第6話 羽化する薔薇

 それは持ち主に幸運を引き寄せる宝石。

 それは持ち主を絶頂へと登らせる宝石。

 宝石の名は「黒き薔薇」。15カラットはくだらないだろう、巨大なブラックダイヤモンドのブローチである。

 それは、飾り気のないブローチだ。ローズカットを施されたダイヤモンドの周りを、プラチナが蔦のように縁取っただけの、簡素な代物だ。

 しかしそのブローチは…否、ブラックダイヤモンドは、手にした者に莫大な富や栄光、あるいは幸福を与える宝石と言われていた。

 市場へ出る事はまず望めない。あるのは、裏での取引と駆け引き。そして争い。

 それらの血を吸収したかのごとき黒をまとって、そのブラックダイヤモンドは今尚どこかで美しく煌めいている―――。


***


 ――これはブラックダイヤモンドのブローチが「黒き薔薇」になるまでの物語。

 一人の青年のある幸福が招いた、密やかな物語。


「君は美しい宝石だね。ようこそ、ここは僕の家だよ」

 青年は宝石にそう語りかけた。宝石は何も答えない。当たり前だ、ただの石なのだから。

 それはブローチだった。

 15カラットはくだらないブラックダイヤモンドが、蔦のような意匠を施されたプラチナの台座に嵌め込まれているブローチだ。

 一見して簡素な代物であるが、青年はそれをこれ以上ない宝物のように扱った。

「少し狭いし、たくさんの宝石があるけど、気にしないで。君のために特別にあつらえさせた飾り台もあるんだ」

 それは、ワインレッドのベルベットをかけられた台だった。透明なケースの中に、青年は震える手で置いた。

「あぁ…。美しいよ…!とても、綺麗だ…」

 青年はベルベットに包まれた台座の中心に座すブローチを、感嘆しながら眺めていた。

 ふと思い立ったように、青年は銀で出来た、大きなプレートを部屋の奥から持ってきた。

「君にも名前がないとね。「黒き薔薇」、なんてどうだろう。君のローズカットは、何より君の美しさを引き立てていると思うんだ」

 銀色の板には、黒い文字で「黒き薔薇」という意味の言葉が彫られていた。

 それをガラスケースの台の下へと取り付けて、青年はそこに跪いた。

「改めて、僕の家へようこそ。「黒き薔薇」。…これから宜しくね。僕のお姫様」

 ブローチは何も答えなかった。青年は満足したように立ち上がって、ガラスケースをしばらくうっとりと眺めていた。

 青年は、宝石の収集家であった。熱心な収集家で、収集した宝石全てに、名前を付けて大切に扱っていた。誰かにそれを売るときや、預けるときは、殊更に大事にするよう言い含めるような変わった収集家であった。

「石には力が宿っているんだ。彼女たちは一人の淑女のように丁寧に扱ってあげてほしい。何故って、宝石は地球が生み出した、奇跡なんだからね」

 それが青年の口癖であった。周囲の収集家たちは、彼を一風変わった物好きとして扱った。

 「黒き薔薇」がやって来た翌朝も、青年は一つ一つの宝石たちに声をかけた。どれもこれも青年にとっては美しい女性のように見えているに違いなかった。それほどまでに、優しく甘やかな言葉たちだった。

 最後に「黒き薔薇」の元へと歩いて行って、うっとりとその姿を見つめた後、青年は声をかけた。

「ここの居心地はどうかな、お姫様。君がこの家を気に入ってくれているなら良いんだけど。…もし気に入らないことがあったら、教えてくれて構わないよ!僕は君に惚れこんでいるんだからね」

 それにブローチは、当たり前だが何も答える事は無かった。青年は鼻歌を歌いながら、宝石たちの部屋から出て行った。

 ある時、青年は「黒き薔薇」の手入れをしながら、こんな講釈をした。

「ダイヤモンドというのはね、マントルと炭素分子が要因で生まれるんだ。キンバーライトという石が君たちの母岩になる。それが超高温と超高圧状態で、地中から地表へと一息に移動する事で、炭素分子の結合が結晶を作り…それが磨かれる事で、君のような美しい宝石が生まれるんだね」

