第三章 鳥かごの外で(7)

「お客さん、入ってきたそうです」

 壁の内線電話を切ったミドーがそう言った。マリエはうなずいて、緊張で硬くなった表情を意識して解く。

 披露会の会場は、ダンスホールにもなる大広間だった。パールハールで一番高級な『ミツバ・クラシック・ホテル』。マリエが行き来できる場所は、この大広間と厨房、SOF用に改装された客室だけだ。しかしそれだけを見ても、建物全体が工芸品のような、有機的で重厚なデザインにはため息が出るばかりだった。これがユートのいる世界なのか。自分とは本当に何もかも違うのだと身に染みて思い知らされた。

 名前の通りのクラシカルな見た目とは逆に、設備は最新式だ。壁に空調管理や防犯のための電子機器が埋め込まれていると聞いて、うっかり壁際には近寄れなくなってしまった。廊下と階段はひたすら真ん中を通っていたマリエだった。

 大広間の後方、バックヤードに通じるドアの前を特殊ガラスで区切って、パンづくりの実演ブースにしていた。マリエと助手のミドーの二人は、朝からずっとここでパンを焼いていた。ブースの外から中は見えるけれど、中から外は見えないし音も入らない。客がいても、考えなければいないのと同じだ。

 マリエは一度息を吐く。見上げると、ガーディアンのシロフクロウ――ポチが旋回していた。保護施設では個室と鳥かごや調理棟の間の移動でしか世話にならないから、こんなに長時間一緒にいるのは初めてかもしれない。ポチがくるっと首を回してマリエを見た。マリエは軽く手を振る。今、ポチの映像はこのホテルの一室に送られている。そこで見ているのは施設から付き添ってくれているヨシカワだった。

「マリエさん、お願いします」

 ミドーに声をかけられて、マリエは石窯を見る。施設で使っている石窯とは別のものなので、熱の伝わり方の癖が微妙に違い、昨日ここに着いて最初に焼いたときは少し手間取ってしまった。

 温度計と湿度計を確認して、窯内に霧吹きをかけて、プチバゲットの乗った天板を中に入れる。昨日から焼いてわかってきたちょうどいい場所に置き、扉を閉める。

「二十分で」

 そう言うと、ミドーはタイマーをセットしてくれた。施設で試作をしているときから砂時計はやめて、ミドーにタイマーを使ってもらうことにした。マリエがうっかり触らないように壁のホワイトボードに、オーブン用や発酵用などいくつも貼り付けられている。

 そのうちの一つが鳴る。

「一番の窯です」

 ミドーにうなずいてから、マリエは扉を開ける。見たところ問題なさそうなので、ミドーにあとを任せる。これは施設で焼いておいた分を温め直していたものだ。

 今日は石窯もコンロも三台ずつある。全部使わなくても出来る範囲で構わないと言われていたけれど、マリエは次々焼いていった。

 ミドーに内線で呼ばれてパンを取りに来た配膳係に、客の様子を聞く。

「お客さん、どうですか?」

「マリエさんがかわいいって、皆さんおっしゃっていますよ」

「は? いえ、あの、そういうのじゃなくて」

「シロフクロウも人気です」

 マリエよりも十は年上に見える落ち着いた雰囲気の男性が真顔で冗談を言うから、マリエは思わず微笑む。緊張していて吹き出さなかったのが幸いだ。

「だめですよ。今は笑わせないでください」

「そうですよ。僕だっておもしろいことを言わないように我慢してるんですから」

 ミドーが真面目に言うのもおかしい。

「社長の挨拶が終わった段階で、まだ食事は始まっていないんですよ。次のパンが焼けるときには、パンの評判も仕入れてきますので楽しみにしていてください」

「はい。ありがとうございます」

 配膳係の男性が去って、厨房に渡す洗い物を片付けながら――さすがに流し台を大広間に設置することはできなかった――、ミドーはマリエに聞く。

「マリエさんもあとで披露会に出るんですよね?」

「いちおう、そういうことになっているけれど」

 ドレスも用意してもらって、髪や化粧を整えてくれる人も頼んである。出ると言っても檀上で紹介されるわけではなく、最低限の必要な人に挨拶するくらいだ。それでも、本当に会場に出て行って大丈夫なのか、自信はなかった。

「ちょっと行って、無理そうだったらすぐ帰ってくればいいんですよ」

「皆そう言うけれどね」

「うちのマネージャーだっていますし、ミツバの御曹司さんだっているんでしょう? マリエさんのお父さんだって」

 鳴ったタイマーを止めて、「三番の二次発酵です」と告げてから、ミドーは続ける。

「お客さんの反応を直接見れる機会って大切ですよ」

「うん、それはわかってる」

 マリエは小さくうなずいてから、パン生地を扱うため話を打ち切った。

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