第三章 鳥かごの外で(4)

「本当に惜しいわ」

 ため息をつくようにカオリが言った。

「あなたのパン、どうにかして取り扱いたいのだけれど」

 デザートのプリンと紅茶を用意するのにカオリもついてきて、石窯を見せた。発酵の手順もざっと説明すると、しきりと感心していた。

「睡眠ガスの件を理解してくれそうな客にだけ提供するのは?」

 ユートがカオリに言う。

「そうよね。大々的に売り出さずに特別メニュー扱いで……。もし取り扱うとして、一日にどのくらい焼けるの?」

「カンパーニュなら数個でしょうか。でも、私以外もここを使うので、毎日は難しいです」

「ええ、もちろん、毎日働かせるようなことはしないわ」

 カオリは考え込むように黙る。

 父がマリエに尋ねた。

「睡眠ガスの件とは?」

「ほら、SOFが作ると睡眠ガスがかかるんじゃないかってお客さんが不安に思うでしょ? 食べ物だから」

「ああ、そういうことか。その場で作って見せてやれば理解してもらえるのにな」

 父はマリエに言ってから、ユートに顔を向ける。

「三月の披露会で、コンロと石窯の実演をマリエにやらせるのは無理だろうか」

「ええっ!」

 隣で聞いていたマリエが大声を上げてしまう。一方でユートは動じることもなく、

「できると思いますよ。方法を考えてみます」

「マリエが実演するなら、披露会の料理はうちに担当させて」

 カオリも言い出したため、マリエは慌てて話に割り込む。

「待って。そんなのできるんですか?」

「SOF保護のルールの方は抜け道を探してみるが……君の方は? 実演は難しいだろうか?」

 ユートに聞かれて、マリエは考える。人前で料理する? 知らないたくさんの人たちの前に出る? 想像もできない。

「わかりません……」

「やってみたくはない?」

「それは……」

 実演がうまくいけば、カオリのレストランでパンを扱ってもらえるかもしれない。そうしたら、自分でお金が稼げる。施設にいながら、外の世界に働きかけができる。――それはマリエの夢だった。

「やってみたいです」

 少しだけ声が震えた。隣の父がマリエの肩を叩く。

「マリエなら、ガーディアンの範囲でも料理できると思いますよ」

 ヨシカワが言った。トウドウもうなずいている。

「そうね。例えば、お客さんとの間にガラスか何かで仕切りを作って声が聞こえないようにしたらどう?」

「なるほど。それなら、客のいる外側からは見えるけれど、ブースの中からは外が見えないようにもできます」

「その方がいいです」

 トウドウとユートの提案にマリエが返事すると、ずっと黙っていた叔母が口を開いた。

「私は反対よ。そんなところに出て行ったら、マリエが見世物みたいになるわ。マスコミを呼ぶんでしょう? またあんな記事……」

「ハマモトさん。それはあとで説明させてください」

 ユートが叔母を遮ったけれど、マリエは聞き咎める。

「ユートさん、記事って何ですか?」

 言いよどんだユートに代わって答えたのはヨシカワだった。

「君がユートさんを助けたことが、大衆誌の記事になったんだよ。ミツバの御曹司を助けたSOFの聖女って」

「聖女? 私が?」

 自分のこととは思えない。たぶん実際にマリエの話ではないのだろう。会ったこともない人が書いた記事だ。

「お父さんや叔母さんは、その記事のせいで誰かに何か言われたの?」

「いいえ、それはないわ」

「私もないな。マリエの実名は出ていなかったし、否定的なものではなかったしな」

「それなら、良かった」

 マリエはほっと息をつく。自分のことで父や叔母が嫌な思いをしていないかが心配だった。

「私はどうせ外に出ないから、雑誌の記事なんて気にはならないわ」

「でも、マリエ。今はいいけれど、披露会は外でやるのよ? ユートさんは記事に出ているんだから、彼が兄さんと興した会社の披露会にあなたが出たら、すぐに皆関連づけて考えるわ」

