第三章 鳥かごの外で(14)

 そのとき、ユートはマリエの状態をそれほど深刻には考えていなかった。ヨシカワもそうだったのか、気を回す余裕がなかったのかはわからないが、全員でマリエの部屋に移動するのを彼は止めなかった。

 部屋に入ると、先に入ったヨシカワがベッドの脇の椅子に座ってマリエに話かけていた。

「気分は?」

「……はい……」

 いいとも悪いとも言わず、マリエは天井を見ていた。力ない声と精気のない視線が、初めて施設を訪ねたときを思い出させて、ユートは背筋が冷えた。

「マリエ」

 ヨシカワの隣に立ち、そっと呼びかける。マリエはびくりと震えた。きつく目を閉じると、目尻から涙が一筋落ちた。

「大丈夫か?」

 ユートの問いかけに、マリエは両手で顔を覆った。

「先生……」

「ん? 何?」

「施設に帰りたい」

「ああ、そうだね。準備しよう。もう眠っておく?」

「はい……」

 マリエに無視されたユートは途方に暮れた。もう一度声をかけようにも言葉が出ない。

 立ち尽くすユートにヨシカワが無言で首を振る。それから、彼は振り返って、カオリを見た。

「そういえば、カオリさん、ご婚約されたんですか?」

「え? え、ええ。はい」

 突然の話題にカオリは戸惑いながら、答えた。ヨシカワは構わずに、問いを重ねる。

「それはおめでとうございます。で、お相手は?」

 マリエが短く息を吸ったのが聞こえた。ヨシカワは彼女の腕に手を添える。

「うちのシェフのフジモトですわ」

 フジモトはコンクールで準優勝の好成績を修め、先日カオリの父親に結婚の挨拶をしたらしい。ユートが予想した通りオオヤマ氏は反対することなく、二人の結婚はあっさり認められたそうだ。ユートがカオリのエスコート役に駆り出されることももうない。婚約披露パーティは来月の予定で、ユートも招待されている。

「え……え、と……? え?」

 マリエが驚いた様子で、顔を見せる。さっきの怯えた表情はもうなかった。

「だってさ」

 ヨシカワが笑う。

「どうする? もう帰る?」

「……はい。帰りたいです」

 幾分落ちついた声で、マリエは言った。胸の上でぎゅっと手を握りしめて、ユートを見る。その顔はまた強張っていた。

「ユートさん、倒れてしまって、ごめんなさい」

「いや。気にしないでいい。パンの評判は落ちてないから、安心してくれ」

「……良かった」

 濡れた瞳で見上げて、マリエは少し頬を緩めた。その血の気が引いた白い肌を温めてあげたくて、手が伸びる。察したヨシカワが立ち上がって、ユートを遮った。

「大丈夫そうなら、先に何か食べておいて。その間に、帰る準備をしておくから」

 マリエがうなずくのを見て、ヨシカワはユートの肩を押して部屋を出る。カオリとエリーも続いた。

 マリエと話すタイミングがなかったエリーが、閉まったドアを振り返った。カオリが彼女の肩を抱く。

「私から伝えておくわ。気になるようなら、保護施設に面会に行けばいいし」

「それがいいと思いますよ。うちの施設は、他と違って、面会申請した相手以外にも会えますから」

 ヨシカワがそう言うと、エリーは驚いたように顔を上げた。

「ご存じなんですか?」

「当然です」

 二人の話についていけず、ユートは口を挟む。

「何のことだ?」

「トワダ嬢は、SOF保護活動に興味があるそうなんですよ。うちの施設に問い合わせいただいたって聞いてます」

 エリーの代わりにヨシカワが答えた。ユートは納得する。

「そういえば、うちの商品も個人的に興味があるとおっしゃってましたね」

 慈善事業としてSOF保護活動を支援する人はたくさんいる。マリエのことを知らない人からは、ユートの行動もそういう風に捉えられていた。

「ええ、そうなんです。今日はあまり見れなかったんで、また改めて拝見させてください」

「もちろんです。それなら、ぜひパールハールの保護施設も見学された方がいいですよ」

 エリーは「そうさせていただきます」と微笑み、挨拶してからカオリと部屋に戻って行った。念のため、警備員に付いて行かせる。

 ユートはヨシカワに目をやった。彼は予想していたのか、ユートが口を開くより前に肩をすくめた。

「なぜカオリの婚約のことを聞いたんだ?」

「あの映像から読めた言葉が他にもありましてね。カオリさんの方を見たあとで、『婚約』と言った。それから『知らなかった』。『愛人』がどうとか……」

 ユートは顔をしかめる。ヨシカワは軽い口調で、

「大方、カオリさんとユートさんが婚約するって聞かされたんじゃないですかね? それで、『お前なんか』せいぜい『愛人』どまりだ、みたいなことを言われたんじゃないですか。そういうこと言いそうな感じでしょ、あの人」

「それをマリエは信じたのか?」

 ユートは少なからず傷ついた。ユートはマリエに好きだと告げたのに。忘れてくれとは言ったが、本当に忘れてしまったのか。そもそも自分の気持ちを信じてくれたのかどうか、ユートはずっと疑問に思っていた。

「ユートさん、そこじゃなくてですね。……カザマの誤情報で、マリエは倒れるほどショックを受けたんですよ? 意味わかります?」

「俺に他の女と結婚してほしくないってことか!」

「前向きに解釈すれば、そうなりますかね」

 ヨシカワはユートの肩を軽く叩いた。

「良かったじゃないですか。あんなの作っちゃってふられたら目も当てられないですからね」

「まあな」

 今回の件で、ヨシカワとはSOF保護センターに一緒に出向くことが何度もあり、ユートが進めている新事業の計画も話していた。

「どこまでできてるんですか?」

「もうすぐドームが完成する。そうしたらマリエに話す予定だ」

「応援してますよ」

 ユートは今日の披露会で、同じ言葉を何度か言われた。どうやら、ユートがマリエを想っていることが皆に筒抜けになっているようだ。これでふられたら本当に目も当てられないだろうな、とユートはため息をついた。

 そのことで、ずいぶん前にカオリにぼやいたことがある。保護施設で食事会をしたあとだ。ハマモトやトウドウもユートの気持ちを察しているのが不思議だった。

「なんで、皆、俺の気持ちに気づくんだ?」

「だって、あんた、マリエの前ではかっこつけてて、それなのにすごく気を使ってて。笑っちゃうくらい、他の女の前と全然違うじゃない」

 呆れた顔で指摘するカオリに、ユートは憮然とした。

「それじゃあ、なんでマリエには伝わらないんだ?」

 好きだと言ったら、嘘だと言われた。ものすごく真剣なのに、気まぐれだと思われている気がしてしかたなかった。

「女に囲まれて不機嫌に追い払ってる普段のあんたを知らないからでしょ?」

「普段の様子を見せたら、マリエにもわかってもらえるだろうか」

 ユートが腕を組むと、カオリは馬鹿にしたように言ったのだ。

「嫌われるだけだと思うわよ」

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