彼らの周辺の人々
領主様のお屋敷へ野菜を届けに来た私は「あれ?」と、荷台から白菜を降ろす手を止めてしまいました。
「ニナ。どうした、そんなに目ぇ丸くして」
荷台に残っていた野菜をさっさと調理場へ運んでしまったコック長のジルさんは、最後に残った白菜を私の手から取り上げて不思議そうな顔で言います。
「え。えっとさっき奥様がお屋敷の中を通っていったんですけど」
「うん?」
「なんだか奥様、今日はすごくぴりぴりしてません?」
ジルさんに尋ねて、お屋敷の窓にもう一度目を戻すと、奥様の姿はすっかり消えてしまっていました。私は奥様であるカザリア様と直接お話をしたことはないけれど、とってもきれいで元気な方だなぁと常々思っていて。特にあの蜜色の髪の艶やかさは、太いばっかりでまとまらない土色の髪を持つ私には羨ましくてしょうがないのです。なのに、ジルさんたちの話を聞いていると、悪い人たちを撃退しちゃうってくらいお強いんですもの。憧れない訳がないのです。この領地のいち女の子として!
それが今日は、怒っているのか気を張っているように思えます。あるいは、何と言うのでしょう。少しばかり落ち込んでいるようにも思えるのです。
「あぁ」と、納得の言った風に頷いたジルさんは、まるで堪え切れなくなったとでもいうように、肩を震わせて大声で笑い始めました。いえ、ジルさんの場合、大声ではなくこれが普通声であるんでしょうけど。
つい二カ月前まで怒鳴っているようにしか聞こえなかったジルさんのだみ声も、最近では不思議ととても表情豊かに聞こえるようになりました。本当に可笑しそうにひとしきり笑ったジルさんは、「はいよ、お疲れさん」といつもの通り、紙に包んだお手製のお菓子を私に持たせました。
「ジルさん!」
教えてくださいよ、と訴えるとジルさんは困ったように肩を竦めます。「出たんだよ」と、ジルさんは声を低めて言いました。それはやっぱりちっとも小さくはなっていない声だったのですが。ジルさんは言ったのです。
最低一週間は『投げるの禁止令』が、と。
「あぁ、『投げるの禁止令』ね」
帰り道、お屋敷の裏門で出会った侍女のケフィさんはどこか申し訳なさそうに苦笑しました。
「そう、それです。どういうことなんですか」
ジルさんが詳細を教えてくれなかったことを話すと、ケフィさんは迷っているらしく落ち着かない様子で右腕を左手で擦りはじめました。
「ケフィさん!」
「うーん。だってそれ、私たちが原因なのよ」
「つまりどういうことなんですか!?」
「つまり……」
「ケフィたち侍女が奥様に頼み込んで、モノを標的に命中させる投げ方について指導をしてもらってたら、奥様が熱を入れすぎて奥様含めみんなが肩を痛めたんだよ。で、領主様が、肩の痛みがすっかりとれてしまうまでは何があってもモノは投げては駄目だって」
言い淀んだケフィさんの後を引き継いで、いつの間にやって来たのかスタンがすらすらと説明しだしました。「スタン!」と私が声を上げれば「よぉ、久しぶりだなぁ、二ナ」とスタンはにかりと笑いました。
もともと私とおんなじで農家の生まれのスタンは、昔から顔なじみです。と言いますか、家も二軒先のご近所さんなのです。まさか、スタンが鍬を剣に持ち替えて、武術の道に入るとは思っていませんでしたけど、お屋敷の護衛として雇ってもらえるくらいですから、こっちの道の方が案外あっていたのかもしれません。
とにもかくにも、渋い顔をしてケフィさんが睨んでいることにも気づかず、スタンは私の知りたかったことをすっかり喋ってくれたのです。調子のよさは、子どもの頃から変わらない彼の短所であり長所ですから。
その内容はこうでした。
奥様が素早くモノを投げつけて刺客を撃退している様を間近で見る機会が多かった侍女さんたちは、奥様みたいにモノを投げる技を極めることができれば、最低限の自己防衛ができるんじゃないか、むしろ危急時は誰かを守ることだってできるんじゃないかって、考えたそうです。
そのことを奥様に伝えてみたところ「いいわよ」って快諾してもらえたんだとか。さっそくみんなで庭に用意した簡易の的に向かって、白砂を詰めた小袋を投げていたら――当然、的の周りは砂だらけの悲惨な有様に。加えて、夢中になって長時間砂入り袋を投げ続けていた参加者のみんなは次の日から肩があがらなくなってしまったのだ、と。
事の次第を知った領主様は、参加者のみなさんに的当ての練習を禁止しました。
加えて、奥様には最低一週間、絶対にモノを投げないこと。「例え何があっても投げたらいけませんよ?」と言った領主様は、ケフィさんによるとのんびりとした口調の割に、逆らえないものがあったそうです。
それが、三日前のこと。
「じゃあ、俺は忙しいからそろそろ戻るな」
すっかり話してしまって満足したのか、スタンは晴れやかに言った。
「そうだったわ! スタン、こんなところで油売ってる暇なんてないでしょ。何してるのよ。あなたが離れてる間に、奥様に何かあったらどうするの!」
