黒き薔薇
山路 桐生
第1話 語る宝石
それは持ち主に幸運を引き寄せる宝石。
それは持ち主を絶頂へと登らせる宝石。
宝石の名は「黒き薔薇」。15カラットはくだらないだろう、巨大なブラックダイヤモンドのブローチである。
それは、飾り気のないブローチだ。ローズカットを施されたダイヤモンドの周りを、プラチナが蔦のように縁取っただけの、簡素な代物だ。
しかしそのブローチは…否、ブラックダイヤモンドは、手にした者に莫大な富や栄光、あるいは幸福を与える宝石と言われていた。
市場へ出る事はまず望めない。あるのは、裏での取引と駆け引き。そして争い。
それらの血を吸収したかのごとき黒をまとって、そのブラックダイヤモンドは今尚どこかで美しく煌めいている―――。
***
これから語られるのは、ある男の享楽と狂気、栄光と転落の物語だ。
それらを引き寄せたのはただの宝石。ブラックダイヤモンドである。
男はそれを、闇オークションで手に入れたと記録している。
闇というからには、非合法な物だらけだと想像されるだろうが、実際はそうでもない。
遺族が処分に困った絵画、買い手の付かぬ彫像、要するに『いわくつき』の品々がそこに流れ込むわけである。
正規の価格ではないだろう。しかしその価格を払っても惜しくない品が、出ているのだ。
今回は、いつにもまして、熱気が会場に漂っていた。それもそうだろう。
――「黒き薔薇」。宝石収集家のみならず、コレクターであれば誰もが知る、珍品中の珍品。それが出品されたのだ。
希少などという言葉では生ぬるい。極々稀にしか現れない、そのブラックダイヤモンド。
それが、闇オークションである男の手に渡ったのだ。
男は、そのブラックダイヤモンドに付いてきた、ある付属品についても手記に書いている。
少女だ。
齢15にも満たないだろう、儚げな美貌の少女である。
上下真っ黒なドレスをまとい、頭には喪服でよく使われる銀色で刺繍がされた黒いレースと、黒い羽根が付いた帽子をかぶっている。
髪も瞳も、肌以外の全てが真っ黒で、まるで影のような少女だと、男は思った。
少女はその年齢には相応しくないだろう薔薇のような、妖艶な笑みを浮かべて、ブラックダイヤモンドのブローチを胸元に着けていた。
そう、付属品とは、この少女の事であった。
「……君は一体何者なんだ。いや、それより君は何故ブラックダイヤの付属品なんだ」
男の問いに、少女は笑みを崩さず、ドレスを持ち上げて一礼したという。
「何者か、という問いは愚問でしょう。あなたは私の主になったのですもの」
「宝石の管理者か?」
「そうと考えてくださっても構いませんわ」
このブラックダイヤモンド…つまり、「黒き薔薇」はどんな宝石よりも管理が難しい宝石だと、男は噂に聞いていた。
管理者が居るのならば任せよう。男は単純にそう考えた。
「ブラックダイヤモンドに触れるなら、わたしの許可を得てからにしてくれ」
「まぁ、あなたはご自分に触れるのに、許可を誰かに得るの?」
おかしな人ね、と、少女はくすくす笑った。
「…とにかく、わたしの許可なくしてその石に触れるんじゃないぞ」
「えぇ、えぇ、分かりましたわ、ご主人様」
くすくす笑いながら少女はまた一礼をして、宝石の飾られている部屋に入っていった。
「私のお部屋はここね?相応しい場所が空いているわ。あそこに椅子を置いてちょうだい」
少女が「相応しい場所だ」と言って指さしたそこは、彼がブラックダイヤモンドのために空けておいた場所であった。
「君は何を言っているんだ?君の部屋は客室だ。早くそこへ行きなさい」
「あなたこそ何を言っているのかしら?私の場所はあそこなんでしょう?だったら早く椅子を置いてちょうだい。私に相応しい椅子をね」
最終的に男が折れて、少女のために椅子が用意された。
紅の豪奢な布張りの小さなソファである。
そこに座っている少女は、まるで一つの芸術品のように、男には見えた。
ある時、男は少女に言った。
「君は一体何なんだ、この「黒き薔薇」はわたしが買った物だぞ!それを君はどうして身に着けているんだ!」
少女は当然のように答えた。
「だって、これはここにあるのが自然なんですもの」
男は激怒したが、しかし少女の言葉を取り合ってはならない、と決めて、こう告げた。
「では、そこに着けていても良い。だが、わたしが触れるときは外したまえ」
少女は薔薇のように微笑むと、その唇から言葉をほろほろと零した。
