番外編(後日談)4 誰かの大きな黒い鳥

「初めまして、ハルオ君」

 ハルオがガモウ医師に出会ったのは、パールハールのSOF保護施設に保護されたときだ。

 ガモウは禿頭なのにあごひげを伸ばしていて、天地逆さにしても顔になる騙し絵みたいだった。

「私の研究に協力してくれないだろうか」

「研究?」

 薬で眠らされる日々が続いていたため、久しぶりに出した声はずいぶん掠れていた。

「いいかな?」

 拒否してもいいのだろうか。そう思ったけれど、ハルオはうなずいた。

「別にいいよ」

 ガモウは「ありがとう」とハルオの腕を軽く叩いた。

 彼の研究内容は、SOFの成長とSOF範囲の関連性だった。

 SOF研究機構ができてから百年くらい経つ。SOF保護機構と名前を変えながらも、研究は続けられてきた。しかし長期的に一人のSOFを観察した研究は少ないのだそうだ。それはSOFが健康を保ったまま長生きした記録がないせいもあった。研究機構時代のSOFはよほどのことがない限り個室から出られなかった。保護機構に変わってSOFの自由度が上がっても、せいぜい散歩程度。圧倒的に運動不足だ。そのため、SOF体質が寿命に関係しているかどうか、遺伝子などからは調べられても――関係ないという結果だった――、同じ生活習慣の場合の比較ができず、中途半端になっていた。

 そういった事情を、ガモウはハルオに丁寧に教えてくれた。

「できるだけ外に出なさい」

「でも、すぐ眠らされるんでしょう?」

「眠ってもかまわないさ。どこで眠っても大丈夫。私がすぐに見つけてあげるよ」

 個室から出る際にSOFにつけられるガーディアンと呼ばれる鳥形のロボットは監視も兼ねているのだから当たり前だ。しかし、そのときはガモウの笑顔がとても頼もしく思えた。

「さあ、まずは笑ってみようか」

 メジャーにランプが並んだ測定器を床に置き、ガモウは言った。ハルオは戸惑う。

「笑えって言われても、何もおもしろくないし」

「そう言うだろうと思って、私はとっておきのものを用意した」

 ガモウは「ジャーン」と効果音を口ずさみながら、白衣のポケットから一枚の写真を取り出した。

 それはガモウの顔写真で、

「私の顔だ。ひっくり返すと、別人の顔になる」

 先ほどハルオが想像しただまし絵そのものだった。

「ぶはっ! 本当にだまし絵だ」

 声に出して笑ってしまい、ハルオは「あっ」と口を押えようとした。それをすかさずガモウは制した。

「そのまま笑いなさい。大丈夫。ほら」

 床のメジャーのランプは半分も消えていない。

 保護されてからずっと、少しでも感情を動かしたらすぐに眠らされるんだと思っていたハルオは、驚きに目を見開く。そのせいで、ランプは一つ消えた。

 ――あのときハルオは十二歳。今から二十九年前だ。

 ガモウには十八年も世話になった。

 後任のヨシカワ医師はガモウに倣い、SOFに積極的に外に出るように勧めた。個室から出るだけで不安定になるSOFもおり、全員は無理だった。しかし、その二年後に保護されたモトヤが、黙々と毎日外を走っているのを見かけたときには、ヨシカワの――そしてガモウの努力が報われたようでハルオもうれしかった。

 ヨシカワはガモウの研究を引き継いでくれた。

「実際の手順はハルオさんが一番詳しいですから、お任せしますよ」

 ハルオより年下の若い医師は、「これをガモウ先生から預かっています」とだまし絵風のガモウの顔写真を取り出した。

 ガモウは病を得て退職したけれど、ハルオは当然見舞いには行けなかった。亡くなったと知ったのは別れてから三年後。ガモウの写真は、今では切ない気持ちになるためのアイテムだった。


