第56話《鯉ダンス》-弐-


 私の名前は刑部マチコ。

 魚頭の怪人からの襲撃に遭っている二六歳の探偵だ。

 後部車体を持ち上げられている。

 角度がついた車内では、後部座席の荷物が運転席に滑って落ちてきた。

 やばい。

 このまま車体ごとひっくり返されてしまう。


「お母さん! 今のうちに脱出してください!」


「で、できない」


 ハツナの母親は、シートベルトを外そうと必死になっているが、何かに引っかかったみたいで外すことができない様子だった。

 私は懐から折りたたみナイフを取り出し、シートベルトごと切り、助手席側のドアを蹴破った。


「早く!」


「ぎょ、刑部さんは!?」


「いいから!」


 車がひっくり返った。


「ぎゃああす!」


 コイ人が雄叫びを上げる。

 濁ったコイ人の眼球から血が噴き出た。

 クロスボウ。

 万が一に備えて、先日私が購入しておいた武器だ。

 車から脱出すると同時に撃ってみたが、見事に命中してくれたようだ。


「ぐえええ!」


 コイ人は刺さったクロスボウの矢を引き抜き、顔を抑えて悶絶する。

 状況を飲み込めていないハツナの母親は、咆哮するコイ人を見てその場で立ち尽くしていた。

 私は、ハツナの母親の手を取り、その場から逃げた。


「え、え? え?」


「いいから! 逃げますよ!」


 クラクションが鳴った。

 車道はあっという間に渋滞となり、どこからか「さっさとどけ!」とドライバーの罵声が飛んできた。

 周りにいた通行人たちは、こちらの異変に気にも止めずに歩を進めていた。

 誰一人。

 怪物が暴れていることを気に留めていない。


「け、警察! 警察に電話しないと!」


 ハツナの母親が震える指でスマホを操作し、一一九を押した。


「な、なんで?」


 スマホを耳に当てて、ハツナの母親は困惑している。

 着信拒否アナウンス。

 緊急通報したにも関わらず、警察に通報できない。


「だ、誰か! 誰か助けて! バケモノが襲ってくるんです!」


 ハツナの母親。

 小島ミツコは通行人に助けを求めた。

 が。

 通行人は無視するか、変な物を見るような目で一瞥するだけで、ミツコの必死の懇願に応えようとする気配は感じらられなかった。


「どうして?」


「ミツコさん。行きますよ」


「け、警察! 警察署に行けば助けてくれるかも!」


「無駄です。行きますよ」


 たとえ自衛隊の駐屯地に転がり込んだとしても、おそらく誰も助けてくれない。

 この世界。

 この空間。

 私とミツコを除く、ここにいる人間すべてが、 今起こっていることを『日常』だと受け入れている。

 街中で、魚頭の巨漢が刃物を持って白昼堂々と暴れていたとしても、それは普通のことだと認識して騒ぐことは一切ない。

 誰かが【蛆神様】に《お願い》をしたのだ。

 コイ人と私たちに、他人が干渉しないように、誰かが仕組んでいる。

 おそらく。

 その誰かが黒幕だと推理できる。

 ハツナの時間を122回ループさせた張本人。そいつが犯人だろう。

 犯人が誰なのか、まだわからない。

 見当もついていない状況だ。

 しかし。

 私はこのコイ人を止める手段は知っている。

 今、重要なことは一つだけ。

『安全』を確保すること。

 迫りくるコイ人の脅威から、ハツナの母親を守ること。それが最優先事項だ。


「タクシー!」


 私は手を挙げてタクシーを呼ぶ。

 タクシーは素通りした。

 ちっ。

 シカトしやがった。


「ミツコさん。走れますか?」


「む、無理……」


 全力で走ったせいか、ミツコは息を切らして膝に手を置いている。


「ぎえええ!」


 雄叫びを上げながら、コイ人が走ってきた。

 距離にして五〇メートル。

 自動車を追跡できる脚力を持ったバケモノだ。全力で走っても数秒で追いつかれる。

 くそ。

 的の動きが速すぎる。

 クロスボウが間に合わない。


「がぁあ!」


 コイ人が私の体に覆いかぶさった。


「く!」


 ゴリラの手のようなごついコイ人の両手が私の首を絞める。

 やばい。

 息ができない。

 このままだと首の骨が折れる。

 ちくしょう。

 けど。

 これでやれるぞ。

 的が止まった。


「が?」


 コイ人の下顎。

 私はそこにクロスボウを押し当てる。

 脳天串刺し。

 クロスボウの矢が、コイ人の頭を縦方向に貫いた。


「かはっかはっ」


 覆いかぶさるコイ人から私は脱出する。

 死んだか。

 クロスボウの矢は頭蓋骨に深く刺さって回収不可能だ。矢は出し尽くした。


「刑部さん!」


 ミツコが私の元に走り寄った。

 とりあえず。

 追跡するコイ人は死に、安全は確保できた。

 一瞬だけ。

 ほんの一瞬、安全が取れた。

 これから逃げる準備をしないといけない。


「ミツコさん……車を近くで手に入る場所を知っていますか?」


「え?」


「まだですよ。そいつは一人じゃない……」


 めきめきめき。


 骨が砕け、肉が蠢く音が聞こえた。

 近くの通行人。

 スーツ姿のサラリーマン風の男が、頭を抱えて悶絶している。


「うわあああああ!」


 サラリーマン風の男の顔面が、だんだん面長になってくる。

 後頭部が伸び、皮膚が鱗になる。

 パクパクと口が動き、ヒゲが一本左右に生えた。

 コイ人。

 サラリーマンがコイ人に変身した。


「ぎぇえええ!」


 私はクロスボウを投げ捨てた。

 ああ、ちくしょう。

 ノートに書いてあった通りだった。

 コイ人は『不死身』だ。

 殺しても殺しても、何度も蘇って追跡してくる。


「しつこい男って本当に大嫌い!」


 私はミツコの手を取り、その場から走った。


続く

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