第43話《腐敗》-下編上-
あたしの名前は小島ハツナ。
マヨネーズをぶっかけられた上に、陸上部の先輩に殺されるという自分で説明していても意味不明な状況に追い込まれている高校一年生だ。
そしてあたしの膝の上にあいつが乗っている。
黒い毛並みに長い尻尾。
どぶネズミ。
鼻をひくつかせてあたしをじっと見つめている。
「ひぃい!」
反射的にどぶネズミは手で払った。
どうしてネズミが?
「おいおい、一匹だけじゃねぇぞ」
ちゅちゅちゅ。
首筋に気配がした。
あたしはおそるおそる右肩に振り向いた。
右肩に乗っている。
どぶネズミが。
かぶっ。
どぶネズミがあたしの耳たぶに噛みついた。
痛みであたしは悲鳴を上げる。
「ネズミの《体脂肪率》を減らした。ぼやぼやしてると喰われるぞ?」
足元にぞわぞわとした感触がする。
下を見て、絶句した。
カーペット。
じゃない。
真っ黒いカーペットかと最初は思ったが、そうではない。
群れだ。
どぶネズミの群れが、あたしの足元に蠢いている。
しゅっ。
どぶネズミたちが、あたしの足を伝って次々と駆け上ってきた。
「ひぃぃ!」
あたしは立ち上がり、体を振ってどぶネズミを払い落とす。
しかし。
地面に落ちたどぶネズミが再びあたしの体を這い上がろうとする。
「いや、いや!」
あたしは堪らず職員室から飛び出した。
逃げなくちゃ。
この学校から逃げなくちゃ。
ニシ先輩から、逃げなくちゃ。
無我夢中であたしは走り、校舎正門玄関にたどり着いた。
「ううう」
ガラスドアの校舎正門玄関。
先生や生徒がずらりと横たわっている。
全員、デブになっていた。
まん丸いマシュマロのような体が、数珠繋ぎになって正門玄関を塞いでしまっている。
まるで海に大量発生したクラゲの群れのような光景だ。
どうして。
こんなことに?
「大丈夫ですか?!」
慌ててあたしは横たわる人たちに駆け寄った。
息はしている。
だけど、意識はないみたいだ。
体を揺さぶっても呻き声を上げるだけで、起き上がってくる様子がない。
「う」
臭い。
果物が腐ったような、甘ったるくて嫌な臭いが、そこらに漂っている。
その臭いを一瞬嗅いだ瞬間、あたしは吐きそうになった。
なんか、聞いたことがある。
糖質制限ダイエットとかで、急激に痩せたりリバウンドを繰り返した人間の体から、『ケトン臭』といわれる悪臭が放たれるようになるって。
たしか代謝機能が狂ってどうのこうのってテレビでいってたような気がするけど、詳しい原理は今はわからないしどうだっていい。
この臭い。
やばい。
これだけの大人数から放たれるケトン臭に当てられると、気を失いそうになる。
「お、重い」
あたしは出入り口を塞いでいる人をどかそうと全力で引っ張るが、重すぎてビクともしない。
このままじゃ、外に出られない。
警察。
とにかく警察に通報を。
あたしは口に手を当てて、スマホで一一九を押した。
「おかけになった電話番号は、現在電波が届かないか……」
????
警察に電話したのに通じない。
どうして?
こんなことってあるの?
♪
スマホに着信が鳴った。
さっきかかってきた知らない電話番号だ。
「も、もしもし?」
「警察に電話しても通じないわよ」
生唾を飲み込んだ。
見透かされている。
あたしが今やったことをまるで知ってたみたいに。
この人、一体?
「あなた誰ですか?」
「まず、そこから移動しなさい。あなたの先輩はいったわよ。『ネズミ』は一匹だけじゃないって」
「え?」
もぞもぞと横たわる人の脇や太ももから、何か蠢く気配がした。
刹那。
黒い物体が一斉に人の隙間から流れ出てきた。
「う、うわぁあああ!」
おびただしい数のどぶネズミ。
あたしは全速力で逃げた。
階段を一気に駆け上り、三年生の教室に飛び込む。
ドアを閉め、息を殺す。
ネズミの群れが、廊下を駆け抜けていく音が彼方に移動するのが聞こえた。
「も、もしもし」
「生きてる?」
「どうにか……なんであたしがこんな目に」
「災難ね。ネズミは自身の体重の三分の一を食べないと一日もたずに餓死する生き物よ。生きる為の《脂質》を減らされたことで、ネズミたちは餓えに餓えている。餌の匂いにつられて、闇雲にあなたの肉を喰らおうとしてるってわけね」
淡々と女性はあたしに説明してくれた。
そんなこといわれたって。
だからなに?
どうしろっていうの。
「まずは落ち着きなさい。大丈夫。死なないからあなたは」
はぁ⁈
死なない?
どの口でいってるんだこの人は。
「だから落ち着きなさい。冷静にならないと大変なことになるわよ。深呼吸しなさい」
芯の通った強い口調で、その人はあたしにいった。
あたしは胸に手を置き、深呼吸をする。
少しは冷静になることができた。
「いい? よく聞いて。警察に連絡できない。つまり、外部に連絡できないのは、誰かが【蛆神様】を使ってあなたの電話回線を妨害してるってことよ」
「蛆神様を使って?」
「そうよ。あんたの先輩が得体の知れない能力を手に入れたのと同じようにね」
電話口の女性は続けていった。
「つまり、敵はあんたの先輩以外に『もう一人』いるってことになるの。じゃないと、あなたの学校全体を巻き込んでこんなことができるわけがない」
もう一人。
ニシ先輩以外にあたしを攻撃する人間がいる。
誰なの、それ。
「今はそのもう一人の敵を探す時間はないわ。まずあなたはこの校舎から脱出することに集中しなさい」
脱出って。
ここからどうやって出ろっていうの。
「窓は開けられるかしら?」
あたしは教室の窓を開けた。
セミの鳴き声が教室に流れ込んできた。
「雨樋があるでしょ。それを伝って降りなさい」
正気か。
こんな細くて剥がれそうな雨樋を伝って三階から降りろって……そんな無茶な。
「それ以外に逃げ道はないわ」
「で、でも!」
「もう一つ。あなたは思い出さないといけないことがあるわ」
女性はあたしにいった。
「あなたは一度【蛆神様】にお願いしたことがある。それが一体なんなのか……思い出しなさい」
あたしが蛆神様にお願いをした?
それっていつ? どこで?
質問しようとしたが、電話は切れた。
「あそこから」
窓から少し離れた雨樋を見つめ、あたしは唾を飲み込んだ。
鉄棒を掴んで降りるのとはわけが違う。体重をかけるのを間違えれば、あっという間に雨樋は剥がれて三階から地面に真っ逆さまだ。
けど、やるしかない。
覚悟を決めたあたしは、窓から外に出ようとした。
ちゅちゅちゅ。
鳴き声が聞こえた。
鳥肌が立った。
窓枠を掴むあたしの手の甲に、どぶネズミが乗っている。
あたしは後ずさり、窓から離れた。
すると。
窓からおびただしい数のどぶネズミが教室に侵入してきた。
「どぶネズミはどんな場所にも潜んでるんだ。たとえば窓の下とか、教室の天井裏とかね」
ニシ先輩の声が、あたしの頭上から聞こえる。
あたしの身体中に、数え切れない数のどぶネズミたちが纏わりついた。
続く
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