***


 ディーランサ星の四大都市の一つカドランダのSOF保護施設は、敷地はパールハールの施設よりも広かった。建物以外は大部分が芝生で、見通しの良い広い空間を遊歩道が巡っていた。その一角に大きな檻のような『鳥かご』がある。

 パールハールの事例を元に測定室と『鳥かご』――SOF保護機構が決めた正式名称は『共用屋外休憩室』――は、他の保護施設にも設置されることになった。最終的には全世界に行き渡らせることを目標に、まずはディーランサの他の三施設に設置された。

 カドランダの保護施設にハルオが指導員として勤めることになったのは、他の施設に比べ、鳥かごの利用率が低いからだった。

 自力で個室から出られるSOFが一人しかいないのだから仕方がないといえば仕方がない。ハルオが何かしたところで利用率は上がらないだろうと思うのだけれど、せっかく作ったのに使われないと、ディーランサ以外への設置の妨げになってしまう。カドランダの職員も努力はするけれど、同じSOFなら何かアイデアがあるのでは……というのは建前で、より一層の努力をした体裁を整えるためにハルオに白羽の矢が立てられた。パールハールで個室から出られるSOFには職に就く者が増えていて、ハルオも何かやってみたいと思っていたので、渡りに船ではあった。

 カドランダの鳥かごは、元々の芝生と遊歩道をそのまま使い、中央に広場を作ってベンチとテーブルを置いていた。

「もうさぁ、数学なんてやらなくてもよくない?」

 テーブルの上に突っ伏して、ワカナが呻いた。

「必須科目だから合格しないとずっと勉強し続けないとならないよ。それは嫌でしょう?」

「一生不合格でも困らないもん」

「修了しないと就職はできないよ」

「私、別に働きたくないし」

 ハルオが問題を解くように促すと、ワカナは口を尖らせた。

 ワカナは十五歳。保護されたのは十二歳のときだ。彼女がカドランダで唯一自力で個室から出られるSOFだった。

 ハルオの本来の仕事は、彼女に手動の生活道具の使い方など電子機器を使わずに生活する方法を教えることだが、いつの間にか教師のようなことまでやるようになっていた。彼女の必修カリキュラムがほとんど進んでいないからだ。保護前も飛び級などはなく、保護されてからは遅れる一方で、このままでは二十歳になっても修了できそうになかった。

「先生は何で働いてんの?」

 ワカナから先生と呼ばれるのが落ち着かない。名前で呼んで欲しいと言ったのだが「いいじゃん先生で」ときいてもらえなかった。

「うーん、何もやることがないからかなぁ」

 ハルオはベンチの背に寄りかかる。

「えー、そんな理由? もっと、ココロザシ? みたいな、なんかすごい理由ないの?」

「ははは、志? そうだなぁ。あると言えばあるかもしれないけれど」

 ガモウの研究を続けるためには、できるだけ非SOF体質の人に近い暮らしをする方がいいのだろう。だから、働けるなら働くべきだとは考えた。

 自分の事例が次世代のSOFの一助になれば……というほど大げさではないが、パールハールの成果を広めたい気持ちもある。

「あとは、お金かな」

「もっとダメじゃん」

 ワカナは笑った。保護されてから鳥かごが出来るまでの期間が短いせいか、彼女は自然に感情表現できるようになっていた。

「いや、自分の自由になるお金があるってすごいことだよ。今まで読めなかったオンラインの文献も、印刷代を払えば印刷してもらえて読めるようになったからね。君だって何か欲しいもの、あるでしょう?」

「あるけどー、でも服買っても意味ないもん」

「わからないよ。ここの施設がメディアに出るときには君がSOF代表になるんじゃないかな」

「無理無理。私には絶っ対に無理だって」

 ワカナはぶんぶんと首を振って、

「測定室で映像見せてもらったけどさ、マリエ・ミツバは美人だし。さすがシンデレラガールって感じ? ルウコ・トワダだって超かわいいじゃん。元が違うよ」

 こちらに歩いてくる人たちにハルオは気づいたが、ワカナは背中を向けているせいか気づかない。ハルオが彼女の話を止めようか迷う間にも、ワカナは話し続けた。

「かわいくて性格もいいから、SOFでも許されるんだよ。美人は得だよね。私なんかメディアに出たら、すっごい文句言われると思う。デブでブスで性格ブスでSOFなんて、最悪だよ」

