第5話 悲哀の二重奏
それは持ち主に幸運を引き寄せる宝石。
それは持ち主を絶頂へと登らせる宝石。
宝石の名は「黒き薔薇」。15カラットはくだらないだろう、巨大なブラックダイヤモンドのブローチである。
それは、飾り気のないブローチだ。ローズカットを施されたダイヤモンドの周りを、プラチナが蔦のように縁取っただけの、簡素な代物だ。
しかしそのブローチは…否、ブラックダイヤモンドは、手にした者に莫大な富や栄光、あるいは幸福を与える宝石と言われていた。
市場へ出る事はまず望めない。あるのは、裏での取引と駆け引き。そして争い。
それらの血を吸収したかのごとき黒をまとって、そのブラックダイヤモンドは今尚どこかで美しく煌めいている―――。
***
彼女は、病棟で暮らしていた。とある病気が、彼女を蝕んでいた。
病棟で暮らしていると言っても、日中は付き添いがあるものの、外を出歩く事すら許されていた。
彼女を蝕む病とは、ある存在の事だった。彼女の精神の中には、男性が存在している。人はそれを、多重人格と呼んでいた。
彼女は時折、自身の中に存在する男性に対し、手紙を書いていた。その殆どは医師によって管理されていた。問題の無いものだけを選んで、男性に見せているようだった。
副人格であるところの男性から、その手紙に対する返信は、一度として無かった。それでも、彼女は手紙を書き続けていた。
ある時、初めて男性から手紙の返信があった。それは、小さな包みと共に贈られていた。
手紙が括りつけられた小包の中には、小さなブローチが入っていた。
銀色の蔦が周りを取り囲んだ、簡素な黒い石のブローチだった。手紙には、彼女に似合うだろうと思って、彼が選んで贈ったものだと綴られていた。
初めての事に、彼女は小躍りするほどに喜んだ。嬉しくて、その日は遅くまで寝付けなかった。
彼女はそのブローチを、嬉々として着けた。どこへ行くにも、どのような格好でも、着けて歩いた。
男性からは相変わらず手紙の返信は無かった。それでも、たった一通。送られたその手紙を、彼女は大事にしまい込んでいた。
ある時、彼女は部屋に見知らぬ少女が居る事に気が付いた。最初は迷子だろうと思い、看護師を呼んだ。
しかし看護師にその少女は見えず、逆に彼女は新たな病を心配された。
以来、彼女にしか見えない少女は部屋に居続けていた。
自身の中に居る男性に、その事を手紙で相談した事もあった。しかし返答は無かった。
彼女はある時、少女に尋ねてみる事にした。
「あなたは誰なのかしら?」と。
黒い髪に黒い瞳。陶磁のように白い肌を持つ少女。喪に服す時に着けるようなヴェールとドレスは、まるで彼女の白い肌を際立たせているかのようだった。
薔薇のような微笑みで少女は答えた。
「私は私よ。それ以外の何物でもないわ」
「そうなの? あなたは何だか、とても綺麗な子なのね。とても羨ましいわ」
「そうでしょう?私はとても美しいのよ」
彼女はそこで自身の幻覚をまず疑い、そして何か新しい病にでも罹ったかと思った。
しかしどのような薬を処方されても、少女の幻覚は消えなかった。どころか、美しさ、艶やかさを増しているようにすら見えた。
そう、まるで、自身が身に着けているこの宝石のような。
思い至ってしまったら、まるでその少女の姿は、この宝石のようだとすら思えてきた。それほどに、少女は美しかった。
彼女はその少女と、いつしか会話をするまでになった。
「あなた、本当に美しいわね。なんてお名前をしているの?」
「そうね、「黒き薔薇」と呼ばれているわ」
「ふしぎなお名前なのね。でも、あなたにとてもよく似合っていると思うわ!」
彼女はそれから、身近にあった古書店で「黒き薔薇」について書物で調べた。看護師は訝しがって、薬が増えた。それでも彼女は気にしなかった。
ただ、自身の中に居る男性の真意が知りたい。それだけの行動だった。
ある時、彼女は病院に訪れていたある老人から、この宝石の事を…「黒き薔薇」の事を知った。
いわく、その宝石は、持ち主に幸福と、絶頂を齎す物であるという噂があると。
彼女はその言葉に、無邪気に喜んだ。素晴らしい物を、他でもない男性から貰ったのだという事に、彼女は舞い上がった。
