コックのジルさんと農家の娘さんの話

 どうしましょう。とっても困ったことになってしまいました。

 考えれば考えるほど、どうしてあんなにも驚いてしまったのか不思議で仕方がありません。

 なんて失礼なことをしてしまったのでしょう。

 今すぐあの時あの場所に引き返していって、過去の自分を叱りつけてやりたい気分でいっぱいです。

 もう! 本当に私ったら、なんてことをしでかしてしまったの!

 一体ジルさんになんと謝ればいいのやら。

 そうですね。ここは、もう一度、あの時からの出来事を一つ一つ確認していった方が良い案が浮かぶかもしれません。ええ、そうです。ない知恵絞ってでも何か案を考え出してみせます。


 ジルさんは領主様のお屋敷のコック長さんです。

 一方、私はしがない農家の一人娘です。

 ありがたいことに、領主様は我が家を含めた、ここ周辺の農家全体のお得意様。ですから、私は近くの農家を代表して、いつも畑で獲れた野菜を領主様のお屋敷に運んでいます。

 あの時も、そうでした。私は、荷馬車にゆられて野菜を届けにいったのです。

 けれど、いつもと違っていたのは、普段対応してくださるはずのリックさんがいらっしゃらなかったこと。後で、伺いましたら、案の定、例の日はお休みだったとのこと。そういうわけで、私は、さてどなたに声をかけたらよいものかと思案しておりました。

 と、言いますのも、時間帯が悪かったせいか調理場にいる皆さんは忙しそうに慌ただしく仕事をしておりました。裏口に立っている私にはとても気付いてもらえそうにはありませんし、とても声をかけられる雰囲気ではありません。

 こんなことならば、門で声をかけてきた人に野菜を渡してしまえばよかった。そう思ってしまった私は、いやいや、と頭を振って弱気な自分を追い払ってやりました。

 とても口には出せない理由から、材料は直接調理場に届けるようきつく念を押されているのです。素性も知れぬ人に大切な野菜を渡すなどと、そんな浅はかなことできるはずがありません。

 私たちからしてみても、丹精込めて作った野菜にいたずらされるなんてたまったものではありません。

 私は、さぁ勇気よ奮い立て! とばかりに固く握った拳を振り上げました。

「何をしているんだ?」

 ぬっとあらわれた人影。人に声をかけるにしては大きすぎただみ声に私は飛び上がってしまいました。

 ずんぐりとした岩のような巨体。数人がかりで一生懸命押しても、その男の人はびくともしそうにありません。

 太い眉毛がひくりと吊り上げられます。険のある目がぎょろりと向けられました。恐いです。正直かなり怖いです。

「ひっ」

「ああ、野菜を届けに来くだすったのか」

「え、えええ。ややややっややさいなんです」

 怒鳴り声にしか聞こえない声に、私は答えるのがやっとでした。ちょっぴり涙目になってしまったのは無理もないことだと思います。

 びくびくと立ちつくしてしまった私の横を、ずかずかと通り過ぎた彼は、荷台の野菜を確かめ始めました。むんずと掴んだ野菜をしげしげと検分しながら、一つ一つに頷いていきます。

 一体、この大男さんは誰なんでしょう。もしかしなくとも、この方は例の――領主様のお命を狙う怪しい輩なのでは! だって、見るからに危ない人オーラが出ています。

 ここは、何とかこの大男さんを追い払わねば。

 あるいは、誰か人に助けを求めに行かなけれ――

「今回の大根は随分と小さいんだな」

 睨みのきいた目を向けられた私は、飛び上がりました。あまりにもどすのきいた声に、後ずさることしかできませんでしたとも。

「すすすすすみません!」

「いや、別に怒っ、」

「ごーめーんーなーさーいー!」

 ええ、なんとでも仰ってください。所詮私はしがない農家の一人娘。自分の身かわいさに、遁走してしまいましたとも。どんなに大切な野菜だって、ほっぽり出して逃げてしまいましたとも。荷馬車まで置いて帰った私は、お母さんにこっぴどく怒られてしまいましたが、お父さんが止めてくれたので、何とか夕食抜きは免れました。

 そんなこんなで、翌日、あの大男さんに会えないといいな! とびくびくしながら野菜の配達に出かけた私は、リックさんが迎えてくれたことにどれだけ安心したことか。思わずほろりと涙まで零してしまいました。なぜだか分かりませんが爆笑しているリックさんに、衝動的に抱きついてしまったくらいです。

 しっかりと納品を済ませ、ようやく落ち着きを取り戻してきた私は、そこでリックさんが爆笑していた理由を教えてもらいました。

 つまり、リックさんが言うにはこういうことなのです。

 昨日の大男さんはここのコック長さんでジルさんということ、元来大声すぎるきらいがあること、強面で厳しい人だけど心根は優しい人なのだと。ここのコックはみんなジルさんを尊敬しているのだと言っている割に、相変わらず笑い続けているリックさんには突っ込まない方がよろしいのでしょうか。

 ですが、分かったことは、ジルさんを恐がる理由はないのだと言うこと。思い返すと、ジルさんには野菜のことしか聞かれていないのです。私は、あの時逃げるのではなく小さい大根しか獲れなかった理由を述べるべきだったのです。