「ブスと性格ブスはわからんが、デブはどうにかなるんじゃないか?」

 突然背後から掛けられた声に、ワカナは驚きの声を上げて振り向いた。ユート・ミツバだった。

 パールハールの一大企業ミツバ・グループの次期社長の彼が、SOFのマリエに恋したことで、鳥かごを始めとした新施策は動き出したようなものだ。今、マリエはユートと結婚して、パールハールの保護施設に連結して建てられたドームで暮らしている。

 マリエ以外には辛辣な物言いをしても気にも留めないユートは、ごく普通にワカナに言う。

「それに、それほどブスではないと思うが?」

「ユートさん、言い方ってものがあるでしょ」

 一緒に来たヨシカワが見兼ねて注意した。ワカナはぽかんとした表情でユートを見つめている。幸い、発言内容は聞き流されているようだった。

「ユート・ミツバ?」

「ああ」

「本物の?」

「そうだな」

「うそぉ!」

「嘘ではない」

 真面目に返事をして、ユートは腕組みをした。その不機嫌な顔に嫌な予感がして、ハルオは先んじた。

「ユートさん、お久しぶりですね。今日はどうしてカドランダに?」

「こちらこそ、お久しぶりです。ヨシカワ先生がこちらに来たいと言うので、私もついでにM&Sクラフツの用事を済まそうかと思って同乗して来たんですよ」

 M&Sクラフツは、ユートとマリエの父が起こした電子部品を使わない道具を作っている会社だ。SOF向けの他、アンティーク愛好家にも需要があるようだ。

 ユートがミツバのドームに空港を作ったあと、パールハールにも空港ができた。他の企業とも調整したのか、その一年後には四大都市の全てに空港が設置された。セントラルにはディーランサ唯一の宇宙港があり空港と兼用しているため、以前はハイウェイしかなく自動車での移動のみだった四大都市とセントラルの間が飛行機で移動できるようになった。ディーランサ星内の移動はずいぶん時間が短縮された。

 そして昨年、カドランダのSOF保護施設にも空港ができた。パールハールのSOF保護施設の空港はミツバの所有だが、カドランダの空港はSOF保護機構の所有だった。パールハールの施設とカドランダの施設が飛行機で直接移動できるようになったのは、ハルオがここに勤められた一因でもあると思う。

