第2話

やっと身体にへばりついていた水滴があらかた床へと落ち終わった。外気とは違う水気を孕んだ、ぬめりとまとわりつくような湿気が嫌で、一刻も早くこの空間から出てしまいたかった。渡された桜色の、フワリと撫でるような肌触りのやさしいタオルはよく水を吸ってくれて、僕の身体はすっかり乾いてしまった。これなら、目の前にある扉を開けてすぐのところにある淡いブルーのマットの上にいつでも乗ることができる。風呂場のバスタブは新品としてこの世に現れて以来、殆ど使われていなんじゃないかと思えるほど、やたらと綺麗に掃除されていた。あるいは本当に1度たりとも使われてないのかもしれない。もしかしたら突然の来客に備えて常にピカピカにされているのかもしれなかったが、ここに入る前に通った洗面所、洗面台には薄っすらと埃がついていたから、あたりまえだけれど、来客に備えてはいないようだった。

熱気受ける身体、特に背中から際限なく汗が湧いてくる。濡れきったタオルでそれを拭って、僕は扉に手をかけて躊躇する。どういう顔で外に出ればいいんだろう。そもそも服はどうすればよいのだろう。まさか全裸で服が乾くのを待っている訳にはいかないし、腰に巻くタオルくらいは貸してもらえるのだろうか。扉を押そうと心に決めたタイミングで、扉に軽いノック。返事をすると彼女の声。

「サイズ、あうかわからないけれど、Tシャツと短パン、置いておくね。サイズが合わなかったら言って。その時は、しばらくタオルでも巻いていてもらうことになっちゃうけど、何とかするわ」

「ありがとうございます。丁度出るところでした」

バタン、と扉が閉まる音がしてから、僕は扉を押す。身体が乾いた熱気に包まれて、表面を貼っていた嫌な湿気が捌けていく。もう一度、足の先から首元まで、水気をしっかりとタオルで拭って、彼女が置いていったTシャツを手に取る。有名アウトドアブランドのロゴが刻まれた青いTシャツ。サイズはLで、僕には少し大きいくらいだった。短パンの方は、ランニングをするときなんかに履く、ごく普通の黒いスポーツ用のパンツで、腰に当てると、サイズは丁度良さそうに見えた。裸で出て行くわけにはいかないから、結局着なければいけないことはわかっているのだけれど、バツが悪くて何もしたくなかった。鏡に写った自分の顔は、疲れがどっと出た眠たそうな顔をしている。我慢できずにあくびをしてしまうと、いよいよ眠気が首と耳の辺りにべたりと張り付きはじめた。傷心旅行と称した旅行で痩せこけたわけでもなく、精悍さもだらしなさもどちらも持ち合わせないごく普通の自分のシルエット、自分の顔、ただ眠たさがこびりついていることだけが普段と違う。

脱衣所に長居をしすぎて不振に思われるのも嫌だったので、僕はTシャツと短パンに身体を通してドアノブに手をかける。湧き出る汗が肩の辺りと腰のあたりに染みるのを感じる。ため息をついて、ドアノブに手をかける。偶然にも、また僕が手をかけるのと同時に彼女の声がした。

「はい、これ、なんだか変な感じだけど、必要でしょ」

ドアが少しだけ開いて、彼女の白い手が一瞬だけ洗面所に入り込んで、紺色の布切れを投げて去っていった。ほんの一瞬のことであった。

男物のトランクス。彼女の兄弟のものだろうか、それとも父親、僕は少し困惑する。見知らぬ土地で間抜けな目にあった挙句、見知らぬ女性から男物のトランクスを拝借しようとしているのだ。その状況が持つ妙な感じは嫌いではなかったけれど、惨めなことに変わりはない。非常に惨めだ。惨めさはチクリチクリと心の表面を流れていって、ゆっくりと中の方まで浸透してくる。

短パンと同じで、サイズがちょうど良さそうなその借り物のトランクスを履く。なんのけなしに借り物の短パンに足を通していたが、よく考えればこれまで下着を身につけていなかったのだ。色々な恥ずかしさが頭の地中を飛び回って、ぼんやりとした眠たさと交じり合ってグルグルと回っている。交じり合った妙な色の感情は、大学生活のこと、それより前のこと、高校時代に付き合っていた女の子のこと、洗濯物をぼくの部屋に投げ込んでいる母親の姿、身近なことから遠いことまで、記憶を大まかになめていった。

