同じこと。

 だが、それは彼にとって今ではずいぶんと優しいものへと変わってもいたのだ。

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