第三章 鳥かごの外で(2)

 調理棟――新しい建物はそういう名前になった――ができてから、マリエは週に一度くらいのペースでパンや菓子を焼いていた。チヅルは見ているだけだったけれど、ルウコやモトヤは一緒に作ってハルオもときどき手伝い、料理は新しい娯楽になっていた。マリエとしては、娯楽ではなく日常生活であってほしいのだけれど、やはり普通の食事は管理棟の調理室で作られていた。しかし実際のところ、全ての工程を一人でできるわけでもなく、管理棟の冷蔵庫に保存してあるバターなどはその都度クーラーボックスで運んでもらったりしていたから、仕方ないことだった。

「マリエが来てから、できることが増えたね」

 意外に不器用なハルオが、歪な形のクッキーを天板に乗せながら言った。

「私が来るまで、皆何してたの?」

 マリエが聞くと、隅のテーブルで見ていたチヅルが「レース」と短く答える。

「毎日走ってた」

 モトヤが言って、ルウコは珍しく小声で、

「あたしはほとんど寝てたわ」

「そっか……」

「マリエは第二のダニー・ウィングになれるんじゃないかって期待してるんだけど」

 沈みかけた空気に、ヨシカワの声が響いた。

「え? ダニー・ウィングってあのSOF保護運動の?」

 六十二年前のSOF保護運動が起こる以前は、SOFは保護対象ではなく研究対象だった。保護施設も研究施設という名前で、SOFは自由に個室から出ることもできなかった。施設の指示で個室から出る場合、ガーディアンがつくのは変わらないが、当時は単なる箱型の監視カメラで常に録画録音されていた。今は安全管理のため管理棟に映像は送られているけれど音声は拾っていないし、録画もガーディアンのSOFセンサーが反応した時点から遡って五分間記録されるだけだ。ガーディアンという名前になったのも保護運動の結果だ。鳥形のロボットになったのは、監視されている圧迫感を和らげる目的もあったけれど、保護運動のシンボルマークが鳥だったせいもある。

 保護運動のきっかけになったのが、世界的に人気の俳優ジョー・ウィングの息子ダニーだ。彼がSOFを発露したことでSOFが注目を浴び、一般人にも研究施設やSOFの扱いの実態が知られた。ジョーが訴えたこともあり、SOFの人権を守ろうと世界的な運動に広がったのだった。

「私にはそんな力ないですよ」

 マリエが言うと、ハルオが首を振った。

「少なくとも、このパールハール保護施設には、十分貢献してると思うよ」

 皆がうなずくので、マリエは少し困って、

「鳥かごも調理棟もユートさんの力ですよ」

「ユートさんを動かしてるのはマリエだよ」

 ヨシカワが言う。いつもの冗談めかした雰囲気が感じられず、マリエは戸惑う。

 ダニーが父親のジョーを動かしたのとは違って、マリエがユートをこれから先も動かせるとは思えない。食事会の約束をしたのは、好きだと言われ、それを忘れてほしいと言われる前のことだった。だから、たぶんこの調理棟が最後の贈り物だろう。

 そう思っていたけれど、マリエは何も言えずにいた。

「時間」

 助け舟は意外なところから現れた。チヅルに言われて見ると、予熱時間を測っていた砂時計が落ち切っている。

「チヅルさん、教えてくれてありがとう」

 マリエが微笑むとチヅルは無表情のまま立ち上がり、

「隣」

 それだけ言って出て行ってしまった。食堂でレースを編みながら焼き上がるのを待つのだろう。

「さてと! 生地並べたやつから持って来て」

 気分を入れ替えて、マリエはガスを止めてから石窯の扉を開くと、手近にあった天板を中に入れた。

 視界の隅で、ヨシカワがチヅルを追って出て行くのが見えた。

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