目の前を過ぎ行く記憶をぼんやりと追いかけていると、気づかない内にかなりの時間が経過してしまっていたようで、洗面所のドアが軽くノックされる音で僕は我に返った。

「大丈夫?なにかあったかしら?」

「いえ、ないです。どうすればいいですかね」

「どうすればいいって、とりあえず出てよ。もちろん服は着てきてね。裸で襲ってこられても困るわ。そういう気分じゃないし」

そう行って去っていく彼女の靴下と廊下の擦れる音。扉を開けると、リビングの方から漏れだしてくる冷房のキンとした冷気、当たりすぎると湯冷めしてしまいそうだ。リビング扉を開けると、濃いブルーに塗られた壁が静けさと落ち着きを作り出していた。淡い緑の二人がけのソファが、テレビの前に堂々と居座りながらも、部屋全体の調和を乱さずに存在していた。ダイニングチェアに腰掛けた彼女は、僕が入ってくるのを見るや、冷房を消して、家具屋の青い袋に入った僕の服を持って洗面所の方へと歩いて行った。どうやら洗濯をしてくれるらしい。僕は冷房の冷気を全身に受け止めながら、立っているのも座ってしまうのも、何をするにも不自然だと感じながら、唇をかみながらじっとしていた。彼女が戻ってきて、小さく笑う。

「どうしたの?そんな所にだらしなく立っていても仕方ないから、座ってよ。いまお茶でも入れるわね」

彼女に導かれるままダイニングチェアに座ると、程なくして手捏ねの黒い湯呑みが僕の前に置かれた。そこから漂う爽やかなそば茶の香りが食欲を刺激する。

「アレルギーとか大丈夫よね?」

「はい、お気遣いなく」

彼女は自分の前にも別の、これまた手捏ねの白い湯呑みを持ってきて、一口口にすると、僕の方を見てまた小さく笑った。

「疲れているみたいね。なんだか重たそうな顔してる」

「まあ、それなりに」

「海に突っ込んでいく男の子なんて初めて見たわ」

「間抜けな話です」

「そうね。大分ね」

「シャワーを貸して頂いてありがとうございます」

「本当なら、銭湯にでも案内すればいいだけの話なんだけれど、なんだか君、そんなに強くなさそうだし、悪い人じゃなさそうだったから。ウチにあげてもいいかなって」

彼女は僕野細い腕をみてまた小さく笑う。少し馬鹿にされているような感じもあったし、彼女の目はそうしながらも何かを懐かしむような目をしていた。

「ありがとうございます。助かります。銭湯もそれなりにお金がかかるから、入れたかわかりませんし」

「お金、ないの?というか、そもそも何をしにあんな所で海に入ろうとしていたの?それも、普段着のままで。自殺には見えなかったけれど」

自殺、軽々しく考えてはいけないが、今回の失恋が、本当に傷心してそこまで考えるほどのものになっただろうか。女の子の顔を思い出す。くりっとした目、筋の通ったそれなりの高さの鼻、それからスラリとした長い足。僕にはもったいないほどの女の子だったけど、それほど深く僕に傷を残すほどには打ち解けていなかったと思う。

それなら何故、金も持たずにこんなところまで旅行に来ているのか。またしてもなんだか惨めな気持ちになった。

「惨めですね」

「惨め?まあ、間抜けだとは思うけれど、惨めなのかしら。この町、これといって観光するところなんてないから、物好きでもあるわね。わざわざここまで来るのは」

「とにかく、惨めなんです。こんなはずじゃなかった」

「借金でもして逃げてきたの?というか、君、何をやっているの?フリーターか何か?」

彼女はお茶をズズッとすすって、思い出したように急須を台所に取りに戻る。戻ってきた彼女が二つの湯呑みがいっぱいになるまでお茶を継ぎ足した。

「まず、名前ね」

「桜井慎吾です」

「慎吾くんね。私は早耶香」

「よろしくお願いします」

彼女は嬉しそうにニコニコしながら、お茶を一口すする。奇妙な陽気さが返って不気味で、僕はシャワーも服も借りておきながら彼女の事を警戒することにした。宗教の勧誘や、妙なビジネスの可能性だってある。

「なんか、こうやって自己紹介するの、変」

「変ですね。僕もなんだか変な気分です」

「惨めで変な気分、って面白いわね」

「そんなに面白くもないですよ」

「で、慎吾くんは何をやっている人なの?言いたくなければ言わなくてもいいけれど」

「フリーターじゃないです。あんまり変わらないかもしれませんけれど、大学生をやってます」

「学生って言われると、確かに学生っぽいわね。何を勉強してるの?」

勉強なんてろくにしていなかったが、僕は一応専攻としている国際関係論と答えておいた。早耶香はふうんと小さく笑って、僕の目をチラリと見た後に、視線を首とか肩の当たりに下げてチラチラと目を動かした。