しかし、老人の言葉には続きがあった。
その宝石は、実際には、持ち主にいずれ不幸と死を与える物であるという物である、という続きがあった。
何の事は無い。それはただ、自身を殺すために用意された毒薬だったのである。
彼女は嘆き、大いに悲しんだ。この世の終わりかと思うほど、悲しんだ。彼女は、自分の中に居る男性を、家族のように思っていた。故に、その贈り物に隠された真意に、ひどく傷付き、苦しんだ。
ある日、少女が珍しく自分から口を開いた。「あなたは不思議ね」と、それだけ言った。
彼女にはその言葉の意味が分からなかった。
「何が不思議なの?」
多重人格である事は、少女はきっと知っているはずだ。自身の生み出した妄想である限りは。
彼女はそう思って、聞き返した。
「だって、あなた」
少女は艶やかに笑って、こう告げた。
「男のひとなのに、女のひとのような事を言うのね」
彼女はその時、全てを理解した。
己は、本当の己は、彼の方であったのだと。
彼自身が殺したいほど憎む理由も、返ってこない手紙の事も、彼女は理解した。
彼女は割れた鐘のように鳴り響く頭痛を堪えて、少女に尋ねる。
「どうやったら、私、彼の願いを叶えられるかしら」
少女は匂い立つ薔薇のような笑みを深めて、窓を指さした。それだけだった。
彼女は安堵したように笑いながら、唯一の男性から送られたあの手紙を握りしめて、窓から飛び降りた。
――より厳重に警戒された部屋の中で、一人の人間が笑っていた。
「これで俺は俺に戻った!ありがとう、「黒き薔薇」!俺の人生が、やっと戻って来る!」
目覚めた時、『彼女』は消え失せていた。男はこうして、男に戻った。
少女は男の言葉に何も答えず、ただ笑みを浮かべているだけだった。
そこに、医師が入ってきた。経過を観察している、主治医だった。
主治医の手に握られている紙の束に、男は目を留めた。
「それは?」
主治医は静かに告げた。
「君が書いていた手紙だよ」
男は手紙など書いた覚えは無いと思いながら、一つ読んでみた。
『名も知らぬあなたへ。
今日はプランターに植えた花が咲いたの。あなた、花は好きかしら?
好きな花があったら、教えて。次はそれを植えてみようと思うの。どうかしら?』
もう一通、男は読んでみた。
『名も知らぬあなたへ。
今日はあなたの誕生日だと聞いたわ。ケーキを一緒に食べることはできないけど、あなたをお祝いしたい。
お誕生日おめでとう。あなたが幸せな日を過ごせますように。
どうかこのお手紙だけでも、あなたに届くと良いのだけれど。』
震える手で、もう一通、男は手紙を開いた。
『名も知らぬあなたへ。
明日の天気は、珍しく晴れですって!散歩は楽しいから、あなたもきっと好きだと思うの。
あなたはどこを散歩するのが好きかしら。いつか教えてね。
それから、今日もらったブローチ、とても大事にするわ!すてきな贈り物を、どうもありがとう!』
短い言葉が書かれた便箋が、男の目に留まった。
『名も知らぬあなたへ。
あなたに人生を返します。
これからは、あなたの人生を生きてください。
楽しい日々を送ってね。 約束よ。』
男の手は、便箋を破らんばかりに震えていた。
手紙に綴られた物事。それは紛れもなく、男の殺した『彼女』の言葉だった。
――ひたすらに、優しく『彼』を慈しんでいた、『彼女』の心だった。
男は本気で『彼女』を殺したいほど憎んでいたわけではなかった。自分の人生を、単に取り戻したかっただけだったのだ。
「こんな、こんな事に、なるなら、俺だって、あんな物、贈らなかった…。死ぬだなんて、そんな事、本気にしてたわけじゃないんだ、ただ…ただ……」
男の言葉はもう、続かなかった。
手紙の束を握りしめて、茫然としている男を見つめながら、少女は咲き綻ぶ薔薇のようにくすくすと無邪気に笑った。
「大切なものって、近くあるのに気付けないのねぇ」
ブラックダイヤモンドのブローチが、答えるようにきらりと光っていた。
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