揺れる波のにおい
猿場つかさ
第1話
失ったと思っていたが、失ってなんていなかったのかもしれない。
石を投げて波を起こそうと思ったのに、大きな波に飲まれてしまって、水しぶきだけが一瞬見えて、音さえもどこかへ行ってしまった。
今投げた石と同じように、結局大したことなかったのかもしれない。
今は大丈夫だけれど、また歩き出したら色々と思い出して痛くなるのだろう。
そう思うと、立ち上がる気分にはなれなかったし、今日は今日でまた、この浜辺で一日を過ごしてしまいそうに思えた。
傷心旅行と称して、ほとんど手持ちの金がない状態で鈍行を乗り継いで旅をしているけれど、心が本当に痛むのはふとした瞬間だけだったし、たまに思い出して涙が溢れてきたり、誰もいない道で高らかに歌を歌いたくなったり、心の底から溢れ出す罵詈雑言を必死に堪えたりすること以外は、いつもどおりの僕がそこにいるだけであった。電車の中では眠ければ眠るし、ゲームを適当にプレイして、友達とのランキング争いに徒に心を奪われたり、食欲がなくなっているかと思えば、漁港の海鮮丼の大盛りを注文してしまう。海鮮丼の店の大将にここまで来た理由を聞かれても、にこやかに「たまたま通りかかって」などと答えることができてしまう。思っていたよりもずっと元気な自分に失望しながら、所持金も少なくなってきた今日は、少し肌寒い海岸でこうして海を眺めている。痛くて痛くて、ボロボロになるくらい痛いだろう。そう思っていたのに、本当に案外大したこと無いのだ。映画や小説や、漫画の主人公のように、感じ入ってズタズタになって、感じ入ってボロボロになることなんて全く出来やしない。そんなフィクションに自分を投影しようとする自分にもかなり嫌気が差していたし、なけなしの生活費を使ってここまでやってきてしまったことを後悔している自分、金のことを気にしている自分にも嫌気が差していた。今、僕の表側をウロウロしているのは、そういう自分への嫌悪感と失望感ばかりで、失ったもの、つまり2年付き合ったあの娘のことは全く出てこないのだ。
もう一度、石を投げる。石は静かに北陸の寂しい海に吸い込まれていく。
今日は平日、いつもなら大学で過ごしている時間だ。この時間を特別にしたいけれど、特別にするために何をすればいいのか分からなかった。海にでも入ればいいのかと思い足をつけてみると、冷たい。すごく冷たい。それ以上はとても進む気になれなかった。そのまま座り直すのもなんだか馬鹿みたいで、磯の方に歩いて行くことにした。ポケットに手を突っ込むと、皮の財布、あの娘からもらった大切な財布だ。別れが訪れたらすぐに捨てようと思っていたが、捨てられていない。そうだ、こいつを捨てる場所を探そう。磯の方で適当な場所があれば、ポーンと海に投げ込んでやればいい。あの娘との楽しかった思い出は綺麗すぎるくらいの放物線を描いて、北の海の底に沈んでいくのだろう。
何枚かのTシャツと下着の入ったトートバッグを肩にかけ、砂浜の貝を手にとっては捨てながら歩いて行くと、磯では何人かの釣り人が糸を垂らしていた。日焼けした肌、目元はサングラスをかけているせいではっきりしないので、表情を読み取ることはできない。くたくたになった服の内側には強靭な肉体が潜んでいるのか、釣り人たちは全員が全員、長い竿を持ったまま直立不動であった。折りたたみの椅子が置かれている様子もなく、何時頃から釣りをしているのかが気になった。美しい日の出を拝める時間から、海の底から現れて雲間から顔をだす太陽が暗い暗い海をキラキラと黄金に照らす時間から、ずっと彼らはここで釣りをしているのかもしれなかった。しゃがみこもうと思ったけれど、足場はそれほど良くなかったし、妙に釣り人たちの目が気になったので、僕は躊躇した。期待していたほどの静けさがない。カモメたちの声もこんな気持だからかかなり耳障りに聞こえてしまう。とにかく一人になりたい気持ちだった。もう少し奥に。もう少し奥へ。
まだ少し奥の方に行けるようだったから、岸にそって人の居ない岩場へと歩くことにする。ゴツゴツと大きな岩、泡だった海水と、たまに足元に顔を見せる子蟹たちの姿、もちろん人の姿はなく、切り立った岩の影に入ると陰気臭さも感じた。今の僕にはこれくらいの暗さがちょうどいい気もしたし、丁度よすぎて、暗すぎて更に沈み込んでしまうような気もした。どちらにしろ、戻っても釣り人たちの目に晒されるだけなので、とりあえず座り込むことにした。たまに打ち上がる大きな波が、数メートル先で水しぶきをあげてキラキラと輝く。風に乗って夏の花の匂いがやってきて、すっと抜ける。波が引いて、風が過ぎ去った後はまた、音のない寂しい時間が訪れる。遠く水平線に浮かぶ雲は大きく大きく膨らんでいて、不安な気持ちを詰めているようだった。その下で、今にも雨を吐きだしそそうに見える。パンパンに膨れ上がった雲には誰かが住んでいるようにも見えた。