「ひょろい」

「まあ、とくにスポーツとかしてないですから」

「普段はもっと白そうね」

「え」

「肌、今は焼けてるけど、あっちこっち歩いて回ってるから少し焼けたんでしょ?」

そう言われて初めて気づいたが、僕の肌はいつの間にか夏らしい香りがしそうな色に変わっていた。もちろん、夏や山でバーベキューをやっている同級生達ほど色黒くはなっていないし、夏休み終わり、遊び疲れた子供たちがただ遊び果てて眠りについている時の爽やかさはそこにはなく、ただ身体や心の細かな澱、それもどす黒いそれではなく、大したことのない細かな澱が張り付いているような感じだ。中途半端であるという自覚がある分、どす黒い方に振り切れればもっと楽になれるのになんていう卑屈な欲求が抑えらない。

「そうですね。しばらく歩いて旅をしているので、この夏はいつもより焼けています。南の島で遊んでいる奴らみたいに、もう少し真っ黒になりたいんですけど、なかなかならないですね」

「ふうん。どうして真っ黒になりたいの?痛いよ。きっと」

即座にそう聞き返されて、少しの間理由を考えてみたけれど、特にこれといった理由が考えつくわけではなかった。早耶香の問いにどう返していいか思いつかなくて、僕はほとんど空になった紅茶のカップをわざとらしく飲み干すことしかできなかった。

「で、どうして旅をしているの?」

そう聞かれて、僕はまた返す言葉に困った。ほとんど初対面の女性相手に、ストレートに失恋と答えるのも気が引けた。海でずぶ濡れになって、そのほとんど初対面の女性の家で下着まで借りてお茶を飲んでいる状況が上手く飲み込めてはいなかった。彼女の質問に対する答えをどんなに真面目に考えても、このおかしな状況下では全てサラサラと上辺を流れ落ちてしまいそうだったし、発する言葉発する言葉全て紙吹雪かわって舞い散ってしまいそうに思えた。そして何よりも、頭の奥の方にねっとりとした眠気が居座り続けていた。眠気をこらえるのに必死で、何か口に含んでいたかったけれど、あいにくお茶は飲み干したままだったし、カフェインは全く効き始める様子がない。むしろ、お茶を飲んで落ち着いたことで、いよいよ眠気があぐらをかいてどしりと居座り始めたところだった。思考は完全に八方塞がりで、何も考えたくなかった。

「いいわ。答えたくないこともあると思う。たいした理由があるにしろないにしろ、ずぶ濡れのままいたら風邪を引くから。とりあえず少し休んでいきなさい。そこのラグと、クッションを使って寝ていいわ。濡れると嫌だから、髪だけはちゃんと乾かしてね。まだ少し濡れてるみたい」

早耶香はそう言うと、カップを流しへと下げて、冷蔵庫からカロリーゼロを謳ったゼリーを取り出すと、簡素な硝子の器にそれを開けて、小ぶりなスプーンで子供っぽく何回かつるりとした表面をつついてから口に運び始めた。僕は彼女がゼリーを食べる姿をぼんやりと見つめながら、目の焦点はゼリーのむこう側の記憶に当たっていた。あの娘と食べたゼリー、あの娘が好きだったライチ味のゼリーを思い出す。少し強い酸味、食べた後に軽くするキス、その感触、彼女の笑い声、全体はぼんやり霧のようにとらえどころがなく浮かんでいるのに、声の高さや細かな仕草は妙に鮮明だ。逆に、いくつかのシーンは遠くから見る虹と同じで、足元に近づくと音もなく、兆候もなく、フッと消え去っていまい、思い出すこともかなわない。

目元が少し熱い。僕は借りているタオルで顔を拭ってから、生乾きの髪にぐるりと撒いて、クッションを枕に眠りにつくことにした。あの娘にまつわる幾つかのシーンは、末端を固く縛られた凧のように、フラフラと持ち上がっては、ある場所で止まって、風に吹かれて戻ってくる。その度に幾つかの映像が鮮明に蘇って、心の底がヒリヒリと傷んだ。これだけ遠くに来てやっと、これだけ惨めな気分になってやっと、ゆっくりと傷口を塞いでいたロウが融けだしたかのように、溢れ出る膿のような、はたまた大切な血液のような何かが心の底をぞわぞわもごもごと蠢くのを感じながらも、疲れを支えきれない身体は僕の意識を眠気のそこに引きずり込む。あの娘の優しい声に違和感を感じ始めた時、僕の意識はフッと抜け落ちた。

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