 話をそらそうとしたハルオの努力もむなしく、ユートは改めてワカナに向き直った。

「一つ言っておく」

「え?」

「マリエは確かに美人だが、何もせずに今の立場を得られたわけではない。全て彼女の努力の結果だ」

「あ、はい……」

 よくわからないけれどとりあえずという表情で、ワカナはうなずいた。ユートがマリエをフォローするのは彼女が美人だから。そんな風に思っているのだろう。

 ユートも同じことを考えたのか、

「もし君が、今より十キロ痩せたら、フクロウ邸のパーティに招待しよう。オーダーメイドのドレスもプレゼントしてやる」

「パーティ?」

「ああ、そうだ」

「ドレスのデザインは指定してもいい?」

「もちろん」

 顔を輝かせたワカナだったが、すぐに「でも、痩せても私かわいくないし」と後ろ向きなことを言い出す。

「顔は化粧である程度どうにかなるんじゃないか? それも手配してやろう」

「マリエさんは?」

「彼女は化粧しなくてもかわいい」

「だよね」

 マリエのことは譲らないユートにハルオは苦笑しつつ、

「ユートさんにとっては、マリエの造作なんてどうでもいいんですよね」

「そうだな。今と違う顔でもかわいいと思う」

 笑いもせずに肯定するユートに、ワカナはさらにがっくりする。

「ほら、結局、性格ブスは痩せたって化粧したってどうにもならないってことじゃん」

「君が気にしているのは、吹き出物だよね?」

 そこで口を挟んだのはヨシカワだった。ワカナは彼の存在に初めて気づいたようで、怪訝な顔をしながらもうなずいた。

「それは痩せたらある程度改善されると思うよ」

「本当?」

「たぶんね」

「たぶんかよー」

 ヨシカワの適当さに、ワカナは力が抜けたように笑った。

「その辺りも含めて、こちらの医師とプログラムを組もう。せっかくユートさんがご褒美をくれるっていうんだから、ちょっとがんばってみたらどう?」

「うーん」

「着てみたいドレスがあるんでしょ?」

「そうだけど……」

「三つのうち二つが改善されるなら、悪くないと思うよ。自信がついたら性格も変わるかもしれないし」

「そうかなぁ……」

 いつまでもはっきりしないワカナも、ユートに「期限は設けないから、少しずつでもやってみろ」と言われて、ついには了承したのだ。


 夕食を知らせるチャイムが鳴って、ワカナは戻っていったけれど、ハルオはその場に引き止められた。ヨシカワがハルオに話があったのと、ユートがマリエから弁当を預かってきていたからだ。

「三人で食べてください、だそうだ」

「華のない食卓で」

 マリエの言葉をユートが伝えると、ヨシカワが茶化した。

 大きな容器には、ぎっしりサンドイッチが詰まっていた。ローストビーフや厚焼き玉子、ポテトサラダなど、いろいろな具があった。別の容器には、生野菜のスティックとディップ、スライスしたチーズ。そこでユートがワインとグラスを取り出したから、納得した。

 ヨシカワの用事は、ハルオの学位の授与についてだった。ガモウ医師から引き継いだ研究をヨシカワとハルオの共同研究として学会に発表した。それが認められて、ハルオは学術星アカデミアの医学系大学の学位を得ることができたのだ。

「特別に証書を発行してもらいました」

 革装の台紙を開いてから、ヨシカワは丁寧にハルオに差し出した。受け取った学位記には、大きく自分の名前がある。

 保護される前は医学なんて全く興味はなかった。SOFを発露しなければ、これは得られなかったものだ。

「人生ってわからないものですね」

「おめでとうございます」

 グラスを掲げてユートが祝う。静かな声音はハルオの胸にしみじみと染みこんだ。神様とか運命とか――人知を超えた存在は彼のような声をしているのではないかと、ときどき思うことがあった。

 ドームの灯りが徐々に夜仕様になる中、電子部品を使っていないランプを頼りに近況を報告し合う。それから、先ほどのワカナの話になった。

「この鳥かごの中にジョギングコースを作ったらどうだろうか」

「ユートさんが作ってくれるんですか? さすがミツバの公爵令息」

 揶揄するヨシカワをうるさそうに手を払って黙らせて、ユートはハルオに向き直る。

「こちらの施設では自転車は?」

「使ってないですね」

「それでは、何台か寄贈しますよ」

 電子部品を使わない自転車はM&Sクラフツのヒット商品だ。実用的なものから、デザイン重視のアンティーク風まで幅広く扱っている。

「トレーニングマシンが作れないか、シライ博士に相談してみます。できれば早めに導入して、ついでにワカナにモデルケースになってもらいましょう。うちの施設にも導入しますが、彼女の方が効果がわかりやすい」

 ワカナは確かに肥満傾向にあって、医師から指導も受けていた。SOFの肥満は、個室から出られないから太るのに運動したくても外に出られないという悪循環な場合が多かった。その点彼女は外に出られるから、希望が持てる。

