第44話《腐敗》-下編下-
あたしの名前は小島ハツナ。
餓えたどぶネズミたちに、身体中の皮膚を喰われている絶体絶命の高校一年生だ。
「減量ってきついんだよな」
三年生の教室で、どぶネズミたちにむしゃむしゃと喰われ続けるあたしに向かって、ニシ先輩は言い放った。
「お前も知っていると思うけど、俺って短距離じゃん? とにかく体絞るに絞ってさぁ。食べたいもの我慢してよぉ。それがどれだけ辛いかわかるか?」
あたしを見下ろすニシ先輩。
腰を落とし、けけと下品に笑った。
「わからねぇよな。だって、お前マネージャーだったからなぁ。ちょっと可愛いからってちやほやされてよぉ。内心じゃ俺たちのこと馬鹿にしてたのもわかってたんだぞ」
痛みはなかった。
いや、痛いと感じる前に、腕や足の肉をあっという間に喰われてしまったせいで、痛いとまだ感じることができないというべきだろうか。
現実感がなく、自分が生きながらどぶネズミに喰われているのだといわれても、ピンと来なかった。
「ある人が俺に教えてくれたんだ。前の世界には【蛆神様】がいたことを。それで俺はこの力をもらうことができた」
ニシ先輩の両目がぎょろぎょろ動く。
笑っていた口元が一の字になった。
「だけど、その人はいった。この能力を自由に使うには、『小島ハツナ』を殺すこと。お前は前の世界から記憶を引き継いだ人間だ。その人はお前のことが邪魔で仕方がないんだとさ」
あたしはニシ先輩を掴もうと、手を上げた。
二の腕の骨が剥き出しになっている。
もう、体を動かす余力はない。
「悪いけど死ね。蛆神様の為にも死ね」
蛆神様。
遠のいていく意識の中。
あたしは蛆神様について思った。
迷惑な神様。
結局、あの神様は。
人の願いを。
あたしの願いを叶えることはなかった。
「あなたは一度【蛆神様】にお願いしたことがある。それを思い出しなさい」
電話の女性はあたしにそういった。
あたしが蛆神様にお願いをした。
なにを?
一体、あたしは何をお願いしたの?
ハツナ。
おじいちゃんの声が聞こえた。
遠い昔。
おじいちゃんと一緒に蛆神様の祠の前でお願いしたこと。
何をお願いしたの、あたし。
教えて。おじいちゃん。
あたしは……。
「死んだか?」
うぇっとニシ先輩が舌を出して顔を歪ませた。
「いくらデブにして殺せないからって、ネズミに喰わせて殺すとか……えぐいこと考えるなあの人は」
あたしの臓物をどぶネズミたちが集っている。
何も見えない。
何も喋られない。
眼球や顔まわりの肉をどぶネズミにすっかり食べられてしまって、あたしの顔面はミイラのように様相に変わっている。
「さて、そろそろ電話しないとな。あの人に」
ニシ先輩は独り言をつぶやくと、スマホで誰かに電話しようとした。
けぴっ。
どぶネズミの鳴き声が聞こえた。
気づいたニシ先輩が振り向く。
「なんだ?」
さぁーっと、あたしの身体に集っていたどぶネズミたちが、一斉に離れていく。
まるで逃げるように、一斉に、だ。
ニシ先輩の両目が、ぎょろぎょろ忙しなく動く。
あたしの身体が起き上がった。
「な、なんで? なんで生きてるんだこいつ」
ニシ先輩がその場からたじろいだ。
あたしはニシ先輩に歩み寄っていく。
身体のあっちこっちから、うねうねと何かが蠢いているのを感じる。
白くて短い物体。
うねうねくねらせている。
蛆。
喰われたあたしの身体の内側から、たくさんの蛆が捻り出てくる。
「なんだよ。一体! お前は」
「先輩、あたし思い出しました」
食い尽くされてなくなった喉の肉が、目に見える早さで戻ってきた。
何も見えなかった目に光が差した。
怯えた顔であたしの前に立っているニシ先輩の姿を、あたしは見ることができた。
「電話の人はいいました」
あなたは一度【蛆神様】にお願いしたことがある。
そうあたしに告げた。
ようやく、思い出すことができた。
あたしがおじいちゃんと一緒に【蛆神様】にお願いしたのは。
「《蛆神様がハツナの『味方』でありますように》そうあたしはお願いしたってことを」
だから、あの人はいったんだ。
あたしは死なない、と。
「くそぉ! このバケモノめ!」
教室の椅子を持ち上げ、ニシ先輩があたしの頭に叩きつけようとした。
ぶぅん。
異音が聞こえた。
ニシ先輩の目の前に、黒くて小さな物体が横切る。
「ちっ」
ニシ先輩が手でそれを払った。
ぶぅんぶぅん。
異音が二つに増えた。
黒くて小さな物体が二つに増える。
二つが四つ。
四つが八つに。
八つが数え切れないほどに。
ニシ先輩の周りに、黒くて小さな物体たちが羽音を出して飛び回っていた。
「なんだこの蝿は!」
蝿は教室の床から出てきていた。
腹を出して死んだどぶネズミ。
どぶネズミの死体から蛆が生まれ、それが蝿に成長している。
「先輩……バケモノはお互い様じゃないでですか」
あたしはニシ先輩の顔面を掴んだ。
ニシ先輩のぎょろぎょろ動き回る眼球。
鬱陶しい。
あたしは親指をニシ先輩の動き回る眼球に突っ込んだ。
悲鳴が教室に響いた。
「助けてくれぇええ!」
暴れるニシ先輩を取り押さえ、あたしは力一杯親指を眼窩に突っ込む。
どうしてこんなことをしているのか。
あたしにもわからない。
考える前に体が勝手に動いた。
そういう形容するしかなかった。
「あががが……」
力尽きたニシ先輩が、その場で倒れた。
ニシ先輩が倒れたのと同時に、宙空を飛び交っていた蝿の群れが、一瞬で床に落ちた。
蝿たちは死んでいた。
どぶネズミも死んでいる。
教室内には、たくさんの生き物の死体で溢れかえった。
「はぁ、はぁ、はぁ」
乱れた呼吸を落ち着かせようと、あたしは胸に手を当て、ゆっくり息をしようと努めた。
何が起こったのか、さっぱり理解が追いつかない。
呆然となるあたしは、窓に映る自分の姿を見た。
どぶネズミに服を喰われて、ほとんど裸みたいな格好になっている自分の姿があった。
傷一つ負っていない。
ただ。
身体のあちこちに、あのマークがたくさん描かれていた。
毛むくじゃらの不気味な丸記号。
あたしは口を抑え、腹の奥から出てくる感情の戸惑いながらも、その場で立ち尽くした。
《腐敗》 -終-
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