第2話 善意の殺害

 それは持ち主に幸運を引き寄せる宝石。

 それは持ち主を絶頂へと登らせる宝石。

 宝石の名は「黒き薔薇」。15カラットはくだらないだろう、巨大なブラックダイヤモンドのブローチである。

 それは、飾り気のないブローチだ。ローズカットを施されたダイヤモンドの周りを、プラチナが蔦のように縁取っただけの、簡素な代物だ。

 しかしそのブローチは…否、ブラックダイヤモンドは、手にした者に莫大な富や栄光、あるいは幸福を与える宝石と言われていた。

 市場へ出る事はまず望めない。あるのは、裏での取引と駆け引き。そして争い。

 それらの血を吸収したかのごとき黒をまとって、そのブラックダイヤモンドは今尚どこかで美しく煌めいている―――。


***


 その宝石が手元にやってきたのは、とある裁判を終えた後の事だった。そう男は記している。

 涼しい秋口の頃合いで、人々の装いはまだ軽やかであった時期の事だった。

 唐突に、ブラックダイヤモンドのブローチが届いたのである。

 見覚えのない意匠のブローチを、最初男は届け間違いだと思った。しかし、それを持ってきた少女曰く、自分のものであるらしかった。

 男は少女にも見覚えがなかった。陶器のように白い肌。黒いワンピースとボレロ。黒髪の上には、銀色で「memento mori」と刺繍された黒いレースと羽根飾りが付いた帽子を被っていた。

「……これを届けてきたのは誰だ?」

「私を届けろ、とおっしゃった方の事かしら?」

「違う、あなたじゃない、この宝石だ。これは一体何だ?」

 全身黒ずくめの少女は、咲き誇る薔薇のように艶やかな笑みでもって答えた。

「――「黒き薔薇」、よ」

 黒き薔薇。その名は自身にも聞き覚えがある。

 だが、それがどうしてここにやって来た?