「個室から出られない人にも使ってもらえるような、持ち運びしやすいものも考えてもらえますかね」

「ああ、もちろん」

 医師の顔に戻ったヨシカワといくつか確認してから、ユートは嘆息した。

「M&Sクラフツの関係で他の施設にも出向くようになって、うちの施設のすごさがわかったよ。俺が鳥かごを建てるより前から最先端だったんだな」

 君たちの功績だろう、と言われて、ヨシカワとハルオは顔を見合わせる。

「論文を読んだ」

「ああ」

 ガモウの功績でもある。

 胸が詰まる。

 代わりに気になっていたことを、口にした。

「ユートさんがパールハールの施設を『うち』って言ってくださるのが、うれしいですね」

「え、言っていたか? 俺が?」

 ハルオが微笑むと、ヨシカワも「言ってましたねぇ」と笑った。

「そうか? いや、しかし、もはや『うち』だろう?」

 照れたように笑うユートは、年相応の青年の顔だった。


***


 気乗りしない様子でダイエットを始めたワカナは、意外にもがんばっていた。最初の二週間で三キロ落ちたのが励みになったらしい。今のところ二ヶ月続いていた。

 施設の医師ササマキに、ヨシカワとユートが話をもっていったところ、施設全体を巻き込んだ大掛かりなものになった。パールハールばかりが取り上げられるのがおもしろくなかったのかもしれない。自施設が先行できるならと積極的に進め、専門のトレーナーも呼び寄せた。

「大げさになっちゃって、どうすんの……」

 ものすごく嫌そうにしていたワカナも、自分の体が変わっていくのがおもしろいようだった。

「毎朝毎晩体重計に乗ってると、ちょっとずつだけど減ってるのがわかって、やる気になるんだよね。前より、階段上るのが楽になった気もするし」

 ユートは一ヶ月もしないうちに、トレーニングマシンの試作を持って来た。今は、施設の予算で建てたトレーニング棟に設置している。

 もう一つ、ワカナの原動力になったことがあった。

 マシンの試作を持ってきたユートは、マリエの叔母のハマモトを伴っていた。ハマモトはパールハールでオーダーメイドの服飾店を経営している。デザイナーを引き連れた彼女は、ワカナからドレスのデザインの希望を聞いていた。憧れが具体的になったことで、目標になったのかもしれなかった。

 ワカナに会ったハマモトは、ササマキに美容プログラムの導入を進言していった。それで気づいたのだが、カドランダでは数ヶ月に一度髪を切るだけで、化粧品などの支給はないようなのだ。パールハールでこういったことに気を配っていたのはカウンセラーのトウドウだ。鳥かごが出来る以前でも、ハルオは整髪料を支給してもらっていたし、希望すれば香水でさえ手に入っただろう。大きな保護方針は世界的に統一されていても、細々した日常のことは施設の、あるいは職員個人の裁量次第なのだった。

 トレーニングマシンは、空き時間にハルオも使わせてもらっていた。これから衰える一方なので、筋力を鍛えられるのはありがたい。

 鳥かごでワカナの勉強をみてあげるのも、変わらず続いていた。

 美容プログラムの成果なのか、綺麗に眉を整えて、バレッタで髪をまとめているワカナはずいぶんあか抜けて見えた。

 自分で塗ったらゆがんじゃった、と楽しそうに教えてくれたピンク色の爪で、数学の問題を解いている。一転して「欲しいものがあるから私も働くんだ」と、勉強もやる気になっていた。