ケフィさんは眉をしかめてスタンににじり寄りました。あぁだから、とスタンは両手を軽く挙げます。
「ちょうど今、奥様に言われて捨ててきたところ」
自分でぱっと動けない分、もどかしいらしくって結構いらいらしてるよ、とスタンはわらった。
***
カザリアは溜息をついた。
ここ最近、机上仕事が続いているらしい夫を恨めしげに睨みつける。
「……ロウリィ。私、そんなに肩は痛くなってないのよ。明日になればすっかり元通りになると思うわ」
「それはよかったです」
「ほら、さっきだって変なの来ちゃったし、やっぱり投げてはいけないっていうのはいろいろ不便だと思うのよ。危ないでしょう?」
「屋敷にいる三割の人数の手がなかなか自由に動かない今の現状の方が、みんな仕事をするのに不便だと思いますよ?」
ほやん、とロウリエは首を傾げる。カザリアは、ぐっと言葉に詰まった。
「だから悪かったって思ってるわよ」
そうですね、とロウリエは、書類に確認済みの印となる自身の署名を書きいれながら頷いた。
「それに、みんなが反撃するようになると本当に却って危ないんですよ。今まで、使用人が直接狙われたという件はありませんから。毒見で被害にあった方はいますけど。それ以外はほぼ皆無です」
「そうなの?」
カザリアは、驚いて問い返す。仕事が済んでしまったのかペンを置いたロウリエは顔を上げると「ええ」と断言した。
「チュエイルさんたちにしてみれば都から任命されてきた役人を追い出せればいいだけですし。ここの使用人は領主の入れ替わりに関係なくほとんどがそのままこの屋敷に残るんです」
「えーっと、つまり」
カザリアは、夫の説明を頭の中で整理する。
「使用人は個人についているのではなく、『領主』という職種についているということ? 屋敷と同様に使用人も基本は受け継がれるのね」
確認をとれば、ロウリエは「はい」と肯定する。
「……使用人を狙ったりしたら、自分が領主になった時の使用人がいなくなる?」
「そうなります。チュエイルさんが領主から失脚した当時、本家の方に使用人が移らなかったから大変だったらしいですよ。その時はあっちにある今のチュエイル一族の屋敷は住んでる人自体が少なかったそうですし使用人も数は最低限しかいなかったはずです。なんせ百数十年、領主を務めていた家柄でしたから。こっちに人数がいて切り盛りできれば充分だったんですよ。それが、いきなり暮らしていた一族みんな、あちらの屋敷に越さなければならなくなったんですから、大変だったでしょう。それが痛いくらい分かってる分、ここの使用人たちもそのまま貰い受けたいはずです」
「え、でも、チュエイル家が領主の座から下ろされたのって、四年前くらいの話でしょう? なら、チュエイル家に仕えていた使用人もまだここに残ってるかもしれないってこと?」
「そうですね。恐らくルーベンはチュエイル家が領主をしていた時からこの屋敷に残ってる使用人の一人だと思いますが」
「嘘」
知らなかった事実にカザリアは絶句する。思わず同じ室内にいたバノにも目を向ければ、彼は少し答えにくそうに口を開いた。
「私はチュエイル家の時代にはまだここにいなかったのですが、ロウリエ様より四つ前の領主だった方からここでお仕えさせていただいています。三年ほど前からですね」
カザリアはロウリエに視線を戻す。もちろんバノのことも知っていたのだろう。彼は全く驚いた様子もなく、いつも通りぽややんと笑んだ。
「みんなに危機意識があるのは大事なことだと思いますけど、そういうわけですのでとりあえずはカザリアさん自身が自分のことを守れればいいと思いますよ。あ、そう言いつつ僕までいつもお世話になっていますけど。みんなに無理をしてもらわなくても、今のチュエイルさんはその辺、信用していいですよ。カザリアさんが来る前ですけど一応そういう約束も取り付けていますし」
「そうだったんですか?」とバノは目を瞠る。
「あ、はい。爆竹事件の後にちょっと。大丈夫とは思っていたんですけど、一応」
頭を下げたバノに、ロウリエはわずかに苦く笑う。初めて聞く話に、カザリアは眉をひそめた。
「爆竹事件ってどういうこと?」
「前にちょっとそういうことがありまして」
「ちょっとってそういう問題じゃないでしょう!?」
「まぁ、でもこちらもやり返してしまいましたし」
しれっと言って、ロウリエは話を切り上げる。懐かしそうに「あぁ、あれは見事な花火でしたねぇ」と頷いたバノの呟きに、カザリアはますます混乱した。
「なので、みんながカザリアさんの技を学ぶ必要性はないんですよ。カザリアさんもみんなに教えておかないと、と気張る必要はないんです」
だからこれ以上おおごとにならないようにカザリアさんもしっかりここで治していてくださいね、とロウリエは表情だけはぽけぽけと付け加えた。
『投げるの禁止令』が撤回されたのは、肩を痛めた全員が正常に手を挙げ、腕を回せるようになった一週間と三日後のことだった。
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