第三章 鳥かごの外で(5)

 披露会の三月までは慌ただしく過ぎた。

 チヅルは快く――いつもの無表情だったけれど――了承してくれたので、パン工房の名前は『ドン・ラ・カージュ』になった。

 ユートは、披露会の会場になるパールハールで一番大きなミツバのホテルを、その日の前後だけSOF保護施設に貸し、保護施設の敷地扱いにすることでセンターの許可を取った。ホテルの一室にSOFセンサーと睡眠ガス発射装置を設置して、施設の個室のように改装して、マリエがパールハールにいる間、その部屋ではガーディアンなしですごせるようになる。披露会の会場ではガーディアンをつけて行動し、パン作りの実演は話していた通り、外部と遮断されたブースで行うことになった。

 保護施設からホテルへの移動の間は、マリエは眠らされる。これはSOF保護機構で決まっている世界的なルールだ。しかし実際、あまりSOFの移動は行われないから、センターはマリエの移動を渋ったらしい。詳しくは聞かなかったけれど、ヨシカワがセンターの職員を説得したとユートが言っていた。

 カオリとは何度も打ち合わせをした。カオリが経営する三ツ星レストラン『ミネヤマ』のシェフであるヒサシ・フジモトと、同じく料理人見習いのミドー・トモベを紹介され、三人の前でパンを作って見せた。

 最初にカオリと会ったときに話に出たのはオーガニックレストランだったが、マリエが作れる量を考えたら、オーガニックレストランで扱うには少なすぎるらしく、『ミネヤマ』で限定メニューとして出すことになった。披露会で宣伝して、その直後から提供が始まる。披露会でよほどの失敗をしなければ大丈夫、とカオリは請け負ったが、マリエはやはり不安に思っていた。そんなにうまくいくんだろうか。

「基本は家庭料理なんだな」

 三十代半ばのフジモトは、腕組みして言った。気難しげな顔で言われると非難されている気分になる。

 びくびくするマリエに、カオリが笑顔を向けた。

「この人、こんな顔だけど別に怒ってるわけじゃないのよ」

「最初はすごく怖いんですよね」

 ミドーも言うからフジモトは眉を寄せた。ミドーは十六歳で、見習いになって一年だという。マリエと同じくらいの背丈の華奢な少年だった。

 フジモトは変わらず仏頂面で、

「レシピは?」

「元は市販の本から。それを自分でアレンジしました」

「書き起こしてはいないのか?」

「材料のメモくらいですが」

 シライ家から調理器具と一緒に父に持ってきてもらったノートを見せる。ずっと昔に書いたものだ。それを見たフジモトは「大雑把だな」とまた腕を組んだ。

「でも、味が一定なのが不思議だ。……発酵とか焼き加減の見極めはどうやってやっているんだ?」

「今日の室温でだいたいの時間を考えて、あとは見た目でなんとなく」

「そういえば、生地や湯の温度を測らなかったみたいだが」

「あ、すみません。温度計はあるんです。でも、触ればだいたいわかるので」

 マリエが、アンティークの雑貨のようなアナログの温度計を見せると、フジモトは唸った。

「経験が違うのか」

「八年やってたんだから、ミドー君よりよほど長いじゃない」

「パンづくりとは関係なくて、電子機器を使えなくても不便がないように、父と訓練したんです」

 マリエがそう言うと、三人とも納得した顔でうなずいた。

「発酵は酵母の働きだから、生き物みたいなものなんだ。一つ一つ目で見て触れて向き合うことが味に影響しているんだろう。機械ではこうはいかない。今はイースト菌か?」

「はい、そうです」

「軌道に乗ったら、自家製酵母も研究してみたらどうだ? 参考になる資料をあとで送ろう」

「ありがとうございます」

 それからフジモトは、それでも数値は記録したほうがいいとアドバイスしてくれた。

 当日に用意できる種類と個数を相談して、事前に保護施設で作っておくものと実演で作るものを決めた。事前に焼いた分は、カオリが手配する保存車で輸送する。マリエは前々日には施設を出発しなくてはならない。予定通りに着けば、前日に実演分の生地の仕込みができるし、可能なら披露会で使う石窯で一度焼いてみたい。

 ミドーはマリエの助手につくことになった。申し訳なく思ったのだけど、カオリやフジモトの指示――『ミネヤマ』の方針――だし、ミドーも「いろんなことを経験したいんです」と言ってくれ、マリエは受け入れた。