「どこかわからないのかい?」

「んー」

 たびたび手が止まるワカナに、ハルオは声を掛けた。

「わからないっていえば全部わかんないんだけどさ、そうじゃなくて」

「心配事?」

「うーん……」

 黙って待ってやると、ワカナは話しだす。

「先生は昔の友だちに会ったことある?」

「施設で?」

「そう」

「いや、ないね。私は、ずっと鳥かごがない暮らしだったからなぁ。自由に面会できるようになった今は、もう友だちなんて顔も覚えていないよ」

 ハルオが苦笑すると、ワカナは「そっかぁ」と同情を込めたように呟いた。

「明日、面会に来るんだ。幼馴染なんだけど」

「楽しみ?」

「うん……、でも怖いなぁ」

 やだな、とワカナは続けた。会うのが嫌なのか、怖がってしまう自分が嫌なのか。

「先生、明日、十五時に鳥かごに来てくれない?」


 翌日、言われた通りにハルオは鳥かごに行った。

 彼女の心配は的中したようで、ハルオは暗い顔で出迎えられた。

「お茶持ってきたよ」

 厨房で用意してもらった保温ポットから紅茶を注いで、マグカップを渡す。とっておきのはちみつの小瓶と、ミルクピッチャーも並べた。

 それだけで顔を歪めたワカナは、「どうだった?」とハルオが聞くやいなや、泣きだした。

「……楽、かったっ……楽し、ったけどっ。……っく……」

 ハルオは彼女の手にタオルを持たせ、黙って隣に座っていた。冷めないうちにはちみつを入れて溶かしてやる。

 次第に落ち着いたワカナは、「楽しかったんだけどね」と掠れた声でぽつぽつと話した。

「全然違うんだもん。話が合わないんだ。あのころは、同じドラマ見たりして感想言い合ったりできたし。学校の先生の話とか別の友だちの話とか、話題はいっぱいあったのに」

「そう」

「服だって全然違ってた。私、今の流行なんて知らないし。……こないだハマモトさんに聞けばよかったなぁ。……あ、別に何か言われたわけじゃないんだ」

「うん」

「でもさ、逆に、昔だったら絶対『変な服!』ってつっこんでくれたのにって思うと、ああ、私、気を使われてるんだなぁって。SOFだから、変な服でも仕方ないって思われてるのかなって」

 かわいそうって思われてるのかな、とワカナはため息をついた。

「会いたいけど、もう会いたくないかも……」

 冷めたミルクティに口をつけ、「甘すぎ」と文句を言いながら、飲み干した。

「甘いもの制限されてるのに」

「今日はいいんじゃないかな」

「怒られたら先生のせいにしとくからね」

 ハルオは微笑んで、空になったマグカップに紅茶を注ぐ。

「ユートさんはすごいよね」

「ん?」

 繋がりがわからず首を傾げるハルオに、ワカナは笑った。

「私のこと、デブとかブスとか。私SOFなのに」

「ああ……」

「ていうか、SOFじゃなくてもさぁ、普通、女の子に面と向かって言わないよね」

「彼はマリエ以外には誰でもあんな感じだから」

「ユートさんの世界には、マリエとマリエ以外の二種類しかいないんでしょ?」

「ははは、そうかもしれない」

 今度は二人で笑った。


***


 ユートの条件を、ワカナは半年でクリアした。数字上だけでなく、見た目でも痩せたことがわかるくらいだった。

 約束のパーティはパールハールのユートの屋敷フクロウ邸で行われる。

「先生は行かないの?」

 ワカナから聞かれ、ハルオは首を振る。ユートからは打診されたが、SOFを二人同時に輸送するのは迷惑かもしれないと思い、ハルオは辞退したのだ。

「楽しんで」

「うんっ!」

 満面の笑みで旅立ったワカナは、帰ってきたとき、ひどく憤慨していた。

「神様って不公平!」

「何かあった?」

 鳥かごのテーブルにおみやげを並べて、ワカナは「聞いてよ、先生!」と身を乗り出した。

「マリエちゃん、すごいがんばってるじゃん! 朝早く起きてパン焼いて、自家製酵母の世話して、ときどき広報やったり、大忙しだよね。確かに美人で性格いいけど、それ関係なくすごいよね。ルウコちゃんだってさ、小さいころから政治家になりたくて勉強してたんだって。知らないでうらやましがってた自分が恥ずかしいよね!」

「それに気づいたなら、君もすごいよ」

 直接会って仲良くなったんだろう。

「でもさ、普通にがんばってるのに、SOFなのにおいしいパンをーとか、SOFなのに世界情勢に詳しくーとか、皆そんなんだよね。それ、ひどくない? SOF関係なく、マリエちゃんのパンはおいしいし、ルウコちゃんは勉強家だよ!」