 男は考えた。そして、ある一つの結末に辿り着いた。

「俺を引きずり降ろそうと企む者からか」

「さぁ?それは知らないわ。けれど、今日からあなたは私の持ち主になるのよ」

「奴隷制度はとっくのとうに廃止に追い込んだ。あなたは家に帰ると良い」

「それは出来ないわ。この宝石は、私と分かちがたい縁があるの」

 男はそれを聞くと、少女の背を押しながら玄関まで進んでいく。

「であればその石を持って、どこへなりとも行くが良い。聞けばその石、不幸を引き寄せるそうじゃないか」

 少女はその言葉にくすくすと屈託なく笑った。

 それから、唇を柔らかく動かして言葉を紡いでいく。

「えぇ。けれど、それ以上に、富と栄誉を約束するわ」

「そんな物に興味はない。俺は、いや、私は、自らの正義に則って、あなたをこの屋敷から追い出す」

「――それが、裁判官としてのあなたのやり方なのね」

 男は、ぎくりとした。

 男の職業は、裁判官だった。清廉潔白で、何一つ汚れのない経歴。それだけが誇りの、正しき裁判官だった。

 だが、男はすぐに気を取り直して咳払いを一つし、それから少女に威圧を与えるような声音で告げた。

「それがどうした。私は私のやり方を貫くまでの事だ。他人から与えられる名誉など、嬉しくない」

「そう。ではそのように伝えるわ」

 少女は玄関から出て行った。

 それきり、男はその少女の事を忘れて過ごしていた。

 だが、数日も経たぬ内に、少女はまたやって来た。同じ服装、同じ顔、同じ態度で、胸元に輝くブローチの位置までそっくりそのまま、最初と同じだった。

 男は困惑しながら、妻に尋ねた。

「これはどういう事だ?」

「こちら、贈り物なんですって」

「馬鹿を言うんじゃない、これは「黒き薔薇」だぞ!何故受け取った?」

「そんな、そんな事、ちっとも……」

 妻はうろたえた。彼女は何も知らなかったのである。可哀相なほどに震えて、夫である男に許しを請うた。

 それを男は許した。それが正しい事だと、男の中では決まっていたようであった。

「…分かった。では、この家にしばらく置いておこう」

 妻はほっと息を吐いた。それまで青ざめていたのが嘘のように頬は薔薇色に染まって、ブローチに興味を示し始めた。

「でも、あなた。見て。これ、とても綺麗よ。とても不幸を呼ぶだなんて思えないわ。…それに、この子、行き場がないそうなの…。この子も家に置いてやったら…」

「あぁ、あぁ。分かった。その通りにしよう」

 それが正しい事だとでも言うように、男は速やかに便宜を取り計らった。

 少女はその様子を、まるで楽しい遊戯を見ているかのように、微笑んだまま見つめていた。

 男はそれも気味悪く思い、けして少女の傍へと近寄らなかった。

 時は進み、やがて男は仕事で大きな成功を収めた。

 通常の仕事では得られぬような報酬。そして栄誉。自ら勝ち取ったそれらに、男は満足していた。

 男にはそれ以来、大きな仕事が度々舞い込むようになっていった。

 それらを成功に導く度毎に、男の中では、自身の正しさがようやく世間に認められたのだと、満足していた。


 あるとき、男はひどく機嫌が良かったので、普段寄り付かぬ少女の居る部屋へと向かった。

 何やら話し声がしたので、一応扉をノックしてから、男は入った。

 そこには妻と少女が二人、ソファに仲良く並んで座っている。男は、妻が可愛らしい物を好むのを知っていたので、この少女をいたく気に入ったのだと思った。

「どうだ、この家の居心地は」

「えぇ、とても良いわ」

 少女は大輪の薔薇を思わせる、深みと艶やかさをもった笑みを浮かべていた。

 男は良かったはずの機嫌がさかしまに落ちていくのが分かった。自身はこの少女に、何か恐れをなしている。男にとってそれは許しがたい過ちであった。

 黙って男は部屋を出た。妻が付いて来ない事にも、不満が募っていくのが分かる。

 やがて、男は新たな法を定めた。汚職についての法だった。

 その事で男の名は世間に知らぬ者が無いほどになったのだった。

 男は最早、有頂天だった。幸福とはかくあるものだとさえ思った。

 そしてその気分のままに、少女の部屋を訪れた。不幸がやって来る前に、あの宝石を処分するためだった。

 ノックもせずに入った部屋の中。

 慌てて妻が隠した、何らかの書類が目に留まった。

「どうしたんだ。何があった。見せてみろ」

 妻は頑として首を縦に振らない。どころか、怯えたようにソファに縮こまっていた。

 再び男が見せろと言うが、やはり妻は首を横に振るばかりであった。

 とうとう焦れた男は、妻の手を無理やりに出させて、書類を奪い取ってしまった。

「……なんだ、これは」

 そこに書かれていたのは、今まで男が請けていた仕事についての事だった。

 もっと言えば、その仕事を請けるために使った、裏金やら、偽の書類やらについての事だった。

 最初から、騙されていたのだ。

 自身は清廉潔白などではなかった。

 男はそれに気付いて、絶望した。おかしくもないのに笑った。笑うしかなかったのだ。

「おい。おい、「黒き薔薇」よ!見たか、聞いたか、俺は、私は、何の事はない、ただの薄汚いドブネズミだったのだ!」

「……そうね。あなたが知らないだけで、周りは汚泥だったわ」

「はは、ははは! おかしい、おかしくってたまらない!これが、これがお前の運ぶ不幸か!知らなければ、知らないまま生きていければ、私は、俺は、それで良かったものを!」

「そうね。あなただけが知らなかったのよ」

 少女は怨嗟の声を浴びながら、尚も美しく艶やかに微笑っている。

 まるで朝露の中、開いた薔薇のように、匂いたつ美しい笑みだった。

「おい、「黒き薔薇」!俺の願いを叶えろ!今すぐ、この腐った汚泥のような真実を、俺に忘れさせるだけの事をしてくれ!!」

「お安い御用よ」

 少女はそう言って、艶やかな微笑を浮かべた。

 それからすたすたと少女は歩く。男はその後を追いかけた。

 やがて、廊下に辿り着いた時。少女は笑って男へと振り向き、ワンピースの裾を持ち上げた。

「それでは。ごきげんよう」

 その言葉が終わるか終わらないかの内に、男の真上から、彫像が降ってきた。

 彫像に押しつぶされて死んだ夫にすがりながら、妻は泣き叫んだ。

「あなた、あなた…!あぁ、あぁ、許して、許して…!あなたの夢を、私、どうしても叶えてあげたかったの…!それだけだったの…!」

 もう届かない叫びを聞きながら、少女は笑って屋敷を後にする。

 後日の新聞には、法を司っていたある男の悲惨な死の報告が、隅に載っていた。

 己の正義を信じた男は、その信じた正義の裏切りによって、自らの死を選んだのであった。

「人間は愚かね。知らなくて良い事を知って、失望するだなんて」

 少女はそう言って、ブローチをいじくったのだった。

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