 台座のプラチナを磨きながら、青年は講釈を続けた。

「この地球上にある物質の内、天然の物質としては世界で一番硬いとされているんだよ。君を磨くためには、他のダイヤモンドでなければ出来ないんだ」

 すっかり美しく磨き上げられたプラチナの台座と、手入れを施されたブラックダイヤモンドを見つめながら、青年はそれを壊れ物のように恭しくガラスケースの中へと戻した。

「…おやすみ、「黒き薔薇」。良い夢を」

 青年はライトを消して、宝石たちが眠る部屋の扉を閉じた。そこは、厳重な金庫でもあり、青年専用の観賞部屋でもあった。

 ブラックダイヤモンドのブローチは、黙したまま、その部屋に座していた。

 またある日の事。青年はガラスケースの中の「黒き薔薇」を見つめながら、寝物語をするかのように語りかけた。

「ダイヤモンド、という言葉の起源はギリシアまで遡る。その元々の意味は――「征服されない」。まるで君たちのためにあるような言葉だと思わないかな?」

 答えるようにブローチはちかりと瞬いたような気がした。

 青年は、うっとりとした声で続けた。

「君のように色が付いたダイヤモンドは、希少だ。ダイヤモンドという石は黄色みがかったものの方が多く産出される石でね。宝飾品の業界でもてはやされているような、完全に無色透明の原石というのは、中々存在しないんだ」

 ガラスケースにそっと触れて、青年はまるで愛している人間に語りかけるような声音で「黒き薔薇」に話しかけ続ける。

「けれど、極稀に、ブルーやピンク、グリーン…そして、ブラックのダイヤモンドが生まれる事がある。これらの石は、とても高値で取引されているんだ。素晴らしいよ。君のような大きなカラーダイヤモンドというのは、本当に、とても、珍しいんだからね」

 それから青年は、ふと言葉を漏らした。

「…君が人間だったら。きっと、まるで薔薇のように美しい少女なんだろうね」

 そう言ってから、青年はおかしそうに一人で笑った。

 ブローチはそれをただ黙って聞いているように見えた。

「おやすみ、「黒き薔薇」。良い夢を見ておくれ」

 それはまるでまじないだった。

 一人の人間のように扱われたブラックダイヤモンドのブローチは、そのまじないを自身の中に溜め込んでいるようにも見えた。

 やがて、そのまじないは力を持ち始める。

「君のようなブラックダイヤモンドは、今では熱処理が施されている事が大半だ。色をより美しくするためにね。けれど、君は違うんだね。天然の色で、ここまで美しいブラックダイヤモンドを見たのは、僕は初めてだよ」

 青年はそのブローチをまるで一人の淑女のように扱った。事あるごとに語りかけ、あるいは名を呼び、その美しさを褒めた。

 ――そして、やがてそのまじないの蕾は、麗しく咲き誇る事になる。

「君のカットの仕方は、ローズカットと呼ばれていてね。主流になりつつあるブリリアントカットとは違う、人工の光や、ろうそくの明かりなんかに美しく映えるような設計のカットなんだ。…君は、夜会の薔薇なんだよ」

「まぁ、嬉しい」

 青年は顔を上げた。

 「黒き薔薇」を入れたガラスケースの隣に、いつの間にか黒いベルベットのドレスをまとった黒髪の少女が立っていた。

 青年は驚き、どうしてここに入れたのかと思案を巡らせた。

「君は、誰だい?どうしてこんなところに居るんだ?」

「あなた、私を褒めてくれているのに、分からないの?」

 その言葉に青年ははたと気付いた。はなはだあり得ない事ではあるが、この少女は、「黒き薔薇」、そのものなのだ。

 しかし青年は迷う事なく少女の手を取り、目の前に跪いた。

「…あぁ。…やはり、君は薔薇のように美しい少女だったんだね…。…僕のお姫様」

 青年はやがて、他の宝石を全て信用のおける者たちへと売り払った。少女と青年と、「黒き薔薇」だけが、その家にはあった。

 それだけで満たされた青年は、少女に一つの呪いを齎した。

「………「黒き薔薇」。君は、多大な力を持った宝石だ。だから、きっと君はたくさんの人生をこれから見るだろう。そして、僕のように幸福を与えていくんだろうね」

 まるで少女にとり殺されていくかのように衰弱した青年は、それでも「黒き薔薇」を愛し続けた。

「…君は、人間を愛してくれ。そして、君の楽しみを、見付け出して。いつか……君は、幸せになって…」

 青年はそこで力尽きるように眠りについた。

 少女はブローチを胸に着けて、青年の眠る部屋を後にした。少女はいつの間にか、黒いヴェールの付いた帽子を身に着けていた。それには銀色で「memento mori」と刺繍されていた。

 少女への呪いのような祝福は、今ここに成ったのだった。

「えぇ。分かったわ。 私は、人を愛しましょう。そして、死を記録しましょう」

 歌うようにくすくすと少女は薔薇のように笑い、そして行方を眩ませた。


 ――…こうして、「黒き薔薇」は、少女という花を咲き誇らせる事となったのだった…。

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