 それは、保護センターとの間に問題が起こったせいでもあった。

 チヅルのレースが人気になって売り上げが伸び、マリエのパンも売れるのではないかと、センターは考えたようだった。今まで保護されたSOFは税金と寄付金で養ってもらっていた。それが、自力で稼いでいるのはおかしいのでは、ということだ。それで、SOFの経済活動を制限するかとなりかけたのだけれど、ユートやヨシカワが交渉してくれて、一定以上の収入があるSOFは施設に入居費を払うことでまとまった。運営費のことを考えると、センターとしてもその方が良かったのだろう。

 マリエはまだ収入はなかったから入居費は払わなくてよかったが、パン作りで使う光熱費をセンターに納めないとならなかった。そのため、カオリに『ミネヤマ』の料理人として雇ってもらい、材料費や光熱費、ミドーの滞在費などは『ミネヤマ』の経費として出してもらうことになったのだ。

 ミドーは管理棟に部屋を借りて、マリエのパン作りを手伝ってくれた。管理棟の調理室の冷蔵庫では距離もあって不便だったため、調理棟に一室増室してもらい、SOFが使えない機器を入れた。マリエはもちろんその部屋には入れないため、必要なものがあればミドーが出したり、作業したりしてくれる。調理室の空調は湿度も設定できるように変えてもらい、温度と合わせてデータを取ることにした。

 ミドーが来てから二月の半ばくらいまで、カオリやフジモトが選んだ材料を試してみたり、記録をつけながら味の精度を高めていく作業を繰り返した。週に一度は焼いたパンを『ミネヤマ』に送り、味を確かめてもらった。

「マリエさんは、重さもわかるんですか?」

 マリエが無造作に切り分けた生地を量るとほぼ等分になっているのを見て、ミドーは驚いていた。


 朝と夕方の数時間は、息抜きも兼ねて畑の作業をした。でも、パンを作り始めてから畑の方は滞りがちになってしまった。そんなマリエを手伝ってくれたのは、意外にもルウコだった。モトヤとハルオも巻き込んで世話をしてくれたおかげで、ブロッコリーや小松菜、ほうれん草などの冬野菜が収穫できた。これは施設の予算内の野菜だ。肥料だけはマリエが夏以降に試行錯誤していたものを使ってみたけれど、劇的においしくなった気はしなかった。パンのことで訪ねて来たカオリに食べてもらっても、やはり合格点はもらえなかった。

 土曜と日曜はパン作りを休んで、今までのようにSOFの皆と菓子を焼いた。

 出来上がった焼き菓子を持って久しぶりに鳥かごのベンチに座る。ドームの気温は冬の一番寒い時期を抜けた。雪を降らすことができる特殊仕様のドームもあるけれど、ディーランサで使われている一般的なドームは降雪機能がない。マリエは空調の冷たい風をマフラーで防御しつつ、まだ長時間は外にいられないなと思いながら、ミルクティを飲んだ。

「パン作ってばっかりで、マリエが鳥かごに来ないからつまんねぇ」

 モトヤが愚痴ると、ルウコが腰に両手をあてて反論する。

「何言ってるの! マリエが成功したらあたしたちだって自由にいろいろできるようになるんだから!」

 そんな風に思われていたなんて考えもしなかった。驚くマリエに、ルウコはキラキラした目を向ける。

「あたし、応援してるからね!」

「うん。ありがとう」

 内心では責任重大でどうしようと思いながら、マリエは微笑んだ。

「大丈夫ですよー。マリエさんのパン、すごくおいしいので」

 休んでいて構わないと言ったのに、毎回参加してくれるミドーが太鼓判を押す。外でずっと生活していた彼がそう言ってくれると、少し気が楽になる。

「できた」

 チヅルが短く言って、レースを両手で掲げる。隣に座るマリエに向かって翳すから、それが何なのかすぐにわかった。

「パーティのドレスに付けるやつ?」

 チヅルはうなずいて、手を回してマリエの首にレースをかけた。大小の薔薇の花が編みこまれた大きなつけ襟だ。叔母はデザイナーを連れて採寸に来てくれ、チヅルにレースを発注した。

 チヅルは襟の一ヶ所を指した。

「鳥」

「本当だ。かわいい」

 薔薇の枝に止まる横向きの小鳥は、SOF保護運動のシンボルマークの鳥に少し似ていた。ユートのミツバなのか、クローバーを嘴にくわえていた。

 大きな黒い瞳がマリエを真っ直ぐに見つめ、一度瞬きをした。そのままぎゅっと抱きしめられて、マリエは驚く。

「がんばって」

 マリエの耳元で、チヅルが小さく、でも力強く言った。

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