「う、ん……それは……」

 以前、カオリと野菜の話をしたとき、SOFが作ったことを前面に出して売るのは嫌だと思った。

「助けたことを恩に着せて、施設の設備を整えてもらったり、特別に外に出してもらったりしていると思われるかな……。SOFの聖女じゃなくて、SOFの悪女って書かれたりして?」

 マリエは自嘲を込めて、わざと軽い口調で言った。

「そういうことは絶対にさせない」

 ユートが強く否定した。こちらに身を乗り出して言う。

「君の名誉は必ず守ると約束する」

 切れ長の目がマリエを真っ直ぐに見据える。彼の落ち着いた表情を見ると、ユートになら自分の運命をゆだねてもいいと思わされる。最初に会ったときからそうだった。

「野菜は難しかったけれど、あなたのパンなら、SOFだからって侮られない実力があるわ。食べればわかるのよ。睡眠ガスへの不安の解消は、作っているところを見てもらうのが一番手っ取り早いから、披露会はとてもいい機会だと思うわ」

 カオリも言った。彼女にパンを選んでもらったことは本当にうれしい。

 父はマリエの手を掴んで、ぎゅっと握る。

「お前の好きにしなさい」

 マリエは父の向こうに座る叔母の顔を見る。目が合うと、叔母は大きくため息をついた。

「やりたいの?」

「うん。やりたい。ここにずっと閉じこもってるだけじゃ嫌なの。……叔母さん」

「仕方ないわね……あなたがやりたいならいいわ」

「ありがとう!」

 マリエは父を押しのけるようにして叔母の手を取った。叔母はそれを握り返してから、きっとユートを見る。

「マリエを守ると言ったこと、忘れませんからね」

「もちろんです」

 誠意をもって請け負ったユートに満足げに笑い返してから、叔母は楽しそうに言う。

「それじゃあ、悪女なんて言わせないくらいかわいらしい衣装を作らなくてはね」

「え、衣装? 料理するんだから、コックコートじゃないの?」

「それはそうだけど、ドレスも作っておくのよ。実演したあとに着るの。せっかく外に出るんだから、パーティにも参加したらいいじゃない」

「ええーっ。叔母さん、言ってることがさっきと違うんだけど」

 マリエが呆れて言うと、カオリも叔母に賛成した。

「そうしなさいよ。あなたと話せば、誰も悪女なんて言わないわ。ユートが隣にいれば、完璧よ」

「まあ、カオリさん、あなたもそう思う? ユートさんは以前どこかのパーティでお見かけしたことがあるの。そのときと比べると、なんだか……」

「ええ。おっしゃりたいこと、わかりますわ」

 二人がうなずき合うのにマリエは意味がわからずユートを見た。ヨシカワがおもしろそうににやにや笑っているのも気になる。ユートは眉間に皺を寄せて、

「俺が隣にいて君を守るという意味だ」

「え、あ、はい……」

 父はどこか心配そうにユートとマリエの間に視線を往復させ、トウドウは苦笑していた。

「あの、パーティは大丈夫そうだったら参加するということで、とりあえずは実演の方だけ注力したいんですけど、いいですか?」

「ああ、もちろんだ」

 全員が今夜泊まる予定だったため、詳しい打ち合わせは明日になった。

 最後に、カオリがマリエに言った。

「マリエ・シライでもいいんだけれど、パン工房らしい名前が何かあるといいわね」

「そうですね……」

 マリエが首をひねると、ユートが発言を求めるように片手を上げた。マリエは苦笑して「どうぞ」と促す。

「『ドン・ラ・カージュ』は?」

 その名前をユートが出すとは思わなかった。マリエは驚いてユートを見つめる。彼はいたずらっぽく片方の眉を上げてみせた。

「あら、いいじゃない! ユートにしてはセンスあるわね」

「いや、俺じゃない。マリエだ。チヅルさんのレースのブランドにそう名付けたんだって聞いてないか?」

「そうなの?」

 カオリに聞かれてマリエがうなずくと、その名付けの場に立ち合わせた叔母が、

「チヅルさんに同じでいいか聞いてみたら?」

「たぶんいいって言うよ」

「私もそう思うわ」

 ヨシカワとトウドウにも後押しされ、マリエは微笑んだ。

「明日、聞いてみます。その名前、私も気に入ってるんです」

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