「それで、不公平って?」

「うん」

 一旦言葉を切って、ワカナはハルオを見た。

「先生だってそうでしょ? 長期観察? だっけ? その専門家なのは、普通にすごいことじゃん。だけど、やっぱり『SOFなのにすごい』って言われるんでしょ?」

「うーん、私の場合は、研究対象が自分だから、専門家とも言い難いかな。普通にすごいかどうかはわからないな」

「すごいって! 私が言うんだから、絶対!」

 息巻くワカナを落ち着かせて、ハルオは苦笑する。

「私の、ヘルスケアプログラムは? それなら、自分が研究対象じゃないし、普通にすごいよね」

「どうかなぁ」

 実際の観察やレポートの執筆はハルオだが、このプログラムはカドランダ保護施設の名前で発表されるはずだ。それを言うと余計に憤慨しそうなので、ハルオは黙って首を傾げた。

「この場合、私より君の方が普通にすごいんじゃないかな。ダイエットに失敗する人だって少なくないんだから」

「え、私? 私は別にすごくないよ」

「そうかな?」

 思わせぶりに笑うと、ワカナは怪訝な顔をした。それから気を取り直すように、パールハールの様子を語り始めた。


 翌日、ワカナの待つ鳥かごに、ハルオはSOFを連れて行った。手動車いすを押してベンチに近付くと、ワカナは目を見開いて驚いていた。

 車いすに乗るのはアーネスト、八歳から二十四年間施設で暮らしている。今は三十二歳だ。

 彼は少しぎこちなく口角を上げた。

「はじめまして。アーネストです」

「え、あ、はい。はじめまして。ワカナです」

 ワカナは戸惑った顔で挨拶する。ハルオは改めて紹介した。

「彼は君の隣の個室に住んでいるんだ」

「え? そうなの?」

「はい。そうです。あなたのことは知っていました。廊下を歩く音がしていました。三年前から、ときどき。この一年半は毎日」

 ずっと感情を出さずに暮らしていた彼は、母国語なのに片言のように話す。

「自分以外にもSOFがいるのだと、あなたの足音で実感できました。気になっていました」

 ワカナは黙って聞いていた。

「先生に会ったとき、驚きました。SOFなのに働いている。話すし、笑うし、驚くし、怒る。――鳥かごではそれが自由にできるのだと聞きました。私も外に出たいと思いました」

 最初は鳥かごまで眠らせて車いすで運んだ。鳥かごでは、感情の開放と遮断、感情の強さとSOF範囲の関連性を体得することを目指した。帰りは起きたまま戻ることを繰り返し、段々とガーディアンの規定範囲に慣れてもらった。

 ある程度慣れたころ、歩行訓練を始めた。長らく外に出ていなかった彼は、筋力が衰えてしまい、歩くにはリハビリから始めないとならなかった。トレーニング棟はワカナだけではなく、彼にとっても役立った。

「リハビリは辛いです。でもあなたが毎日廊下を歩くのを聞いて、励みになりました。それに、あなたはトレーニングをしているとも聞きました。一緒にがんばっているような気持ちになりました」

 彼のプログラムを始めたのは、カドランダにハルオが来て半年経つか経たないか。ちょうど一年ほど前だ。

 アーネストは車いすの肘掛を支えに立ち上がる。ゆっくりとひきずるように足を動かし、数歩進んだ。

「少し歩けるようになりました。あなたのおかげです」

 ワカナはぽかんと口を開けて、アーネストを見上げていた。

 先日やっと歩けるようになった彼は、まずワカナに会いたいと言ったのだ。

「ありがとう」

 アーネストは最初より自然に、唇に笑みを浮かべた。

 彼を支えベンチに座らせると、ハルオはワカナを振り返った。

「君だってすごいって言っただろう?」

 微笑むと、ワカナは勢いよく立ち上がり、

「すごいのは、私よりアーネストさんでしょ!」

 大きな声を上げ、アーネストを驚かせた。




終わり

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