第三章 鳥かごの外で(6)
披露会の二週間前、やっと時間が取れたユートは施設を訪れた。日帰りで往復する強行軍だった。
管理棟の受付で偶然ミドーに会い、今日はパンづくりが休みで、マリエは鳥かごにいると聞いた。マリエの助手にカオリとフジモトがつけたのは人の良さそうな少年だった。なんで男を、とカオリに抗議したら、力仕事を任せられるでしょ、と返された。
「いちいち嫉妬するのやめなさいよ。見苦しい」
「嫉妬じゃない。心配だ。作業中はずっと二人なんだろう」
そう言いながら、本当にそのとおりだと不安が募る。
「もう一人女性をつけた方がいいんじゃないか」
「はぁ?」
カオリには冷たい視線を向けられた。
それでユートは、一度パンづくりを見学した。ミドーはマリエを職人としていかに尊敬しているか語った。聞いてもいないのにそんなことを説明するあたり、彼はユートの見学の目的を把握しているとしか思えないのだが、深く考えないことにした。作業中の二人を見ていれば、ユートの心配は杞憂だったとわかる。安心はしたものの、マリエの作業の先を見て阿吽の呼吸で必要な道具を用意したり、二人にしかわからない表現でパンの出来を話すのを見せつけられるとそれはそれで不愉快だった。しかし、マリエから器の小さい男だと思われるのは我慢ならず、ユートは必死に飲み込んだのだった。
鳥かごの入り口のアーチの根本に、いつの間にか蔓薔薇が植えられていた。ユートの腰丈くらいの苗木だったけれど、何年かしたら入り口のアーチが薔薇のトンネルになるだろう。マリエの計画だった。不自由な環境でも、できるだけ楽しくすごそうと考える彼女が、いつもまぶしかった。
ひるがえって自分はどうだろうか。親から命令されたわけではないけれど、ミツバの嫡男として、子どものころから将来は決まっていると思っていた。別の選択肢など考えたこともない。納得して今の職に就いてはいる。しかし、積極的に自分で選んだ気はせず、流された結果と思えなくもなかった。マリエに出会って初めて、自分の現状を恥じる気持ちが生まれた。こうやって自分が変わっていくのが心地良くもあるのが不思議だった。
ベンチにはマリエとチヅルとヨシカワがいた。チヅルは相変わらずレース編みをしている。女物のレースなど興味はないが、子どものころから一級品を見てきたため見る眼はある。彼女のレースが素晴らしいものだというのはユートにもわかる。
チヅルの隣に座るマリエは、彼女の肩に頭を載せて寝ていた。
「マリエは寝てるのか」
「開口一番それですか」
二人の向かいのベンチに座って何かの書類を読んでいたヨシカワが呆れたように言った。
ユートはマリエの隣に半ば無理やり座る。マリエの体を自分の方に寄りかからせて、チヅルの肩から彼女の頭を引き取った。チヅルは手を止めてユートを一瞥した。最初は驚いた彼女の無表情にも、何度か会ううちに慣れた。それに、マリエに対してはわりと言葉を発するし、微かに表情が動くのだ。
「レースが編みにくいでしょう?」
チヅルは無表情のまま小さく首を振って、また手元に視線を移してしまう。どういう意味なのかわからなかった。何も言わないからこれで構わないんだろうと解釈して、ユートはマリエを見る。よほど疲れているのか身じろぎもしない。頬にかかる髪を除けてやると甘い匂いがした。髪を指に絡めると、するする滑る感触が気持ちいい。
「ユートさん」
ヨシカワが責めるような口調で名前を呼ぶ。
「なんだ?」
「なんだじゃないですよ。あなた案外手が早いんですね。自覚あります?」
「失敬な。寝ている女性に何かしようなんて思わない」
「その『何か』の内訳が、僕とあなたで違うような気がするんですがねぇ。髪に触るくらいいいだろうって思ってるでしょ」
「だめなのか?」
驚いて尋ねると、チヅルがこちらを見た。無表情なのは変わらないのになんとなくとげとげしさを感じる。
「ああ、申し訳ない。髪にも触らないようにする」
両手を挙げてみせると、チヅルは顎を引くようにして少しうなずいた。それからテーブルの上のハサミを取り上げ糸を切る。今度は針を手にしばし何かやっていたかと思うと、出来上がったらしく、レースを広げてヨシカワに見せた。濃い緑の糸で編まれたリボン状の長いレースだった。
「いいね。綺麗だ」
ヨシカワが目を細める。優しげな笑顔は初めて見る種類のものだった。
「マリエも気に入ると思うよ」
チヅルはふいにユートを見て、唇の前で人差し指を立てた。
「彼女には秘密なのか?」
仕草で察して、ユートは、自分もマリエには黙っておくと約束する。
少し気になってユートはヨシカワに顔を向けた。
「あなたたち二人は恋仲なのか?」
「恋仲って。さすが公爵令息は古風な言い回しですねぇ」
そう揶揄され、はくらかされそうになったのに気づいて、ユートは言い直す。
「デキてるのか?」
「ぶっ。それはそれで、ものすごく違和感が……」
吹き出すヨシカワに、ユートは不機嫌をあらわにする。
「全く、何なんだ。……まあ、その件はもういい。言いたくないなら聞かない」
自分が話題になっているのにチヅルは全く構わず、レース編みの道具を片付けている。そのまま立ち上がって去ってしまった。ユートが何か言う隙もなかった。
「気を悪くしたかな。謝っていたと伝えてもらえると助かる」
同じく立ち上がったヨシカワにユートは伝言を頼む。彼は苦笑した。
「彼女は何とも思っていませんよ。大丈夫です。自分のことはほとんど気に留めないんで」
歩いていくチヅルの背を見遣って、ヨシカワは言う。珍しく真面目な表情の彼に、ユートがかける言葉を考えていると、彼が先にこちらを見た。
「さっきのですがね。恋仲でもないし、デキてもないですよ。僕にはあなたほどの勇気はない」
「いや、そうは思えないが。形が違うだけだろう」
セントラルにある保護センターに披露会の件の許可を取りに行ったときだ。マリエの移動を渋るセンターの所長に、ヨシカワは熱く訴えた。
「これから、絶対にSOF保護の方針が変わります。きっかけを作るのはマリエです。一度、うちの施設に来てみてください。もう保護という名目で閉じ込めるだけの時代は終わるんですよ。どこまで自由にすごしてもらえるか、それを模索する段階に来ているんです。このディーランサの保護センターが、先陣を切れるんですよ。――本部の保護機構への栄転も可能なんじゃないですか?」
最後にはうまく乗せて、許可を取り付けたのだ。
「俺のは全部、自分のわがままだ。マリエじゃなければ何もしなかっただろうな。あなたのはSOF全体を考えての行動だ」
そう言うと、ヨシカワは一瞬目を瞠った。それから猫背になって白衣のポケットに両手をつっこむと、自嘲するように唇を斜めにした。
「一人の女性相手には臆病なんですよ、僕は」
そして、忘れず念を押していった。
「いいですか。チヅルを送ったらすぐ戻ってくるので、大人しくしててくださいね。マリエに何かしたら蹴りますからね」
それでいてヨシカワは三十分くらい戻らず、マリエの髪の甘い匂いを近くで感じながら、ユートはかなりの忍耐を強いられたのだった。
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