またひとつ、水しぶき、チラチラと盛夏を過ぎた太陽を反射する。問題の財布をポケットから取り出して、少しの間、貰った時の思い出に浸る。そのまま投げ捨てても良いのだが、あいにく僕は貧乏症だった。捨てる予定の財布に所持金やらカードやらを詰めてきて、ほとんど持ち合わせがないのはわかっているくせにこうやって中身を抜いてから捨てようとしている。財布をプレゼントされた美しい瞬間のフラッシュバックよりも、自分自身に対するどうしようもない感覚ばかりが湧き出てきて、落ち着かない。僕は石を手にとって、遠くへ放り投げる。ボトン、と音がして、石は海底へと沈んでいく。なんだか情けない自分も一緒に海の底へと静かに沈んでしまえばいいのに。
財布から現金を抜く、千円札が2枚と、小銭が700円ほど、このあと漫画喫茶に宿泊するとしても二泊くらいしか出来ない持ち合わせしかない。そもそも帰り道はどうするのだろう。そのあたりのことは何も考えていなかった。次にキャッシュカードと、クレジットカードを抜き取る。クレジットカードを使えば、まだまだこの放浪の旅を続けられる。帰りの交通費も、新幹線やら何やらを使うのならクレジットカードで買うこともできるだろう。いざとなったら友人のだれかしらに連絡すれば、快く貸してくれるかもしれない。抜き取った現金とカードをザックのポケットに放り込み、固くジッパーを閉める。傷ついた心や鬱憤を晴らしたくってここまで来たというのに、結局帰りの交通費についての俗っぽい心配をしているんだから、妙に可笑しかった。笑ってしまうくらい惨めな感情に覆われて、もう一つ石を手にとって水面へと投げつける。また、すこし大きな音と共に水の底へ石が沈んでいく。心は晴れない。
財布を手にとって、大きく振りかぶる。
この気持ちとはさようならだ。
さようならをして、どこかの街の大衆酒場で浴びるほど酒を飲んで、何件も何件もハシゴして、それから東京へ戻ろう。
東京に帰った日に、何人かの友人と一緒に浴びるほど酒を飲んで、今回のことは綺麗さっぱり忘れればいい。
さようなら。
声に出すは嫌だったから、心の底の方で大声へ叫び、力いっぱい遠くへ放り投げる。ポトリ、前に投げた二つの石よりははるかに小さな音を立てて、財布は海の深くへと沈んでいく。
背中のあたりに、妙な嫌な感覚が走る。マズイ。重苦しい後悔が頭の外れをかすめていく。ポケットの携帯電話と小銭を投げ出して、僕は海の方へ駆けていく。
水に入る。別に死ぬわけはない。
目視で大体の飛距離は覚えている。合っている保証は無いけれど、少し進めば財布を拾えるはずだ。
なりふり構わず海に入る。ペトペトと服がピッタリと身体に張り付くのを感じる。あまり気持ちのいいものではない。
目に海水が入って、沁みる。涙が出る。
もう少し奥まで進むと、深さは腹のあたりまである。投げ込んだ財布の黒い影を見つけて、手をのばす。袖が濡れて、ピッタリと腕に張り付く。
財布に手の先が掠る。感触は確かではないけれど、なりふり構わず思い切り手をのばす。伸ばしていない方の手までびっしょりと濡れた。それでも届かない。
海面から底を見下ろすと、確かに財布があった。意を決して目をつぶり、頭まで水に浸かる。
深くへ潜ったのを感じた所で手を大きく振って、目的の財布へと伸ばす。手の先に感触を感じると同時に強く掴み、浮上する。
少し浅いところまで引き返して、中身を漁る。
財布の奥の方から、免許証と学生証を引っ張りだして、他に何か入っていないかを調べる。何もない。
投げる気力もなくて、そのまま財布から手を離すと、今度は潮の流れにうまく飲みこまれていって遠くの方へ流れていくのが見えた。今度こそ、本当にさようなら。
目が痛む。マヌケな理由でびしょ濡れになっている自分が本当に情けなかった。何よりもまずこの自分の無様な姿に耐えられそうになかった。こんなことで泣きそうになっている自分も許しがたかった。少しずつザックの置かれた位置まで戻る。波の音が優しく耳の奥に響く。足取りは重くて、何か叫びたいようで、何も言葉が出てこなかった。握りしめていた2枚のカードをザックのポケットに放り込んで、身体から水を払う。
「ねえ、ビショビショじゃない。さっきから見てるけど、海に突っ込んでいくなんて、びっくりした。何してるの?この辺りの海は結構すぐ深くなるから、溺れなくてよかった」
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