 ジルさんが、ぬっと姿を現したのは、私が自分の失敗に落ち込んでいた時でした。

「その、先日は」

「ひっ!」

 すみません、すみません。分かってはいるのですが、やっぱり昨日感じた恐怖が抜けないみたいです。

 飛び上がった私は、反射的にリックさんの後ろに隠れてしまいました。

 リックさんが肩を震わせて笑っております。リックさんの他にも笑い声が、たくさん聞こえるのは気のせいではないようです。

「いや、コック長、強面だからなぁ」

「俺もはじめはびびったしよぉ」

「確かに、あの子にしてみれば恐いでしょうね」

「私だって未だに声かけられると叫んじゃう時があるもの」

「目つきも悪いしな!」

 あはは、うふふ、と皆さん言いたい放題です。皆さんの脇で、ジルさんの肩が次第に落ちていっているような気がしました。

「驚かせて、すまなかったな」と、普通の大きさの声が聞こえます。予想外にも優しい声でした。

 リックさんの背中から、少しだけ顔を出して覗いてみると、すごすごと調理場に戻って行くジルさんの姿がありました。

 大きな背中が、哀愁を背負っています。なんだか、私まで悲しくなってしまうような背中でした。

 そうして、ジルさんは、それからは裏口に出てくることがなくなってしまいました。

 調理場にはいるようです。仕入れの後、調理場の窓からこっそりと覗いて確かめたので、間違いありません。

 毎日、毎日、窓からジルさんを覗いていた私は、ある日はっと気付いたのです。「すまなかったな」と言ったジルさんの声は、きっとジルさんにしてみれば注意深く小さく出してくれたものだったのでしょう。だって、私は、あの時驚いてとび跳ねたりなんかしませんでした。

 それに。

 それに、です。ジルさんは、あの日、私に謝ってくれましたが、むしろ謝るべきは私の方だったのです。ジルさんは何も、悪いことをしていません。私が勝手に驚いてしまっただけなのですから。

 何とかジルさんに謝らなければ。

 そう決心した私は、くる日もくる日も、配達の後に調理場の窓に張り付いていたのですが、ジルさんが裏口に出てきてくれそうな気配はありませんでした。

 そうして、今、私の目の前にはアップルパイがあるのです。

 今日も今日とて、ジルさんに謝ることができなかった私は、とぼとぼと家に帰ってきました。

 すると、リックさんが家にやって来たのです。このアップルパイを持って。リックさんは言いました。

 これ、コック長がつくったんだよ、と。

「何とかきちんと謝りたいと思ってたみたいでね。かなり落ち込んでたみたいだね、あの人。ニナは甘いのが好きみたいですよって教えてあげたら、今日の夕方にはできあがってたんだ、これ」

 食べてあげて、とそれだけ言ってリックさんは帰って行きました。

 ジルさんは本当に何も悪くないのです。

 それなのに、家には謝罪のアップルパイが届いてしまいました。ジルさんが手ずから焼いてくださったのだというアップルパイがワンホールも。

 領主様に雇われるだけでも、すごいコックさんでしょうに、加えてジルさんはそのコックさんたちを纏めるコック長さんなのですよ。

 もう、私は、一口かじっただけで、頬が落ちるどころか気絶するかと思いました。

 季節は冬。辺りにリンゴの気配は一切ありません。きっと秋に摘み取って漬けておいた大切なリンゴをアップルパイに使ってくださったのでしょう。

 ああ、なんてもったいないことを。だけど、なんて優しい味なのでしょう。

 私は、一人でアップルパイを食べてしまいました。さすがにお腹がすこしばかり苦しいですが、とっても美味しく頂きました。

 この気持ちを、ジルさんに伝えなければなりません。だって、私は、もうジルさんのことを恐い人だなんてちっとも思えないからです。

 私は、勇気を奮い立たせました。

 一目散に駆けて行って、何も載っていない荷馬車を領主様の屋敷まで走らせました。

 ジルさんがいるかなんてそんなこと関係ありません。だけど、ジルさんに会えたらいいな! と思いながら、馬車を走らせました。

 果たして、ジルさんは、まだ調理場にいらっしゃいました。たった一人で、後片付けをしているようでした。

 調理場の裏口に立った私は、息を切らして、切らし過ぎて、苦しくって、泣いてしまいました。

「じ、ジルさん!」

 ジルさんが振り向きます。泣いている私にぎょっとした様子でした。

「ど、どうしたんだ!」

 ああ、なんと大きい声でしょう。初めて会った時と変わらぬ、だみ声です。耳を塞ぎたくなるような大声です。

 ジルさんは、慌てて口を両手で塞ぎました。

 その仕草が可笑しくって、私は込み上げる笑いを抑えることができませんでした。

 泣きながら、笑い続ける私に、ジルさんは困惑気味でした。無理もありません。私だって、ジルさんが笑いながら、大泣きしていたら、びっくりすることでしょう。

「ジルさん」と、私は、顔を上げます。

 さぁ、頑張れ私。やっとこの時が来たのだから。

「アップルパイ、おいしかったです」

 私は、溢れる笑みを止められませんでした。

 だって、分かってしまいました。ジルさんはとっても優しい人なのです。

 だから、きっと、私はもう、ジルさんにどんなに大きな声で話しかけられたって、飛び上がったりはしないでしょう。

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