懐かしさの名残【1】
これは、もう遠い遠い日に置いてきた記憶。
カーマイル王国の春はよく晴れた日が続く。
時折思い出したように訪れる雨は穏やかに恵みをもたらした。風は
東の大陸、西沿岸にあるこの国の春は、とても安定した気候だった。
故に、道端にぽつぽつと花が咲き乱れるこの頃は、冬の間、姿を目にすることが少なかった行商人たちが、待っていたと言わんばかりに、国を、地域を、街を往来しはじめる。
やわらかな陽ざしに後押しされるように、カーマイルでは一年の中で最も活気ある季節を迎えるのだ。
春が一年の中で一番かき入れ時であるというのは、卸業を代々営んできたシェラートの家にとっても同じであった。
住まいを構える村からは離れた、幾分か大きな隣街に彼の家の蔵はあった。
大した区切りもない、だだっぴろい蔵の中、今は多くのものが入り乱れている。新しく仕入れたものを運びいれている者がいるかと思えば、その横では別の者が馬に荷を積み込んで蔵から運びだしていた。
蔵にある在庫の数を確認し終えたシェラートは、発注の作業に向かおうと蔵に併設されている事務所へ向かう。
人の行き来が激しい蔵の出入口に、シェラートは馴染みの顔を見出して片手をあげた。
「タギ!」
「あ、シェラート。毎度ごくろーさん!」
駆け寄ったシェラートに、タギもまた片手をあげて答えた。
タギが連れている馬がひく荷馬車には、青々とした葉と硬めの芯を持つ野菜――ツェルラが山のように積まれている。
物心ついた時には蔵に慣れ親しんでいたシェラートが、十六の頃から本格的に蔵に入り家業をまわす一員として働いてきたように、彼の友人であるタギもまた当然のごとく家業である農業に従事していた。
住んでいる場所は違えど、歳の近いタギは、何度も顔を合わせているうちに親しくなった者の一人である。
タギは積み荷から、ツェルラを一つとると、シェラートに軽く放り投げた。
慣れたように受けとったシェラートは、ぽんぽんと野菜の重みを確かめる。
「去年より大きいな」
「だろう? 高値で買ってくれよ?」
タギは、にかっと笑う。
シェラートは、タギにツェルラを返した。新たな品を運んできてくれた馬の鼻梁をねぎらうように撫でる。
「多分、期待には添える。今日なら去年の一.五倍はだせるな」
「本当か!?」
顔を輝かせた友人に向かって、シェラートは頷き返す。
「今年は大分やられたみたいなんだよな」
「ああ、
「こっちもだよ。おかげで仕入れても仕入れても足りない。仕入れた先からなくなっていくからな。できれば、この荷の三倍は欲しい」
「それは……来週あたりなら、用意できるかもしれないが」
「ああ、他のみんなもそう言ってた。だから、今日の値は今日まで、来週からは通年通り……だと、助かるんだけどな」
「それは、こっちが困るなー」
「そうなってくれないと、こっちが困るんだよ。高すぎても出ないからな」
「うーん、どっちもどっちか。ここで出ないと、こっちも入れられないから、それはそれでまた困る」
まぁ、来週はどーんと入れてやるから任せとけ、とタギはシェラートの肩を叩いた。
「そうだ、シェラート。昼は食べたか?」
「あーそういえば、まだだな」
「そうか、なら、これをやろうではないか!」
タギはごそごそとズボンのポケットから、包みを取り出すと、シェラートに渡した。
どうやらパンのようではある。だが、その物体は叩きのばしたのか、というくらいにぺちゃんとつぶれていた。
「……タギ」
「まーまー、食べないよりかはましだろ。俺はこれから食べに行くからさ、やるよ」
「いらない」
「やるって」
「いらないって!」
つぶれパンを押し返されたタギはちっと舌打ちをした。
「せっかく人が親切にしてやろうと思ったのに」
「これのどこが親切だよ!? 潰れていないのはないのか!」
「潰れなかったのは、途中で食べた。仕方ないな、ジリーにやろう。今日もよく働いてくれたからな」
タギはパンを愛馬に差し出す。ジリーはためらいもなくもしゃもしゃと潰れパンを食べはじめた。
「またお前は、ジリーに変なものを食わす……」
「ジリーは好き嫌いのないよい馬だぞー? なージリー? おいしいよなー?」
主の声にこたえて、馬はもしゃもしゃと食べつつ、軽くいなないてみせる。いいこだ、いいこだ、とタギに首を叩かれて、ジリーは嬉しそうですらあった。
「よし、じゃあ、シェラート。昼飯につきあえ」
「はじめから、そう誘ってくれ。――休憩に入るって父さんたちに言ってくる」
「ああ、じゃあ、ユザ亭の前で待っててくれ。納品を終わらせてくるから」
「わかった」
後で、と二人は別れてそれぞれの道を行った。
その後、タギと行ったユザ亭で何を食べたのか、シェラートはもう覚えていない。
二百年を超える年月は、思い出を風化させる。
この日の会話も、シェラートの中では疾うに消えうせていた。
タギが連れていた馬の名前がなんであったのかも、友の声も、家族の声すら、シェラートにはもう思い出すことはできない。
ただ断片的な風景だけが、親しんだものの顔だけが、記憶の破片として残っているだけである。
そこには、温度も音も存在はしない。
褪せた色だけで構成された記憶。
遠い昔に存在したこと。
シェラートはそれらを自ら捨てようとはしなかったが、とどめようと必死になることもなかった。
生きている以上、日々出会わざるをえないことの方が鮮やかで、それによって上塗りされていくのは極自然なことだと、彼は認識するまでもなく受け入れてきた。
それでも、やはり大切なもので、懐かしいもの。
確かにあり、彼を構築してきたもの。
忘れられゆく記憶の破片。
これは、もう遠い遠い日の中に置いてきた記憶。
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