「えぇ。えぇ。構いませんわ。ご主人様。けしておいたをしないでちょうだいね?」
「……ふん。勝手に言っていてくれ」
この会話をきっかけとして、男と少女の溝は、深まっていくばかりであった。
しばらくしない内に、男の元には富が集まった。
それを少女は楽し気に見ていた。
しばらく経たぬ内から、男は豪遊をし始めた。
それを少女は楽し気に見ていた。
しかし男には不満があった。
言わんや少女の事である。
少女の許可なくして、ブラックダイヤモンドに触れる事が許されない事に、男は腹を立てた。
当たり前だろう。少女を買ったわけではない。男が買ったのは、あくまでも、あの「黒き薔薇」なのである。
ローズカットの控えめな美しさ。ろうそくの明かりに照らしたときの、あの何とも言えない艶やかな煌めき。
男はそれらに惚れて、惚れぬいていたのだ。魔性の宝石だと謳われるそのブラックダイヤモンドに。
椅子に座った少女に、男は不満をぶちまけた。
「君は一体何様のつもりなんだ!…わたしがこの宝石を買ったのだぞ!一体、全体、君は何がしたいんだ!?」
「何がしたい、と言われても。私はただ美しくありたいだけよ」
「そんな事を聞いているんじゃない、君はこの家では厄介者なんだ、宝石だけを置いて出て行ってくれ!」
「私に出て行けとおっしゃるの? あんなに大切にしてくださっているのに?」
「それは宝石であって君じゃない!!もううんざりだ、出て行け!!」
男は激高した。話が通じない相手に、男は苛立っていたのだ。
そして、男は咄嗟に手近にあったトロフィーを手にして、少女を殴りつけた。
倒れこんだ少女に馬乗りになって、男は首を絞めた。もがき苦しむ少女を押さえつけて、首を絞め続けた。
やがて少女がぐったりとして動かなくなると、男はにわかに冷静になった。
「なんという事をしたのだ……。わたしは……」
男は呆然自失のまま、男は、少女を、ボイラーで焼いてしまった。
異臭騒ぎが少し起きたけれど、皮張りのソファを焼いたという事で、決着を付けた。
何より、男には莫大な富があった。それを少しだけ与えれば、決着が着いたのである。
それから、少し経ったある時の事。男は、宝石の部屋に佇む、あの黒髪の少女を見た。瞬きをした瞬間に、それは消えうせたが、男は背筋に冷たい汗を感じた。
あるとき、男が散歩をしていると、向かい側から傘を差して歩く少女があった。紛れもない、あの喪服の少女であった。
またある日、男は家の中で少女の笑い声を聞いた。数日間、それが頭を離れず、男は部屋を歩き回った。
あの、少女を殺した日。それを境に、ブラックダイヤモンドは輝きをより増したような気がした。美しさが、より華やかになっているように、男には感じられた。
やがて、男は事業に失敗した。ありとあらゆる事が、上手くいかなくなった。
妻は逃げるように離婚し、会社は倒産。気が狂うような日々に、その幻影は拍車をかけた。
少女の幻影は、今や手に届く位置にまで来ていた。恐怖だった。
どこへ行こうが何をしようが、その少女の幻影が、笑い声が、肢体が、目と耳について、離れない。
あのブラックダイヤモンドの呪いだ。男は直感した。だが、もう遅かった。
気付いていながら、何が何でも手放すわけには行かぬと、男は手記に、ブラックダイヤモンドだけは売るな、と書いた。
最早、幽鬼のような有様だった。何かに憑かれたかのように男はブラックダイヤモンドのブローチを、どこへ行くにも握りしめていた。
それ以外のコレクションを売りさばき、買い叩かれ、男は何とかその日を生きるまでになった。
それでも尚、男はブラックダイヤモンドを手放さなかったのである。
これを手放すわけにはいかない。そう男は考えた。少女の幻は、もはや自身の背に、顔に、あらゆる体の箇所に触れていた。
男は、少女の幻影に導かれるまま、階段を登り、登って、ビルの屋上までやってきた。
――そうして、少女に背中を押されるように、飛び降りたのだった。
握りしめていたブラックダイヤモンドのブローチがころころと転がり、少女の足元で留まる。
それを拾い上げて、黒ずくめの恰好をした少女は、くすくすと楽しそうに笑う。
「愚かな人ね」
呟いて、少女はそのブローチを元の通りに、胸元に嵌めたのだった。
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